第六章 挑戦編
チャンピオンズとの試合後、昴と瑞希はクリスマスと初詣をそれぞれ楽しく過ごし、互いに愛を深めて行った。そして翌年2003年の1月5日、昴の思い付きで、友助、美奈と4人で静岡県裾野市にある『ぐりんぱ』でダブルデートすることになった。
当日に張り切って早く出過ぎた昴と瑞希は、待ち合わせの時間より少し前に着くと、友助に事情をメールして、先に園内に入って遊ぶことにした。暫くアトラクションで
遊んでいると、5歳くらいの男の子が昴の方に駆け寄って来た。
「俺、子供好きなんだよね」そう言った昴は、その男の子を抱きかかえてあやし始めた。
「ほ~ら。高い高~い」
屈託のない笑顔を見ると、どちらが子供だか分からなくなる程であった。その光景はいつか自分たちも二人の子供がほしい。そんな淡い思いを抱かせるものであった。
「私ね――実は昴くんに言ってなかったことがあるんだ」
「そうなの?なんだよ、言ってなかったことって」
昴は抱えていた子供を、大事そうに地面に下ろしながらそう言った。
「実はーー」瑞希は遠慮がちに言葉を詰まらせる。
「今、職場のみんなで裁判を起こそうとしてるの」
「裁判!?それって、今勤めてるアパレルの?」
「そう。同僚のサクラちゃんって居るでしょ?ほら、あの明るくて少し背の低い子」
「ああ、昔一緒に花見に行った時に居た子だよね。どんな内容なの?」
「そうそう。あの子が店長から関係を迫られて、それを断ったら皆から無視されるようになっちゃって。そんなのおかしいって思ったから、さくらちゃんとは普通に話してたんだけど、それで私もいつの間にか同じように無視されるようになっちゃって」
「そうか、そんなことがあったのかーー」
「それからは二人で我慢してたんだけど、同僚のツクシくんって子が、サクラちゃんと付き合ってて、それを知った店長からパワハラを受けるようになっちゃってーー」
「それは酷いな。最低だよ、その店長」
「そうでしょ、ほんと許せない。それから退職願を出そうとしたんだけど、受理して
もらえなかったみたいで。溜まりかねて、みんな皆で訴訟に踏み切ることにしたの」
「そうだったのかーー」
「ごめんね、今までこんな大事なことを言えてなくて」
「ううん、『俺が悪かった』よ。今まで瑞希に寄り添って来れてなかった。言ってくれてよかった。その問題――一緒に解決して行こう」
「――ありがとう」
受け止めてもらえた安心感からか、不意に瑞希は泣き出してしまった。その肩を抱き寄せた昴は、心から自分の未熟さを恥じた。それから二人で男の子の親を探していると、向こうから一組の夫婦が、2歳くらいの女の子の手を引きながら歩み寄って来た。
「佑くん!」
相当心配していたのだろう、男の子を見つけると母親は嬉しそうに声を弾ませた。
「この子を見ていてくれていたんですね。ありがとうございます」
そう言った父親は活発そうな母親に対し穏やかで、感じの良さそうな人だった。
「澤村さん!」
「えーっと、どこかでお会いしましたっけ?」
昴が意外な返答をしたので、男の子の父親は少し戸惑ってしまったようだ。
「観応私塾小の堺 昴です」
「ああ、弾丸の堺か!言われて気付いたよ。大きくなったな」
「はい。お陰さまで僕は、今日まで大きな怪我一つなく生きて来られました」
「そうか。今言うべきことではないかもしれないが窪田の件、本当に残念だったな」
「そうですね。けど今、彼と一緒にフットサルのチームでサッカー続けてるんです」
「そうなのか、それは良かった。荒木と三人で本当にサッカーが好きだったもんな」
「はい、今でも一応プロ目指しててーー。けど、糸口が見つからないんです」
「そうかーー。国内のトライアウトは基本プロ経験者でないと受けられないもんな」
「そうなんです。口では大きいこと言ってても、現実はなかなか厳しくてーー」
澤村は少し考えた後で、何か思い切ったように話し始めた。
「堺、海外に興味はないか?」
「海外――ですか?」
「来月の1日にちょうどテストがあって、今ならまだエントリーに間に合うんだ」
「プロのーー、テストがあるってことですよね?」
「そうだ、今ならお前の目指す舞台が用意されているぞ」
「1か月後かーー。わりと急な話ですね。俺、通用するのかな」
「それか、日本に拘るならコーチだったら紹介できるな。お前なら安心だろうから」
「コーチですかーー。そうか、それなら日本に残ることができますね」
「まあまだ少し時間があるから枠だけ抑えとくよ。アドレス、聞いてもいいよな?」
「はい、もちろんです!お願いします」
それからアドレスを交換して少しのやりとりを交わした後で澤村と別れ、友助と美奈を待つため、もう少し瑞希と園内を歩き回ることにした。
「やったじゃん、大チャンスだよね」
「うん!ただ、これは大きな選択になるね」
「そうだよね。日本に残ってコーチとして働くか、海外でプロになるか」
「悪いんだけど、大事なことだから考えさせてほしい。決める時に必ず相談するから」
「いいよ、大きな決断だもん。あと、あの人は知ってる人――なんだよね?」
「ああ、トレセン時代のコーチの人でさ。凄く憧れてた人なんだ」
「そうなんだー。トレセンってトレーニングセンターのことだよね?」
「そうそう。地区、都道府県、地域、ナショナルってあってね。懐かしいなー」
「私あんまよく分かってなかったんだけど、けっこう上まで行ってたんだよね?」
「うん。俺が行ってたのは関東地域のトレセンだね」
「そうなんだー。凄いよね、代表なんだもん」
「まあ、それなりにはね。けど、その上にはアンダーの代表とA代表が居るからね。
アタリンなんか、U―15、16、17全部に招集されててさ。見てて眩しかったな。なんで俺は選ばれないんだろう、いつかあの舞台に立ちたいなって。あの頃のそういう気持ち、やっと取り戻せたんだ」
「中学生の時とかホント頑張ってたもんね。一日中ボール蹴っててさ」
「まあけどトレセンに通ってても、結局プロになれるかどうかは分からないからね」
トレセンでは、個のレベルを高める事と、食育と呼ばれる練習後30分以内に食事を取るということが推奨されている。サッカー業界は、日に日にレベルが上がっており、もはや幼少期から取り組んでいないと、プロにはなれないと言っても過言ではない。
「残酷だよね。そう言えばプロにも何種類かあるんだよね。ABC契約ってヤツ?」
