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ハロー!マイスウィートエンジェル!(4)

それから夜までのことをよく覚えていない。恐らくいつも通り何気ない時間を過ごしたのだと思う。ずっと覚えていられるほど変わったことなど何一つ無かったのだろう。

身にまとう空気の薄ら冷たさすら鮮明に思い出せるのは、まだ明かりもつけていない真っ暗な部屋に、コンコンと遠慮がちなノックが響いたところからだ。ドアの向こうに誰がいるのか、若者には皆目見当がつかない。すると、若者が返事もしないうちに「こんばんは」とよく聞き馴染みのある声がした。驚きのあまり、情けない音が喉をならした。


「待っていて、今開けるから」


転がるように玄関ドアに駆け寄り、ガチャガチャといつもより手間取りながら鍵を開けた。そうして、ノブを引っ張ると案の定そこには、あの彼女がいた。自然と頬が緩む。


「こんばんは、こんな夜更けに...」


しかし、彼女の瞳に宿した光が、その表情が、白く握られた手が次々と目に飛び込んできて、浮き足立つような気持ちはいつの間になり潜めた。


「どうしたんだ」


そう言いながら、耳を塞いでしまいたい衝動にかられた。きっと彼女が何を言おうとしてるのか、その言葉を聞いた先の未来のことを無意識にわかっていたからだ。「眠れないのか?」とか何とか言って、いつもみたいにあの本の話をちょっとして、そのまま彼女を家まで送って、「おやすみ」と笑いかけて、いつも通り明日を迎えたなら、なにも知らないままで、変わらぬ日常を過ごせるんじゃないかと思った。

若者の背後で扉がしまった。

彼女は僅かに瞼を痙攣させて、細く息を吐いた。


「結婚が決まったの」


にこりともせず彼女は言った。

若者は息を継ぐことも忘れて、大きく目を見張った。それからかろうじて、「いつ」と吐き出した。

正直、自分が何を言ったのかさえ若者は分かっていなかった。


「昨日、お父様から言われたの。背が高くて、ハンサムで、温厚な性格で、お金持ちな外国の貴族様ですって。でも、名前も顔も知らないわ。お父様、お金の次はブランドが欲しいみたい」


その話はきっと彼女にとってもあまりにも漠然としていて、部外者の若者にはますます現実味をなくして聞こえるのだった。


「式は半年後なの。この半年間で私、いっぱい準備しなきゃいけないの。二週間後には引っ越すわ」


そう言うと彼女は真っ直ぐとこちらを見た。

美しい鳶色だった。幾度となく見た瞳だった。その瞳には、彼女の強い決意が宿っていた。頭をガツンと殴られたような衝撃が若者を襲った。目眩もないのに、からだが支えられなくなって壁に手をついた。彼女はずっと若者に視線を合わせたままでいた。口を横に引き結んだその表情からは何もうかがい知れなかった。若者は初めて彼女を目に止めるのが耐えがたいと思って、うつむいた。そして、一言。一言、「そう」とだけ口をついてでて、それ以降は口が固く閉ざされた地獄の門のように、飛び出そうとしかけた言葉をことごとく押さえ込んでしまった。外界に飛び出そうと押し掛けてくるそれらを若者は知らないふりをした。一度存在を認めたら、堰を切ったように踊り出て、若者を飲み込んでしまうと思ったからだ。

しかし、突然、何か塊が若者に飛びついてきて玄関の扉に背中を打ち付けた。その塊はひどく熱を持っていて、柔らかかった。ふわりと甘い匂いがした。みずみずしい花の香りを、彼女はよく身にまとっていた。若者に飛び付いてきた塊の正体は、彼女だった。彼女は若者にひしと抱き着いていて、若者の胸に添えた手はわずかに震えていた。それが分かったとたん、若者の心臓はどっと音を立て始めた。彼女の熱をこんなに近くで感じたのは初めてだった。彼女にもそれが聞こえていてもおかしくない。ただ、髪の毛の隙間から除く小さな耳は真っ赤に染まっていたから、もしかしたら彼女の耳元では彼女の心臓の拍動がうるさいくらい鳴っており、若者の心臓の鼓動に気が付いていないかもしれないと思った。そうだといいなと思った。

ふと、彼女が言った。


「私、どこか遠くへ行きたい」


シーンと静まり返ったレンガ造りの冷たい廊下に木霊さえ残さず、その言葉は溶けて消えていった。


若者は彼女が何を言いたいのかわかった気がした。途端、胸が歓喜でうち震えた。

響き渡る黄金のファンファーレ!

