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ハロー!マイスウィートエンジェル!(2)

その日若者が家に着いたのはすっかり陽が落ちてしまってからだった。


扉をくぐり、鍵を閉めると、真っ暗で狭い玄関で、何故か窓を開けて外を見たい気がした。部屋の明かりも着けずに、リビングを通り過ぎると窓のノブに手をかけて覗き込んだ。

そこには、いつもと寸分たがわず、周りの建物よりも少しだけ頭とびぬけている女の家が星空にそびえたっていた。そして、或る一点にピタリと目が留まった。時が止まった。

きっと今鏡を覗き込めばこんな顔が映っているのだろうという顔が、若者の視線の先でまさにことらを見ていた。そして、若者よりも少しだけ先にこの状況が読み込めたらしいそれは、口角をゆるりと上げて、「こんばんは!」と呼びかけてきた。

その声に促されて若者は慌てて「こんばんは!」と返した。

そこには昼間の女がいた。女は昼間と同じ白い裾の長い服に身を包んでいて、部屋から洩れる光を背後から受けていた。そして、女のいるバルコニーは男の薄汚れた部屋よりも高い位置にあった。その姿は教会のステンドグラスに象られた天使のようだと思った。

女は、しかし、笑顔から一転して何やら慌てた表情で、「あの、ほら!今日は月が綺麗だったから!」と言うと、ほら!と若者の薄汚れた我が家の向こう側を指さした。


「そうですか!残念ながらこちらからは見えません!」


若者がそう返すと女は「すごくきれいなんですよ!えぇっと、ほらこんな感じな形で…」と上半身を倒して腕で月をかたどり、どうにかこうにか目一杯伝えようとする。それがあまりにも必死だったので、若者は声を出して笑った。


「笑わないでください!一生懸命説明してるのに!」


「すみません!…手はきれいになりましたか!」


「えぇ!言われた通りやってみたらとっても楽だったわ!ありがとう!」


その時、女は部屋の中から呼びかけられたらしく、後ろをふりかえった。女の父親かもしれないという想像が一瞬頭をよぎって、若者は一気に頭が冷静になるのを感じた。しかし、その後彼女の父親の影は全く見えず、代わりに女が再びこちらに顔を向けた。


「ごめんなさい!マーサがね!もう寝ろ!って!」


若者は密かに心中で胸をなでおろしながら「あぁ!おやすみ!」と言ったのだが、女が「ちょっと待って!」と遮った。


「また、私を屋根の上に乗せてもらえないかしら」


そう言った女の声は子供の約束のように、少しだけ声が潜められているが、かと言って秘密と言えるほどひそやかなものでもない不器用さがあって、若者はまた少しだけ笑った。


「あなたの頼みなら」


すると、女はバルコニーから身を乗り出して、「約束よ!」と大きな声を響かせて、若者も負けじと少し声を張り上げると女はこれ以上なく微笑んで「おやすみなさい」と明かりの中に消えた。


若者は女が姿を消した後も少しだけバルコニーを見つめたままでいた。






次の日も、若者は夜の闇の中で帰路についていた。遠くの繁華街は仕事終わりの酔っ払いでにぎわっているらしい。ぼんやりと明かりが漏れていて、耳を澄ませばジョッキのぶつかり合う音さえ聞こえてきそうだった。

若者はいつものように、我が家のある通りを仕事道具の梯子とブラシを肩に担いで、とぼとぼと歩いていた。我が家がもう間もなくに近づいて、ふと、若者は向かいのバルコニーをちらりと見た。もちろん、胸には一抹の期待があった。いや、正直、女の姿がそこにあるだろうことを確信してすらいた。しかし、バルコニーには女の姿は無いどころか、部屋の明かりは消えていて、特有の静けさが漂っていた。若者は足を止めて、少しの間、バルコニーをぼおっと見つめた。どうやら、人の気配は感じられないようだ。若者はすぐに、また歩き出した。歩きながら、梯子とブラシを肩に担ぎなおした。我が家の入る建物を前に、若者は再びバルコニーを振り返って見上げた。しかし、そこに女の姿は無いのであった。


次の日も、そこに彼女の姿は無かった。その次の日も同じだった。

そして若者は、三日目には確認すらしなくなっていた。


若者がようやく女と再会したのは、あの約束を忘れかけた頃だった。

夜闇の中、ぼうと通りを歩いていると頭上から若い女の声がかかった。何の気なしにそろりと顔をあげると、バルコニーから身を乗り出した女とピタリと目が合った。女は花が咲くようにして、満面の笑みを浮かべた。


「やっとあえた!」


若者は曖昧な笑みを返した。しかし、暗がりで女にはよく見えなかったのかもしれない。女は若者が何か言いさえしないうちに「早くお帰りになって!あなたのお部屋の窓を開いてくださいな!」とだけ言って、バルコニーの奥へ姿を消した。若者はその場に一人取り残されてからしばらく、彼女の後ろ姿を見送ったままでいた。かすかに開いた戸の隙間から暖かい光が漏れていた。傍若無人な態度に困惑こそすれど、不思議と怒りは沸いてこなかった。静かに鼓動が高鳴り始めるのを感じた。梯子とブラシを担ぎなおすと、彼女に急かされたまま家路を急いだ。


明かりもともさぬうちに窓を開けると、彼女の方はすでにそこにいた。


「これ、今から投げるから受け取ってくださらない?」


こちらに差し出された両手には何やら小さな包みの様なものが乗っていた。若者は「分かりました」とうなずいた。

そして、その小包は彼女の手から離れて中を舞い、若者の眼前へ。だが、少しだけ若者よりも遠く、どうにか手を伸ばしてつま先で掠め捕らえた。


「お見事」


お互いのつぶやきが重なった。次いで視線も重なって、笑みがこぼれた。

包みには紐が結び付けられていて、それは彼女の手元へと繋がっているようだ。紐をほどいて包みの中を確認すると黄色いリボンと手紙が入っていた。


“Yesだったら〇ってジャスチャーして!Noだったら×!”


顔をあげて彼女の方を見ると彼女は白い紙にランプをかざしていた。そこには遠目でも十分に見える黒い太字で文字が書かれていた。

彼女の期待に満ちた表情に反して若者は困ったような申し訳ないような顔をした。


「ごめんなさい。俺は字が読めないんです」


若者と彼女との間に沈黙が降りた。

そのうち彼女の方が先に「ごめんなさい」と消え入りそうな声を漏らした。


「あなたを傷つけるつもりはなかったの」


そう言う彼女の方が今の言葉に傷ついているように若者には見えた。若者はできる限りの笑顔で「俺は大丈夫ですよ」と答えた。それでも彼女はどうするべきか分からないというような様子で口をつぐんでしまった。

きっと本当に無垢な子供のような人なのだろう。どうしたものか、と頭を悩ませていると不意に、若者はちょっとした提案を思いついた。


「じゃあ、今度あなたを屋根の上に乗せる時、俺に文字を教えてくれませんか?」


彼女は最初、驚いたように目を何度か瞬かせ、そして嬉しそうに「えぇ」とうなずいた。

彼女のその表情が見えたことが、なぜだか嬉しくてたまらなかった。


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