「そうだね。日本だとまずは給料が約100万円のC契約を結ぶことになる。それで、年間出場時間がJ1なら450分、J2なら900分を越えたらB契約になるんだよね。そうなるとゴール給、無失点給なんかの『変動報酬』が貰えるようになって優秀な成績を残したらA契約を結べる。そこで晴れて年収460万円以上が保証されるってわけ」
「本物のトッププロだよね。けど選ばれるのは、ほんの一握りの選手だけなんだよね。何の保証もないわけだし、不安な日々を過ごすことになりそうだよね」
「それが真っ当な意見だよな。けど、C契約を結んでる選手は3年以上経つとB契約を結ばないといけないってルールがあって、一応は権利が保証されてるよ」
「じゃあ、とりあえずは安泰ってわけ?」
「必ずしもそうってわけじゃないね。C契約を結んでいる選手は年収が生活していけるほど貰えない選手もいるから、バイトしながらプロとしてやってる選手も多いよ」
「どこの世界も大変なんだね。プロなんだもん、甘いわけないよね」
「まずは3年後まで生き残ることが目標みたいだよ。けど、正直これは、やりがい搾取だとも言われていて、スポーツの世界では、お金に関してもシビアなものがあるんだ」
「限られた椅子を奪い合うことになるんだもんね。厳しい世界だなぁ」
「前はもっと厳しかったよ。今はJ2があるけど、以前は1リーグ制だったからね」
「そっかー。J2ってまだできたばっかだよね。99年だっけ?」
「そうそう。93年にJ1ができてから、あっという間だったね」
「いろんなことがあったよね。ドーハの悲劇とか、ジョホールバルの歓喜とか」
「あとはマイアミの奇跡とかね。96年にアトランタ五輪でブラジルに勝ったヤツ」
「あったあった!ホントここ10年で、どんどん変わって行ったよねーー」
この時期の出来事は約2年ごとに起っておりJ1発足年である93年ドーハの悲劇でW杯出場を逃したのを起点とし、96年のマイアミの奇跡でブラジル代表に勝利し、97年のジョホールバルの歓喜でW杯出場を決め、99年にJ2が発足した。これは、ドーハが93年、マが96年、ジョが97年と考え『ドーハ魔女』とすると覚え易い。
その後も二人はこれまでのサッカーについての話や将来について語り合い、こういう時間が一番幸せなひと時なのかもしれないと感じていた。
一方、『ぐりんぱ』が少々家から遠いということもあり、友助と美奈は思い切って、レンタカーを借りて現地に向かっていた。そして、恋人同士の会話というものは、時にコアな話題に繋がることもある。
「美奈は今まで何人くらいと付き合ってたの?」
「今まで?二人だよ~」
“ってことは、大体ホントは3掛けくらいだから、六人ってとこかな。けど、こういうのは指摘しない方が角が立たないよな。こっちだって、やることやってんだし”
知識とは無慈悲なもので、友助の読み通り美奈はこれまで六人と懇ろな関係にあった。ただ、日本人は建前というものを非常に重視する傾向にあり、女の子は付き合った人数を過少申告することが多い。
「そっか~、じゃあ俺で三人目ってことだよね」
「そうそう!けど私、友くんみたいな普通の人と付き合えて嬉しいよ」
「普通の人か――ありがとう。それ、最高の褒め言葉だよ」
「ホント~?意外と謙虚なんだね」
「いや、そうでもないよ」
いわゆる普通の人とは、25歳から45歳までの結婚適齢期の男性2千万人ほどを
8つ要素を設定した2の8乗の512で割った場合の約4万人。これは合格者3千人のうち、女性と中退者が500人ずつを居るのを引いて2千人の20年で約4万人である東大卒業者と同数である。要素を2の6乗にまで落としても、京大一橋阪大卒を足した約16万人と同数となる。
「普通の人が好きっておかしいかな?別に変じゃないよね?」
「いいんじゃない?けどまあ、普通はそれじゃ物足りないって思う気もするけどね」
「え!?じゃあ何。私は普通じゃないんだ?ごめんなさいね!すみませんね!」
そう言うと美奈は、徐に車の窓を開けて身を乗り出した。
「私は異常者でーーーーーーす!!」
「おい、恥ずかしいから止めろよ!」
「うるさいうるさいうるさい!どうせ私は変人ですよー」
「ごめん、悪かったって!!俺が無神経だった」
「ふふふ。分かればいいのよ」
毎回みんなに当て嵌る、そんなヤツなんて居ないわけで、何かで選ぶ際には必須の
要素は『2つまで』にしておくべきであり、自分が大卒なら勉強、背が高いなら身長、運動が得意なら体力、それなりの収入があれば年収について相手に求める必要はなく、『足りないものを補い合う』という思想が、現代おいては大切なのではないだろうか。
奪うだけでは、求めるだけでは、本当の幸せを掴む日には程遠いのである。
その頃友助からメールを受けた昴と瑞希は、入園後の彼らと合流しようとして十字路になっている場所に辿り着き、偶然友達と『ぐりんぱ』に来ていた澄玲に出くわした。
「「「あ、昴さ~ん!!」」」
友助、美奈、澄玲と三人から同時に声を掛けられ、瑞希は可笑しくなってしまった。
「めっちゃ偶然じゃん、凄いタイミング!」
友助、美奈、澄玲も嬉しくてテンションが上がっている。
「ホントですね、こんなタイミングで会うなんて」
「誰々~?美奈、こんな可愛いらしい友達居るんだ~」
「ん~ん、いとこだよ!この前泊まりに来てた」
「ああ!アルフレッド新潟のマネージャーの子か~瑞希です、よろしくね!」
「はい。よろしくお願いします。4人とも、今流行のダブルデートですか?」
「そうそう。仲良しなんだよね、私たち」
「いいなー恋人、いいなー彼氏」そう言った澄玲は、心底羨ましそうな感じであった。
「澄玲ちゃんにも、いつか良い人が現れるよ!案外もう出会ってたりするかもね」
瑞希は、澄玲の気持ちを知ってか知らずか、明るく話を続ける。
友助は気を遣ってか話を逸らそうとして、昴に話を振った。
「そう言えば昴さん、そのホイッスルいつも鞄に下げてますよね」
「ああコレ?先生から貰ったやつでさ。お守りにしてるんだよ」
「へえ~。昴さんって、意外とそういうの大事にするタイプなんですね」
「う~ん。まあ物持ちはいい方なのかな。大事なものだけ取っておくタイプだね」
そんな会話をしていると、瑞希と美奈が何やら珍しいものを見つけたようだ。
「あのパフォーマーの人らすっごい上手いね!」
「ホントだー、それに、投げ銭いっぱい入ってる!」