彼女は俺を選ぶと決意したのだ!

それはまるで、からからに乾いた土へ水が染み渡っていくかのような心地だった。

喜んでこたえたかった。背中に手をまわして抱きしめたかった。そしてとびきりの一言を贈るのだ。

そう思って、手を伸ばした。

だが、伸ばした手が彼女に触れる前に、彼女と至るだろう未来が思い浮かんだ。

若者はしがない煙突掃除夫だった。煙突掃除夫の社会的地位なんて底辺の塵芥のようなものだ。一人分を稼ぐのが精一杯で、貯蓄など無いに等しい。手始めにこの町を出るとして、今はただでさえ働き口が少ない。流れ者に対する目はどこも冷たいに違いなかった。

若者はピタリと手を止めた。

全く正しい選択などきっと無いに違いない。問題なのはどちらの方がより正しくないかだと思った。だとすると、若者にとって彼女との未来を選ぶことは彼女との未来を手放すよりも正しくない気がした。だって若者は、彼女を抱き締めるには、あまりにも貧しく、無力だった。彼女と自分の人生を背負う勇気さえ、無かった。彼女が若者の預かり知らぬところで幸せになることよりも、彼女を自分の手で不幸せにすることの方がよほど怖かった。

ぐっと拳を握った。ちっぽけな若者のちっぽけな握りこぶしだ。日に焼けて浅黒く、しかも、シワとシワの間に入り込んでもはやとれなくなった炭で小汚ない。形も節くれだって、妙にぼこぼこしていて醜かった。

ふっと力を抜いた。

空中で静止していた腕が、だらりと垂れた。

瞼がピクピクと痙攣した。若者を訪ねてきた彼女の気持ちが痛いほどわかった。それがまた若者に自問自答させるが、若者はやはり同じ答えを出すほかないのだった。


「結婚おめでとう、カーラ」


胸の中の彼女がびくりと体を震わせた。


「君ならどこにでも行けるさ、でも、俺はこの町から出られない」


彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は信じられないものを見るかのように大きく見開かれていた。若者は一度深く息を吐いて、無理やり口角を釣り上げた。


「この町で、君がまた尋ねに来てくれるのを待ってるよ」


別れる最後の瞬間まで彼女を見ていたかったのに、言い終わる頃には分厚い膜が瞳を覆ってしまっていた。

彼女がそっと離れていくのを感じた。彼女が触れていた部分が寒くて仕方なかった。


「ありがとう。さようなら」


彼女はそうとだけ言うと足早に去っていった。

瞬きを一つすると涙が頬を伝った。

若者は彼女が角を曲がって見えなくなるまでずっとその後姿を見ていた。彼女は一度も若者のほうを振り向かなかった。



その後、彼女がいつ街を出たのか、それは定かではない。

ただ確かなのは若者が知らぬ間に、彼女は町からいなくなっていた。



それから間も無く、大きな戦争が起こった。

若者も志願して戦地に立った。ひどい戦争だった。その場にいるものの理性を奪う、すさまじい暴力。食料の欠乏。容赦のない寒さ、日照り、雨。近すぎる死。それらの責苦の中にある日々はさながら地獄そのものだった。

それをなんとか生き残った若者は、戦争が終わってあの街に戻った。

若者は運良く、読み書きの能力を買われて帰還後すぐ定職にありつけたが、戦後しばらくは、あちこちで戦の残り火が燻っていた。勝ったというのに、国は以前よりも貧しく、何も持たず、皆が皆飢えていた。そこから本当にゆっくりと国は復興を果たしていった。

そして10年が経ち、ようやく、復興から発展への転換が見えつつあったある日、前代未聞の大不況の煽りを受けた。深刻な資源不足、関税の引き上げ、物価の上昇。人々の暮らしは日を追うごとに再び貧しくなっていった。それと共に肌を突き刺すような緊張感が日に日に高まっていった。それはある日、遂に限界に達して_______再び、戦いの火蓋が切って落とされた。

この激動の時代を若者は息も絶え絶えに駆け抜けた。経験した苦難は深い皺となって体に刻まれ、酷使された体は段々と軋み、歪み、弱り。気がつけば、若者はもはや若者ではなくなって、すっかり年老いた老人となってしまった。


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