ハロー!マイスウィートエンジェル!(3)
それからというもの、彼女との距離は急速に縮まっていったように思う。翌日、若者が帰ると彼女の家の玄関先に彼女が立っていて、そこで密会の取り決めをしたのだった。若者の部屋の窓と彼女の家のバルコニーとに黄色いリボンを結びつけることが合図となった。合図があった次の日の、まだ町が寝静まっている早朝に若者と彼女は密会を行うのだ。
黄色いリボンが片方にしかないことも多々あったが、思いの外、密会は幾らか回数を重ねていった。いつしか互いの呼び名からは敬称が外れ、旧い友人の前のようにくつろげる場となった。リボンが揃ったなら若者は決して忘れることなく彼女を屋根の上まで連れていき、彼女は若者に読み書きを教えた。彼女はしばしば町の外の様子や他国について語ることもあった。彼女の父親は貿易商だった。貿易商と言えば巨万の富を持っているに違いないと若者は思った。それから、彼女はなぜこんな貧民街とさほど変わらない場所に住んでいるのだろうとも。彼女は若者の考えを察してか「いわゆる成金なの」と困ったように笑った。曰く、彼女が現在暮らしている家は彼女が幼い頃、父親と亡き母親と三人で暮らしていた家で、父親は商売が成功すると新居を建てて早々とそちらに移り住んだのだが、彼女はこの家を売り払うことを反対し、今は彼女とメイドが一人この家を使っているらしい。その話を聞いたあと、若者も同じように身の丈を話した。物心ついたときには母と二人で暮らしていたこと。若者が一人立ちするのを見届けたとでも言うかのように母が亡くなったこと。今は一人で暮らしていること。彼女は若者が話し終わるまで口を閉ざしたまま、徐々に白けていく空を見ていた。そして話が終わるとぽつりと「私って幸せ者ね」とこぼした。その時、若者は水平線の先に、頭のてっぺんをのぞかせた太陽をついとみすえていた。それから、「分からない」と答えた。
「だって人生は長いんだよ」
若者は一つ息を吸った。
「カーラ、君は今までの人生、皆より幸せを生きてきたかもしれない。でも、この先どんな時を過ごすことになるか、誰も知らない。俺は母さんと二人で暮らしてたときすっげえ幸せだった。でも、やっと、母さんに楽させてあげられると思ったら、母さんは死んだ。すごく悲しかった」
若者は少しだけ胸がキリキリと痛むのを感じて眉根に皺を寄せた。
「これからどうすれば分からなかったし、俺の人生、くそみたいだと思った。でもさ、カーラ。煙突掃除は楽しいし、屋根の上から見る景色はいつもきれいなんだ」
鮮烈な光が目をつく。眩さに思わず目を細めた。
「結局、幸せ者かどうかなんて人生最後の日が来るまで誰にも分からないんだよ。最後、死ぬって瞬間が来たときにようやく、幸せ者だったって自分だけが分かるんだ。だからさ、俺もカーラも、くっそ幸せな時間をいっぱい過ごして、幸せ者でしたって言えるといいよな」
若者が彼女に視線を移すと、彼女はこちらを見てはらはらと涙をこぼしていた。若者はぎょっとして、視線を左右に泳がせたあと、訳もわからず「えっと、ごめん」と謝った。彼女は鼻をすすったあと、若者を見つめたまま膝を抱えた腕に頭を乗せた。
「私、今くっそ幸せだわ」
その声は涙声で震えていた。若者は気恥ずかしさで顔に熱が集まるのを感じて、紛らわすように「俺も」と、くしゃりと笑った。
それから何回目のことだったか、とにかく彼女とあってから約二ヶ月頃だっただろうか。つまり、夏の終わりごろになって、若者に教えられることは無くなったと彼女は言った。そして、勉強を終えた記念にと、彼女は本をくれた。半ば強引に贈られたそれは奇怪で心踊る冒険小説だった。
若者は寝る間も惜しんで読みふけった。細やかで臨場感に満ちた表現は若者が知るどんなおとぎ話よりもはるかに若者の心を躍らせた。彼女は毎回、今はどこまで読み進めたのか、どう感じたか、あの屋根の上で日の出を眺めながら若者に聞いた。そして、若者の答えを聞くといつも楽しそうに笑った。それはひどく穏やかな時間だった。例えるなら夜闇の中、夢に落ちる寸前にほっと息をつくときのような、日々のせわしなさに埋没して簡単に忘れてしまうありふれた平穏。若者はいつの間にか彼女との日々を日常であると錯覚してしまった。その日々のすべてが奇跡であることを、いつの間に忘れてしまっていた。なにしろ彼女の存在は書物に記されたおとぎ話よりもずっと鮮やかで手を伸ばせば触れたにちがい無かった。日常であるならば、この先も続いていくのだと信じて疑わなかった。
ある日のことだ。
よく晴れた風の少し強い日だった。この日は彼女の家の屋根には上らなかった。裾の長い服を着た彼女は風に煽られたらひとたまりもないと思った。その代わり、彼女はバルコニーで、若者は隣家の屋根の上で、我が家のある建物越しに空が白けていくのを見た。
「私、この家にいるとき、よくこうして通りの様子を見るの」
不意に彼女が言った。彼女のバルコニーからは案外、若者の部屋の中は見えなかった。
「だから、あなたが通るのもたまに見てたのよ」
彼女はいたずらが成功した子供のように、くふふっと笑った。
「だって、あなたいっつも大きくて真っ黒なブラシとはしごを持ってるからすぐに覚えたわ。
それでね、りんごを紙袋いっぱいに持った小さなおばあさんが、りんごを道にばらまいちゃったことがあって」
通りを見下ろしながら、彼女は懐かしそうに目を細めた。と、不意に視線が若者へ向く。
「あなた、それを拾ってあげたでしょう?」
若者は肩をすくめて「さぁ」と目をそらした。本当は覚えていた。ただ、素直に肯定するのがどことなく恥ずかしかった。
「いつも屋根の上にいて、地面に降りたら人助けをするなんて、まるで、天使みたいって思ったの」
彼女は若者からようやく視線を外して「それだけ」とささやくように言った。
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