陸奥大学付属花京院高校と書かれたジャージを着た、体系の違う二人の男は、次々と華麗な技を繰り広げていた。二人が着ている少々値が張りそうなパーカーは腹の部分の模様がオシャレで、女の子からウケが良さそうなものであった。
シュッとした方の男はボールの周りで足を一周させる『アラウンド・ザ・ワールド』、その技をもう片方の足に当てて行う『カリオカ』、ボールの周りを同じ方向に2回跨ぐ『ダブルレッグオーバー』、それを内外で2回跨ぐ『マゼラン』など基本を抑えることができていた。これは素早く繰り出すため失敗しやすいものばかりだったが、彼はこの回転系の技を全て1つのミスもなく熟していた。
ガッシリとした方の男は、足から腰までを逆側の足まで伝わせる『エレベーター』、ターンする間に一回踵に乗せる『オーシス』、足の後ろを通し足の上で持って振り子のように蹴り上げる『レーキ』や、頭の後ろ側から背中を這わせて素早く踵で蹴り上げる『レインボー』など応用が利いた技法を習得していた。どれも高度で見栄えのいいものばかりであったが、彼もこの技能系の技をノーミスで熟していた。
暫くパフォーマンスを眺めていたのだが、突然昴が何か思い出したように呟いた。
「見たことあるーー」
「見たことあるって、あの人たちのこと?」
「そう。誰だっけーー?高校?大学?職場?」
昴は遠い記憶を呼び起こそうと、必死で頭を働かせた。
「――そうだ!思い出した。アイツ、都大会の決勝でマッチアップしたヤツだ!!」
「えっ!?あの試合の時の?」
瑞希は驚いて、少し大きな声を出した。
「そう、確かそうだった気がするんだ。名前は、えーっとーー」
昴は細くて長い記憶の糸を手繰り寄せようとしたが、中々上手く行かなかった。
「ダメだ。どうしても思い出せない」
「――私も、なんか見たことあるような気がしてきた」
「そうなんだよな。あの時しゃべらなかったから、名前が記憶になくてーー」
「もう一人はたぶん高校生だよね。そっちも知ってる人?」
「アッチの奴は知らないなーー。けど、間違いない。アイツだったと思う」
「どうするの?話し掛ける、やめとく?」
美奈は気になったのか、グイグイ話を進めようとした。
「う~ん、やめとく。別に友達ってわけじゃないし」
「そっかー、なんか残念」
その後は八人で身の上話をしたり、流行の芸能ネタで盛り上がったりしながら3時間ほどアトラクションを楽しんだ。夕飯を一緒に食べようかとも考えたが、瑞希が明日の朝が早いということもあって、ここで解散することとなった。
「澄玲ちゃんは郷に帰らないとだよね」
「郷ってなんか面白い言い方だね」
美奈の不意の発言に対して昴がそう言うと、少し大きめの笑いが巻き起こった。
その帰り道、昴と瑞希が乗る車内では、先程の美奈の話題で持ち切りであった。
「美奈ちゃんってホント天然だよな」
「ははは。昴くんがね」
「えっ!?なんでだよ」
「ぜ~んぜん、あの子のこと分かってないんだから」
「そうなの?見たまんまだろ」
「ウチらの学年で法学部に通ってて、あの子を知らない人は居ないよ」
少し得意げに言った瑞希の言葉は、どこか意味深なものであった。
それから帰りの車の中で、友助と美奈は相変わらずたわいもない話をしていた。
「友くんって割と中性的な顔立ちだよね。平均的な顔っていうか」
「ああ、塩顔ってよく言われる」
「!!。その塩顔とか醬油顔とかソース顔ってよくわかんないんだけど何だっけ?」
「塩顔は一重であっさりした顔で、醬油顔は一重か二重で彫が浅くて唇が薄い顔で、
ソース顔はぱっちり二重で彫が深い顔のことだね」
「そうなんだ~!なんか最近はケチャップとかマヨネーズとかも言われてなかった?」
「ケチャップ顔は目鼻立ちが明瞭だけれど淡白な顔で、マヨネーズ顔は少年らしさと
大人の色気がある顔で、酢顔は一重で目が細い顔で、砂糖顔はベビーフェイスだよ」
「う~ん。なんかまだちょっとピンと来ない」
「俺的にソース、ケチャップ、マヨネーズ、醬油、塩、酢、砂糖の順に濃い印象かな。塩より醬油よりソースが濃いことを覚えとけば大丈夫だよ。美奈はどの順で好き?」
「えぇ~っと~。私は、塩、醬油、マヨネーズ、ケチャップ、ソース、砂糖、酢の順に好きかな。けど、やっぱり友くんの塩顔が一番だよ!」
「やっぱりそうか――ごめんな、美奈」
顔のよさについて興味深い実験があり、ランダムに選出された100人の顔を用いてモンタージュを作成したところ、その顔が、その時代における美男、美女とされる顔に合致しているという結果となった。
遺伝子において『生存するために必要な要素をパートナーと補い合う』ということを考えれば、人間の中央値に近い存在というのは、適者生存の観点からすると優れているということなのだろう。昔に村で血が濃くなり過ぎないように、旅人の枕元に若い娘を差し出したという話も、度重なる経験則からきていると考えられる。
「なんで?なんで謝るの?」
「俺、美奈のこと分かってるよ。もうやめろよ、ソレ」
「えっ――」
「さっきカマかけてた。なんで今まで言ってくれなかったんだよ」
「どうしたの?大丈夫だよ、私」
「大丈夫じゃないよ。バカのフリしてるだろ?二人の時はやんなくていいよ」
「はっ――うん。ありがとう」
友助の優しさを受けて泣き出してしまった美奈を、そっと抱き寄せてキスをした。
1月9日、莉子は暴力の件で、新之助と話し合ってなんとか説得しようと試みていた。
「そんなことやっても恥ずかしいだけだよ」
「うるさい、お前が神経質だからだろ!!」
「こんな話してても埒が明かないよ。ちょっとお互いに冷静になろうよ」
それから少し時間を置き、互いに頭を冷やしたと思い再び話し合いをした。
「俺にも悪い所があったと思う。これからはお互いに気を付けような」
「私は悪くなかったような気がするんだけどーー」
「なんで俺が謝ってんのに、そんなこと言うんだよ!!」
こういう場合は距離を置くだけでは、根本的な解決策になることはない。“優しい所もあるしいつか分かってくれる“などと考えていても、そんな日が訪れることはない。実際は自らの優位性に胡坐をかき、モラハラとなる行為を繰り返すことが殆どである。これをやめさせるためには、一旦物理的に離れるか本人を変えるしかないのである。
「もう、たくさんだよ」
「あ、そう」
