ハロー!マイスウィートエンジェル!(1)
何てことは無い初夏の昼下がりである。
開け放たれた窓から爽やかな風が吹き入る部屋の中、老人はゆらりゆらりと椅子に揺られていた。パイプの煙をくゆらせて、時偶に鼻歌が混じることもあった。人が多く、騒がしい街ではあるが、部屋の中では喧噪も遠い。時計の針が秒を刻む音すら聞こえる。
老人はひどく穏やかな気持ちだった。まるで早朝の、凪いだ浅瀬の海のように、また、そこには波立てるようなものは一つもないのであった。
がしかし、唯一、嵐の前のように激動をひそめるものがあることに老人は気が付かなかった。
老人はうつらうつらとしながら、心地よい風に導かれるようにして窓を見上げた。
しまった、と思ったのはそれを完全に視界に入れてしまってからの事だった。
そこには西日に照らされて輝く、鮮やかなオレンジ色の瓦を載せた鋭い塔が立っていた。その後ろの雲一つない青い空に本当によく映えている。
非常に美しい、景色だった。
瞬間、喧騒が老人の耳元にまで蘇り、強烈な日差しが老人の肌をさし、そして老人のすっかりくたびれてしまった身も心も隅々に渡るまで活力がみなぎったかのように感じられた。爽やかな風に乗ってこの町のにおいがする。町で生きていては気が付かない強烈な潮の香り。
気が付けば、老人は何十年も前、かつて老人が老人ではなく背筋のピンと伸びた若者であった夏へと戻っていた。
若者はしがない煙突掃除屋だった。
日々の食い扶持を稼ぐのが精いっぱいで、余暇の楽しみなどあの頃は知るまでもなかった。それでも、若者は不幸ではなかった。路傍に座り込んで虚ろな目をする浮浪者や、対照的にギラギラしい目つきをした浮浪児を見れば、自分が恵まれていることは明らかだった。それに、何より、この煙突掃除という仕事を気に入っていた。
その日も、若者は埃と焦げにまみれたブラシをしょって屋根の上に立っていた。ただ今日はいつもより少し特別だった。何せ今立っているのは、教会を除けばこの街一高い場所だ。
空は快晴で、日にさらされた肌がジリジリと焦がされる。汗ばんだシャツに風が吹き入れて風船のように膨らんだかと思うと、風が脇から抜けてしぼむ。若者は大きく息を吸って吐き出した。感じるのは強烈な潮の香り—————見開いた視界では、遠くの方に日の光を受けた海がてらっていて、その手前には眼下に至るまで住居の列が波のように連なっている。染め上げたかのように鮮やかな空の色と、住居が皆一様に乗せた淡いオレンジの瓦とが互いに引き立て合っていた。
それは、非常に美しい景色。若者が知る中で最も美しい景色だった。
ひとしきり目に焼き付けると、若者は袖をまくって仕事にとりかかった。
景色がこうだからと言ってやることはいつもと変わらない。ものの数十分で作業は終わり、若者はその景色との別れを惜しみながら、梯子を伝って屋根から降りた。そして、一つ低い屋根の上に足を下すと「もし」と声がかけられた。
そちらを向けば白い裾の長い服に身を包んだ若い女がバルコニーの柵に手をかけて立っていた。
「もう、お掃除は終わったの?」
育ちがいいのだろう。人当たりの良いしゃべり方は若者にはなじみのないもので、若者はすぐに視線を外すとそっけなく二言「あぁ、はい」と答えた。
「ごめんなさいね。本当はうちに降りるべきなのに、お父様がいらっしゃらないものですから」
女は若者が、その家に女しかいないためにわざわざ隣家から地上に下りて、玄関口まで遠回りしなければならないことを咎めているかのように感じたようだ。つられて若者も少し申し訳なくなった。
「いえ、いいんですよ。そう、珍しい話でもありません」
本当はそうでもなかったが。女はそれを聞いて「優しいのね」と笑った。鈴を転がしたかのような笑い声だった。若者は後ろ首を掻くと「じゃあ、すぐうかがうので」と女の家の屋根にかかったままのはしごを外そうとしたのだが、女から「待って」と制止の声がかかった。怪訝そうに若者が女を見ると女はにこりと笑った。
