渚にて待つ午前6時
土砂降りの雨の後の、まだ完全には晴れ切ってない曇り空の下。空気はむっと雨のにおいがして、少し肌寒い。潮風で錆びた欄干に手をかけるとがさがさとして、離した手のひらは案の定鉄臭かった。そのままアパートの外付けの階段を下りると、大きな水たまりをあちこちに浮かべたコンクリートの上を駆け出した。履いてきたスニーカーはすぐに水を吸って重くなった。それでも速度を緩めることなく、誰もいない雨上がりの道を走り続けた。
目的地まで残り200m直線。
道端の標識が告げていた。こんな雨上がりには、彼女がそこまで来ているに違いない。想像するだけで胸躍った。もう数百m全力疾走してきたはずなのに駆け出す前のように体が軽い。
目的地まで残り50m。
コンクリートが途切れて、白い砂でできた小高い丘が立ちはだかった。波の音がする。彼女の元までもうすぐだった。白い砂は焦る気持ちを知ってか、執拗に足をとった。そして、小高い丘の頂上に辿り着くと、急に眼前が開けた。そこには豪と波を立てる海が平然と広がっていた。その水面には何一つ異物がない。潮の香りを胸いっぱいに吸い込むと、大きく声を張り上げた。しかし、それは波たちにかき消されてしまったようだった。再び波打ち際まで駆けだす。ひざ丈まで波に浸かって、口に手を当てて力いっぱい叫んだ。しかし、彼女の姿は現れなかった。少年は打ち寄せる波の中に座り込んだ。
これが、初めてではなかった。少年にも、もう、分かっていた。
「波が私を連れていくよ」
そう、彼女は言った。少年はそれを信じた。
3年前、少年はここで人魚に出会った。丁度今日の様な雨上がりの誰もいない浜辺でのことだった。それは物語の挿絵からそっくりそのまま飛び出したかのような美しい生き物だった。彼女は人間を見るのは初めてだと言った。少年も人魚を見るのは初めてだと言った。彼女は手を差し伸べてきた。少年はその手を取った。それは、紛れもない現実だった。
それなのに、誰が疑おうか?少なくとも少年には彼女の言葉を疑う術を知らなかった。彼女は存在するというのに、彼女の言葉は嘘だというのか。そちらの方がよっぽど馬鹿らしい話のように少年には思えた。少年はポケットに手を突っ込んで堅いガラスの様なものを取り出し、雲の切れ間からこぼれた光にかざした。浅瀬の様なエメラルドグリーンと珊瑚の様な薄紅色。これは一年前、彼女が少年を陸に置き去りにする前にくれたものだった。
彼女の尾鰭にはもう、これに代わるものが生えたのだろうか。
あぁ、波よ、僕を攫ってくれ。
あなたにとって2年は長いですか。短いですか。
100歳前後の方にとっては人生の50分の1ですね。
50歳前後の方にとっては人生の25分の1。
20歳前後の方にとっては人生の10分の1。
10歳前後の方にとっては人生の5分の1。
2歳の方にとっては人生の全てですね。
成長すると時の流れが速くなる、あるいは年を取ると時の流れは遅くなるといいますから人生の何分の1というのは所詮数値に過ぎないでしょうか。
では人間ではなくて、犬にとってはどうでしょう?
マグロにとっては?
セミにとっては?
カブトムシにとっては?
人魚にとって二年は長かったと思いますか。