「新之助くんは怒ったり暴れたり大変だったろうし、ウチらもう別れた方がいいよね」
「え!?」
新之助は鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をして驚いた。
「嫌だ!!俺は絶対に別れたくない!!」
ここで新之助が暴れそうになったところで、勘九郎が出て行って止めに入った。
「新之助!!どういうことだ、お前がこんなことをやっていたなんて」
「兄貴!!」
それから新之助は勘九郎が出て来たことで急にしおらしくなり、莉子から話を受ける。
「怒らないってたったそれだけでいいのに、なんでそんな簡単な事もできないの?」
「ごめん、俺にはこれしか伝え方が分からなくてーー」
「そう、それじゃ、あなたには分からないんだね」
「そ、そうじゃなくて――」
これは男は女の子に『馬鹿にされたくない』から怒っているのであり、女の子は男が『理解してくれない』から悲しんでいるのである。お互いに歩み寄るためには、相手がされて嫌なことというのを知り、それをしないようにすることが大切である。
人間は自分の尺度で物事を計ってしまいがちだが、それをやってしまうとただ争いにしか発展せず、平行線を辿るばかりとなる。思いやりとは相手に歩調を合わせることであり、時には自らの優れている部分を消すことも必要となる。力を誇示し合うと互いを敵であるかのように認識してしまい、永劫平和などというものは訪れないのである。
「これから莉子に手を出した場合は、迷わず俺が殴りに行く、いいな?」
「そ、そんなーー。兄貴はこの話に関係ないだろ?」
「いや、そんなことはない。俺は兄として、お前に対しての責任がある」
「これは俺と莉子の問題だろ。兄貴は莉子の何なんだよ?」
「友達だ。だから大事なチームメイトのために力を尽くす必要がある」
犯罪やモラハラなどの多くは、その抑止力によって解決できる場合が殆どで、周りの助けが必要不可欠なのである。一度モラハラに手を染めてしまった人物というのは、
被害者に対して箍が外れているので危険すぎる状態であり、その怨恨は断ち切ることが困難であるため一旦別れることをお勧めする。莉子は新之助に対して慎重に提案する。
「新之助くん。今は離れてみて、お互いに冷静になることにしよう」
「――分かった。そうするよ」
人間を上か下で捉えてしまうことは多くの場合誤りであるが、この二人の場合は特にそういう傾向が強く互いに歩み寄ることができないでいた。関心を示さないようになるまで物理的に離れてみることが、此度の解決策としては有効であった。
頼れる兄である勘九郎ならば、新之助のために支えとなることができるだろう。
1月6日の午前、昴はある一件の家へと向かっていた。通いなれた道、見慣れた風景、草木の匂い。全てが、あの時のままだった。家の前に着くと、昴は一つ深呼吸をして
インターフォンを押した。彼が出るかどうかは分からなかった。何も連絡せず押し掛け、ただ思いの丈をぶつけて帰る。自分でも幼稚な行為だと分かっていた。
「はい。どちらさまですか?」
「――昴です」
「!!。昴さんーー分かりました。お入りなさい」
石段を登り切った辺りでドアの鍵が開く音がし、少し躊躇ったが、扉を開けて玄関を潜った。中へ入り現れた男を見据えたが、もはや自分の知る人物ではないと感じられた。
「10年ぶりだな。帰って来たよ、父さん」
「止めなさい親に向かって敬語もなしに話すなど。そんな野蛮な事は許しませんよ」
堺の家では親子でも絶対に敬語、そんな理不尽なルールが敷かれていた。
「俺はもう28歳だ。親元を離れて自分の意思で生活してる」
「それがどうしたと言うんです?離れても親は親、子は子です。いつまで経ってもね」
父の天は、何時ぞやの精悍な顔立ちとは打って変わって怯え切った表情をしており、嫌味な笑みがこびりついて、醜悪な鬼のような顔をしていた。
「急に来て何の用があると言うんです?そんなことを態々言いに来たんですか?」
「父さん、俺――堺の姓に戻すよ」
その言葉を受けて、天は心底驚いたというように目を見開いた。
「やっと言えるようになったんだーー」
昴は落ち着いて呼吸を整え、次の一言に力を込める。
「俺は父さんのコピーじゃない、俺には俺の人生があるんだ!!」
天は鬼の首を取ったような喜び、死人ような顔で静かにほくそ笑んだ。
「それでは何のために改名するんです?敢えて同じ苗字にするわけですよね」
「過去と決別するために、自分への戒めのために改名するんだ」
「人は過去からは逃れられない。そう教えたはずですよ」
「だからこそ証明したいんだ。俺は過去を越えられるって」
「好きにしなさい。ただ、堺の名を穢すことだけは許しませんよ」
「――分かった。俺は俺自身の手で証明してみせる!俺は間違ってないってことを」
それから昴は、10年ぶりの再開もそこそこに父の家を後にした。
昴は年末に申立書を作成、戸籍全部事項証明書を付随して裁判所へ送付して、書面で照会を受け、裁判所で面談を終えて改名届を提出し、審判内容の通知を受けていた。
改姓事由としては7つあり、夫婦別姓の子が『①どちらかの姓に改姓する場合』
離婚後に婚姻前の姓に戻す『②復氏』離婚後に婚姻中の姓に戻す『③婚氏』
離縁後に縁組中の姓に戻す『④縁氏』外国人との『⑤婚姻もしくは⑥離縁による改姓』
生活に支障をきたす『⑦やむを得ない事由がある場合』である。
昴の場合は1つ目の事由に該当し、民法791条1項に則り裁判所に申し立てることによって変更の許可を得られた。あとは役所での手続きを残すのみである。
その日の午後、昴はいよいよ改名の手続きをするため、審判謄本を持参し沼津市役所まで足を運んでいた。役所に着くと市民課で蓮がおばあさんと何やら話し込んでいる。
「だんだんどーも(ごめんください)、いあんばいですー(おはようございます)」
「ああ、これはこれは山田さん家のおばあちゃん」
「みるい(未熟)な子が多いけど、おめさんはまめったい(熱心に働いてる)ねー」
「ありがとうございます。まだ2年目なんで一生懸命なんですよ」
「他の若い子らみたいに、いぼくらんようにねー(不貞腐れることがないようにね)」
「はい。そうならないように気を付けます」
「そういやあ、おめさんはあんにゃま(長男)やったかいね?」
「そうですよ。2つ上に姉がいますけど」
「ほー。めめよくて(器量がよくて)、けっこい(美しい)子ば嫁にもらいんさいね」