「もしよかったら、屋根に乗せてもらえないかしら。私、ずっと上ってみたいと思ってたの」
予想だにしていなかった言葉に若者が答えないでいると、女は「お願い」と手を合わせて上目遣いに若者を見つめた。若者は居心地の悪さを感じて目を左右に泳がせた。
「駄目かしら…」
若者は女性と言うものに慣れていなかった。
だから、明らかな落胆の色に慌てて「あなたが怪我をしないなら、どうぞ」と返してしまった。
するとはたまた、女は満面の笑みになって「ありがとう」とベランダから身を乗り出した。若者は視線を下に落としてそれとなく頷いて、ちらりと様子をうかがった。女はこちらに背を向けている。きっとこちらの家から若者が来たみたいに登ってくるのだろう。
そう思った次の瞬間、女は再びベランダの柵に手をかけて柵の上に飛び乗った。
若者はぎょっとした。若者が止める間もなく女は器用にスカートがめくれないように片足ずつ柵のこちら側にかけなおす。若者はようやく「ちょっと待ってくださいと」口に出しかけたが時すでに遅く、その前に女は、こちらの屋根に飛び乗って、一歩ずつ踏み出した。しかし二歩目か三歩目かを彼女が踏み出したその時、足を滑らせたのかバランスを崩して大きく軸がぶれる。上半身はすでに屋根から虚空へ投げ出されているかに見えた。思わず若者は、自分の手が炭でまみれて真っ黒なのも忘れて、宙をかいたその手を掴む。そして、思いっきり引き寄せると、二人は倒れこむようにして屋根に手をついた。あっという間のことだった。早鐘を打つ心臓を若者が必死に抑えているその隣で、女は何が起こったのか分からずきょとんとした表情を浮かべていた。しかし、間もなく声をあげて笑い始めた。
「ごめんなさい、楽しくって」
若者がやっとのことで「危ないことはしないでください」と返すと女はさっと顔を赤らめた。そして顔をそむけると、恥ずかしそうに「助けてくださりありがとうございました」と小さな声で言った。
だいぶましになったが、已然激しく心臓は跳ねている。左手で胸を撫でつけようとして、ふと、自分の手が女の小さな白い手を強く握りしめているのが若者の視界の端をかすめた。すぐに手を離す。と、同時に、見るも無惨に黒く薄汚れた彼女の手が目に飛び込んできた。炭は一旦触れると洗い流すのに苦労することを若者はよく知っていた。
「すいません」
しかし、女は頬を上気させながら「いいえ!命の方が大事ですから!」と大きな声を返した。淑女然とした女が表情を崩して大きな声を出したのに若者は面食らった。それから女は「ふふっ。こんなに手が汚れるのは小さいころに泥遊びをして以来です」と真っ黒になった手を見つめながら柔らかく笑った。そして不意に勢いよく立ち上がると梯子に手をかけた。ころころ変わる女の様子に戸惑いながら若者もその後ろに続いた。
心配する若者を他所に女はたどたどしく梯子を伝って屋根に上がると、「わぁ」と歓声を上げた。若者もその後ろに続く。すると再びすぐに、先ほどと変わりないあの美しい景色が、目に飛び込んでくる。思わず梯子を上るのを止めて、見入っていると「綺麗ね」と女が呟いた。その声に若者が視線を前に戻すと、若者と同じように景色に見入る女がいた。女は明るい癖のある茶髪をしていて、裾の端がレース状になっている白いワンピースを着ていた。そのワンピースから覗く肌も、自分と同じ人間とは思えないほど白く、風にあおられるその姿は、野原で風にそよぐ一輪の花の、丁度それだった。日の光を受けて、女の姿は美しい景色と同じく輝いて若者の目に映った。
「不思議ね、こっちの方が遠いはずなのに部屋の中よりも町の皆の声が大きく聞こえる」
不意に町の喧騒が若者の耳に飛び込んできた。街ゆく人々の挨拶の声、店主らの客引きの声、子供たちの笑い声。街に命が吹き込まれたようだった。若者は今まで一度も気が付かなかったのが不思議でたまらなかった。
ふと、女がこちらを向いた。視線がまっすぐに合わさる。
若者は、これに勝るものを二度と見ることは無いと思った。