「今の彼女といずれは結婚したいと思ってますし、それに関しては問題ないですよ」
「あーもう、やっきりする(じれったい)ねー。24にもなって」
「まあ、いろいろあるんですよ」
「めじょげ(かわいそう)ねー、その子はー。早うに決心しんさいね」
「そんな簡単には行かないですよ。それに最近は結婚を急がなくなってきてますし」
「ほー、わたしゃ、つらっぱしなく(厚かましく)て、てんぼこき(強情)で――」
「いえいえ、そんなことはないですよ」
「かんべねー(勘弁してね)後藤さん」
「大丈夫ですよ。山田さん」
この山田さんは特に用事はないのだが、旦那さんが亡くなって寂しいのか、一週間に一度のペースで、こうやって話しに来るのであった。
「おおっ、蓮。めっちゃ方言出てんじゃん。静岡弁だよね」
「ああっ、昴さん。これくらい普通ですよ。どうしたんですか今日は?」
「改名――しに来たんだよ」
「そうか、遂に決心したんですね。分かりました。今、用紙をお持ちしますね」
蓮はそう言うと慣れた手つきで棚から書類を取り出してくれた。
「わたしゃ、わにくらしー(人見知りする)から、しょーしー(恥ずかしい)ですわ」
「居てもらって構いませんよ、すぐ終わりますし」
「いえいえ。それじゃあ、また来ますよって」
そう言うと山田さん家のおばあちゃんはそそくさと帰って行ってしまった。それから用紙に記入し蓮がパソコンで処理をして正式に手続きが完了した。作業自体はスムーズに行われたのだが、蓮の態度にはどこか煮え切らないものがあった。
「これで改名の手続きは終了です!お疲れ様でした」
「ああ、これで新たな一歩が踏み出せたよ」
暫く会話をし、そろそろということで帰ろうとしたのだが、蓮は終始何か言いたげな様子であった。昴がその場を離れ階段を下りている途中で、急に蓮が追いかけてきた。
「昴さん!」
「ん、どうした?」昴は珍しく連から呼び止められたので、少々困惑気味だ。
「今日この後、少しだけ話いいですか?2時間くらい待たせちゃいそうですけど」
「いいよ、これから特に予定とかないし。立ち読みでもして時間潰して待っとくよ」
「ありがとうございます。なるべく早く仕事終わらせて向かいます」
だが結局、蓮は待ち合わせ場所に指定したコンビニに3時間遅れで到着することとなった。彼は人がいいのが仇となり、屡々(しばしば)同僚から仕事を押し付けられてしまっていた。
「すみません、昴さん。1時間も遅刻しちゃって」
「まあしょうがねーよ、仕事だもん。頼まれたら断れない質なんだろ?」
「そ、そうなんです」
「で、話って何だよ?」
「実は俺、彼女から他の男と会ってるって言われちゃって」
「そうなの?それって、別れたいって言ってるようなもんじゃん」
「いえ、先月くらいから会ってて、まだ付き合ってるわけじゃないんですけど、何回かデートはしてて、その人のことが気になってるって」
「それで、彼女には何て言ったんだよ?」
「別れたくないって言って、2時間くらい話したんですけど、彼女はどっちが好きだか分からないって。もうダメですよね、コレ」
「なに弱気になってんだよ。彼女のこと好きなんだろ?何度でも引き止めろよ」
「俺、暗いし気弱だし、こんなヤツが彼氏じゃダメなのかなって、そう思っちゃって」
「それで、身を引いた方が彼女のためだっていうのかよ?」
「そうです、もういいんです。それが彼女のためになるんなら」
蓮が泣きだしそうな表情で下を向いたのを見て、昴は少々語気を強めて話し始めた。
「それじゃ、自分の気持ちはどうなるんだよ!」
その言葉を聞いた連は、ハッとして俯ていた顔を昴の方へ向けた。
「迷いがあるのは自分に自信がないからだ。自信がないのは確たる信念がないからだ」
「何かを諳んじてるんですか?偉人の名言みたいですね」
「そう、受け売りだよ。昔憧れてた人に教えてもらった言葉なんだ」
「信念――か。俺にそんなの持てるんでしょうか?」
「すぐには無理かもしれないよ。けど、少しずつなら変われるだろ」
「そうか、そうですよね。ありがとうございます。変われるように頑張ってみます」
「そうだ、自分の中に確たる指針を持つんだよ。それが行動を左右してくれる」
「先に答えを聞くようで忍びないんですけど、昴さんの信念って何なんですか?」
「俺か、俺はねーー」昴は少々、もったいつけるように間を空けた。
「『何が何でも勝ちに拘る』ってことだね。勝負の世界は、常に厳しくて残酷なんだ。ズルくたって卑怯だって、最後に勝って笑ってたいんだ」
「勝ちに拘るーーか。そうですね。本当すみません、いつも足引っ張ってばっかで」
「何言ってんだよ。チャンピオンズ戦の、あのファインセーブがなければ負けてたかもしれないだろ?蓮は日々上手くなれてるよ。俺だってそうだ。皆、日々成長できてる」
「昴さん、凄くーー前向きになりましたよね?腹括ったっていうか」
「そうだね。今日改名できたことで、俺は過去と決別できたんだ。甘ったれて逃げてた自分に打ち勝って、必ずプロになりたいと思ってる」
「今の昴さんならやれますよ。俺も自分の信念を探しながら応援してます」
「ありがとう。勝ち取ってみせるよーープロの座を」
それから二人は飲んでいたコーヒーの缶をごみ箱に捨て、それぞれの帰路に就いた。
本日1月25日は待ちに待った東海大会当日である。愛知、静岡、岐阜、三重の東海4県の1位と2位、計8チームが参加して予選、準決勝を戦い、決勝は明日26日で、そこで負けたとしても全国大会への切符は手に入る。抽選の結果、バランサーズの初戦の相手は、三重1位の伊勢シュリンプスとなり、予選第4試合を戦うこととなった。
第1試合は静岡1位の静岡チャンピオンズVS岐阜2位の下呂ホットスプリングスとなり、盤石な基盤の上に築かれた体制のチャンピオンズ有利かと思われた。対戦相手の下呂ホットスプリングスは白と青色の縦縞が豪奢なチームで、アップの際に景気づけとして、みんなでハモりながら歌うのが特徴だ。
そして試合開始2分、ホットスプリングスのアラ船端の『プッシュ&プルターン』を桜木が止め切れず、チャンピオンズにしては珍しくあっさりと先制点を許してしまった。これはボールに対する押し引きを利用するフェイントであり、急展開を作り出せるためディフェンスにとっては相当に嫌なものであった。
普段なら即座にスライドが飛び、抜かれた穴を補完している所であるが、林は虚ろな目で焦点が定まっておらず、どこか空を見たようであった。そして、前半戦を0対2で折り返すこととなり、チャンピオンズらしからぬ試合展開となっていた。ハーフタイムに入っても大した話し合いは持たれず、主導権はなぜかゴレイロ森川が握っていた。
後半開始4分、チャンピオンズのゾーンディフェンスに対し、林サイドの船端が再びプッシュ&プルターンで攻め込み、強烈なミドルシュートを放ってきた。ここでそれがチャンピオンズゴールに突き刺さり0対3となってしまった。
いつもの林ならここで奮起し咆哮でも上げている所だが、なぜか力なく走るばかりで、その様は弱々しいばかりであった。チャンピオンズの選手たちは必死に走りオフェンスするものの、日頃から林頼みであった彼らは完全に攻め手を欠き、ホットスプリングスの急に飛び出してくるディフェンスを全く攻略できていなかった。
苦し紛れにタイムアウトを取ってみるが、もはや焼け石に水といった状況であった。
そしてチャンピオンズはシュート数ばかりが増えた後半8分、またしても先程と同じシーンが繰り返され、バランサーズの選手たちを含めそれを見ていた人々は流石にあの林が二の舞を演じるはずはないと考えた。だが、当の林はいともあっさりと抜き去られ、そのデジャヴを感じさせるシーンによって得点が決まってしまった。
そしてその直後、林の様子に誰もが目を疑った。特に長年に渡って林を見て来た保はどうしても、その様が信じられないようであった。
「どうしたんだよ、林。心――折れちまったのか?」
今まであの林が試合中に泣いたことなどなかった。それはバランサーズに負けてしまったことで彼の高すぎるプライドが『ポッキリと』折れてしまったことが原因であった。チャンピオンズはいわゆる林のワンマンチームであり周りの選手はイエスマンとして従うばかりであったため、もはや為す術なしといった戦況であった。
「林さん!!、林さん!!」
必死に叫ぶ昴の声も、もはやこの時の林に届いてはいなかった。そのまま時間だけが過ぎ去り、チャンピオンズはまさかの0対4での予選敗退となった。衝撃の試合結果にバランサーズの選手たちは、驚きを隠しきれなかった。
予選第2試合は、名古屋1位の名古屋アレンジャーズVS三重2位の鈴鹿サーキッツの試合となり、これは綴、綻の糸偏コンビのブロック&コンティニューでの得点が光りアレンジャーズが3対1で勝利した。
続け様に行われた予選第3試合は、岐阜1位の関ケ原ディバイダーズVS愛知2位の三河インダストリーズの試合となる。ディバイダーズは白と緑色の縦縞が精悍なチームで戦国武将のように体格のいい人物が多いチームであった。両チーム戦前のように真剣にアップをしていたのだが、そこに居た選手を見て勘九郎は目を見張った。
「昴!!アイツってーー」
「ああっ!!」
そう言われて昴が目をやると、勘九郎が指さした先には『ぐりんぱ』でリフティングを披露していた、あの人物が居た。興奮した昴は声を荒げる。
「アイツって、都大会の決勝で俺とマッチアップした奴だよな?」
「ああ、間違いない。ーー近江だ」
その言葉を聞いた昴は更に声を大きくする。
「近江!そう、近江だ!!」
「お前がそう言ったんだろ?今さら何言ってんだよ」
「最近、偶然見かけてから、なかなか名前が思い出せなくてさ。助かったよ、勘九郎」
「――忘れたかったのかもな。できれば俺もアイツのことは思い出したくなかったよ」
「あいつサッカー続けてたんだな。しかも俺たちと同じフットサルやってたなんて」
奇妙な偶然に驚いている横で、中はなんとなく状況が飲み込めたようであった。試合はディバイダーズが一方的に攻める展開となり、このレベルの試合としては珍しく、
6対2という好成績での勝利となった。
そして予選第4試合は、いよいよ伊勢シュリンプスとの試合となる。このチームは白と黄色の縦縞が剛直なチームで、ロン毛の選手ばかりであり、相手を躱すのが上手く、取られたら取り返すということを念頭に置いてプレーしていた。そのため、速い展開や、思い切った浮き球での長いパス、シュートを放つことができるチームである。
試合はドラッグバックを多用し、1on1で相手を躱して攻め入る、シュリンプスの点取り屋ピヴォ越前、相手の動きを鋭く察知して避ける、フィクソ越中のシュートや、ポニョ超越の蹴るフリをする『キックフェイント』が光り、前半は劣勢であった。
だが、アラ超飛のボールキープの甘さ、同じくアラの超角のボディバランスの悪さを突くと、すぐにディフェンスが崩壊し、『マイナスサポート』と呼ばれる敢えて下がることによってオフェンスのバランスを欠き、攻めやすくする手法に悩まされたものの、異様に飛び跳ねるゴレイロ越後の挙動が仇となり、3対2でバランサーズが勝利した。
そして迎えた準決勝、下呂ホットスプリングスVS名古屋アレンジャーズの試合は綴、綻の糸偏コンビを要するアレンジャーズ有利の展開かと思われたが、またしてもホットスプリングス船端のプッシュ&プルターンによるオフェンスが光り、4対2での勝利となった。それを見た昴、友助、勘九郎はそれぞれの感想を述べあう。
「すげえな、ホットスプリングス。日本代表が居るチームを二つも破るなんて」
「あの船端って人が曲者ですもんね。あの人には要注意だな」
「俺らだって負けてねえだろ?結局はあそこもワンマンチームだよ」
「そうかもな。けど、強いことには変わりないよ」
準決勝第2試合は、予選で三河インダストリーズを下した関ケ原ディバイダーズとの試合となる。都大会決勝で対戦した近江との因縁の対決にためらう気持ちはあるのだが、全国大会出場を掛けた戦いに、気合いが入らないはずはなかった。
アップが終わって試合が開始されると、アラの進身と、同じくアラの速水のパスが、ピヴォの達巳に集まり、何度もバランサーズゴールを脅かしてきた。これらは辛うじて蓮のファインセーブに救われたものの、戦況は芳しくはなかった。
ここでディバイダーズのフィクソである近江 慎吾は鷹揚に構え、虎視眈々と攻撃の機会を伺っていた。そして満を持してパスを受けると、上体を揺らしながら華麗に昴を抜き去り、強烈なシュートで鮮やかにゴールネットを揺らして見せた。それは、前回の試合では見せていない技だった。
近江のこの『ボディフェイント』は昴の使っているジンガの別名であり、この衝撃のプレーにバランサーズの選手たちが驚かないはずもない。強烈な近江の印象に、見事に翻弄されていた。それから、ディバイダーズの執拗な攻撃に、バランサーズは空中分解寸前であったが、辛うじて前半を0対2で折り返すことができた。
ハーフタイムに入り、意気消沈の昴は、疲れた顔で下を向いていた。
「やっぱ強いなー近江は。体格がものをいうんだよなーサッカーは」
昴の異変に気づいた友助は、駆け寄って声を掛ける。
「ちょっと、どうしたんですか昴さん?顔色悪いですよ」
「俺、昔からテクニックにはあんま自信ないんだよな。不器用だしーー」
友助が必死に問いかけるも、気落ちした昴には届いていないようであった。
それに気づいた保が叱責する。
「おい、やめろ!!負ける理由を探すな!!」
「だって、ホットスプリングスは去年の全国出場チームを2つも倒したんだよ。それに、ディバイダーズは更にそのチームに勝ってる。やっぱり俺らには無理だったんだよ」
「ウチだって全国常連チームのアレンジャーズに勝ってる。伊勢1位のシュリンプスにも勝てたんだ。ダメな筈ないだろ?あと1歩の所まで来てるんだ。絶対に勝つんだ!」
「もう疲れたよ。ここから3点も入れられる訳ないし、十分頑張っただろ?俺ら」
「昴――」
敗戦のトラウマと、王者チャンピオンズの敗退が徐々に、昴の心を蝕んでいた。
だが、諦め掛けたその時、観客席の方からゆっくりと一人の人物がサングラスを取りながら近づいて来た。それを見たバランサーズの選手たちは驚いて目を見張った。
「こんなこったろうと思ったよ」
「先生!!」
「ぬるま湯に浸かって楽をすることを覚えたら、人間はそう簡単には変われねえよ。最後のチャンスだろ。お前にはサッカーが上手くなりたいっていう信念があるじゃねえか。そうだろ、荒木」
「はい、先生」
そう言った勘九郎は、ゆっくりと昴に歩み寄ると、徐に口を開いた。
「なあ昴、今日勝たなきゃ全部が終わっちまうぞ。それでいいのか?一生逃げんのか?逃げてばっかの人生って楽しいのか?せめてもう一回やってみろよ!お前にとっての『勝利』ってのは何なんだよ?」
「俺にとっての勝利は――プロになることだ。大きな舞台で、大勢の観客の前でプレーする。子供の頃からの――そう『夢』だったんだ」
「だったら、ここで乗り越えて見せろよ。負けたことがあるなんて関係ない。ピッチの上では誰だって平等なんだ。勝てるチャンスがあるんだ。ネバーギブアップだ!!」
その言葉を聞いた昴は、試合中であるにも関わらず、感極まって涙を流してしまった。
「ありがとう勘九郎――俺、もう一回やってみるよ」不思議と嫌な気分ではなかった。
「そうだ堺、よく言ったぞ。男なら欲しいものは自分で掴み取って来い!!」
「はい、先生」
後半が開始されると一転、バランサーズの選手たちは水を得た魚といった様子で見違えるほどの動きを見せた。それを見たディバイダーズの選手たちは、驚嘆の声を上げる。
「なんだ、どうしたんだ?」
「まるで別のチームみたいだ、奴ら急に動きがよくなってーー」
そして昴は、この日初めてチームのために黒子に徹した。その泥臭いプレーはスタイリッシュにサッカーがやりたいと願う昴が、これまで最も嫌っていたものだった。
後半2分、昴のピヴォ当てに反応した友助が走り込んでシュートを放ち、これがゴレイロ辺見の上を勢いよく通過し得点となった。この値千金のゴールから一転、試合の流れが一気にバランサーズ側へと加速し、怒濤のシュートラッシュとなったバランサーズは勘九郎、保の追加点で3対4とし、戦況はいよいよ1点差となった。
それから、ピヴォ当てに気を取られた近江の隙を突き、昴が振り向きざまに強烈な
シュートを放った。至近距離からのシュートに対し、ゴレイロ辺見に止める術はなく、これがゴールに突き刺さった。4対4の同点となり、試合は漸く振り出しに戻った。
昴の得点に焦った近江は執拗にマークを強め、その動きを封じようと試みた。だが、これが仇となり、勘九郎が仕掛けた『カーテン』に合わせてマークマンが入れ替わると、友助は近江の前を走り、態と倒されて狡猾にPKを誘発した。
昴はPKと分かるとすぐ迷わず中の方へと向かい、彼の体を抱えると、所定の位置まで運んでそっと立たせた。中は自信に満ちた表情でボールの前に立つと一瞬目を閉じ、静かにボールを蹴り込んだ。中の描いたそのシュートは、一直線に綺麗な弾道を描いてゴールへと吸い込まれて行った。その背中に見えた、あの頃の10番を、昴と勘九郎は決して忘れることはないだろう。この日、昴は学ぶことができた。
誰かが居てくれたから、一人ではなかったから、ここまで来れたんだと。
『真剣に生きる日々だからこそ、笑ったり泣いたりできるんだ』
そしてマネージャーたちが祈るような気持ちで見守る中、執拗に時計を気にしながら試合を進めていた審判が吹いたホイッスルの音と共に、試合終了が告げられた。
「勝ったーー!!」
ギリギリの試合展開とあって感極まって、とうとうみんな泣き出してしまった。大人になってまで情けない。もうバランサーズの選手たちには、そんな思いは皆無だった。一様に喜んで泣きじゃくり、初の全国大会出場の喜びを分かち合った。最後まで全力でやりきる。その諦めない気持ちが、確かな栄光を勝ち取る原動力となった。
そして続く26日、満を持して決勝戦が行われたがホットスプリングスには前評判ほどの実力はなく、怖かったのは『セカンドポスト』と呼ばれるセンタリングを近い方の次に詰めた遠い方合わせるプレーくらいのものであった。
追加点の鬼ピヴォ舳先、ダンディなプレーが売りのフィクソ舶来などを要し、果敢に攻める試合展開に多少苦戦したものの、手抜きプレーが目立つアラ航海と、上手く噛み合わない船端を友助と勘九郎が完全に抑え込み、怒り狂ったゴレイロ般若のセーブミス連発が仇となって4対1でバランサーズの勝利となった。
東海大会優勝という輝かしい成績を収めることができたバランサーズは、その勢いと共に念願の全国大会へ出場しようとしていた。
本日1月24日は予てから予定していた、瑞希の集団訴訟の日である。
「じゃあ、今日裁判所行く日だから。行ってくるね」
「瑞希!」瑞希を呼び止め玄関まで出て来た昴は、真剣な顔つきで話し始めた。
「今日は俺も一緒に行くよ」
「えっ!?どうしたの急に」
「瑞希がこんなに苦しんでるのに、分かってあげられてなかったなんて彼氏失格だよ」
「私は大丈夫だよ。それに、筆跡弁護士って凄くやり手の人が担当してくれてるし」
「それでも行くよ。力になりたいんだ」
「本当に?けど、証言するのは私だよ?裁判には参加できないんだよ?」
「不安なんだろ?傍聴席で見守ってる。今まで一人で苦しませてしまってごめん」
「――ありがとう。ホントは心細かったんだ。そうしてもらえると嬉しい」
これまでは昴のこの強引な所がマイナスに働いてしまっていた。行動が一貫していて頼りになるのだが、控えめな性格の瑞希は、昴の意見に押しきられ、自分を押し殺してしまうことが多々あった。だが幾多の経験を経て瑞希のことを思いやれるようになった今の昴なら、この強引な優しさで瑞希を守って行けるだろう。それから昴の運転で静岡簡易裁判所まで行き、瑞希の同僚ある佐川サクラと、筑波ツクシの二人と合流した。
本件は性的関係の強要とそれに伴う職場環境の悪化、及び権力の行使による従業員への過剰な要求と、退職届の不受理による労働の有無が争点となる。口頭弁論のうち2回の公判期日によって争点整理は終えており、裁判は骨子となる証拠調べへと移行されようとしていた。ここでは証人尋問と、当事者尋問の二つを行う。30分後に開廷となり、冒頭手続きが述べられ、この事件の原因となった事柄をサクラが語り始めた。
「去年の春くらいに仮住さんから付き合ってほしいと言われたんです。断り続けてたんですけど、しつこく言い寄られてしまって。それで、3回目に断った次の週くらいから職場の皆から嫌がらせを受けるようになって、そのことがとても悲しくて」
それを聞いて、相手方の弁護士が即座に反論を加える。
「仮住さんは、そのことはサクラさんの勘違いであるという風に主張しておられます。同僚の方は通常通りに会話をし、普段通りに過ごしていた。それが事実です」
「そんな筈はありません!あの時から明らかに皆の態度が冷たくなりました。私はもうこの店に3年も勤務しているんです。こんな急に嫌われるなんておかしいって、その時に思ったんです。それにーー」サクラは、目に涙を浮かべながら言葉を続けた。
「筑波くんへの対応は、どう考えてもおかしいです。絶対に許せないです!!」
普段は大人しいサクラもツクシの為とあって珍しく声を荒げた。正義感の強いサクラにはツクシのような向上心のある若者への嫌がらせが、どうしても許せなかったようだ。
セクハラには『対価型』と呼ばれる性的な要求に対し報酬を与える、若しくは解雇、降格、減給などの罰則を課すものと、『環境型』と呼ばれる肉体的な接触や性的な発言によって、看過できない程の苦痛を受けるものがある。今回の場合は対価型に分類され、明らかな問題行動が散見された。次に二人目の当事者として、瑞希が尋問に答える。
「先程の答弁の内容に相違ありません。仮住店長は従業員に対し、不当な圧力をかけ続けていました。私たちの職場での輪を乱したくない、ここが悪い場所であるという風にしたくないという心理を逆手に取った卑劣な行為であると考えています。誠に遺憾です」
黒くて丸い眼鏡をかけた裁判長は、無表情のまま淡々と調書を取り続けていた。
続いて三人目のツクシの番になると、彼は怒りが抑えられないといった様子であった。
「仮住店長からの、僕たち三人に対する嫌がらせは、相当に悪質なものでした。先程の回答にもあったように、三人への他の従業員からの無視や、僕に対しては不当に仕事を任せない、過剰なノルマを与えるといった、ハラスメントと取れる行為がありました」
ハラスメントは嫌がらせと訳され、今回のパワハラや飲酒を強要する『アルハラ』、妊婦への嫌がらと合わせて複合的な問題に発展することも多い『マタハラ』などがあり、
同性間でのトラブルも起こり得るため、慎重に取り扱うべき事柄だ。
「一番苦しかったのは、『もしコレコレだったら』と言う言葉で行われた指導法です。このもしという言葉が本当に嫌でした。その仮定として出される意見には、あまりにも無理があり、そしてそれを想定して行われた業務は、その殆どが無意味なものでした。これまでの僕の努力を返してほしいです!!」
「それは仮住さんが筑波さんの成長を期待して言ったことであって、あなたに目を掛けていたからであると認識しています。叱って伸ばすタイプの指導者って居るでしょう?仮住さんはそういう方なんです」
「違います!!あの指導には、明らかな悪意がありました」
「それはあなたの主観では?客観性に乏しい意見には証拠能力が伴いませんよ」
相手方の弁護士は、ツクシの回答を聞くと、自信満々にそう言い放った。
「退職届の不受理については、そもそも、そんなものは提出されておりません。完全な妄言であり、あなたが勝手にでっち上げた『嘘』であるという風に認識しています」
「酷い、そんな筈はないですよ!!歴然たる『事実』です」
「では、その書類はどこにあるのでしょう?店舗にそんなものはありませんでしたが」
「それは仮住さんが捨ててしまったからです!!本当にそうなんだ!!」
「証拠は?」ツクシの発言を受け、相手方の弁護士は冷たく一言そう言った。
「そ、それはーー」それを聞いたツクシは、悔しそうに顔を歪めた。
そして本日、当事者尋問と合わせて行われる証人尋問の証人として、瑞希らの同僚である欅 啓子、柏 佳純が呼ばれていた。
「私が認識している限り、仮住店長のして来た事には、何の問題もありませんでした。原告である三人の主張は不当なものばかりであり、セクハラ及びパワハラは存在していなかったと考えています」そして欅の発言を受け、柏も屈託のない笑みで回答する。
「私も同様の意見です。職場の環境はとても良好で、そんな虐めのようなギスギスした関係はありませんでした。佐川さんらが上手く職場に馴染めていないと考えていたなら、それは本人たちの問題に他なりません。言い掛かりも甚だしいと思います」
証人は完全に仮住寄りであり、瑞希らに不利な状況であることは否めなかった。
そして今回、物証として瑞希が日々付けていた日記が採用されることになっており、筆跡弁護士がこれらを読み上げて行った。
「このような仮住店長からの嫌がらせは、私たちにとって耐えがたいものでした」
瑞希がそう言ったのに対して、相手方の弁護士がすぐさま反論を加える。
「これらのものは全て、山端さん個人が一人で書いたものですよね?これらは幾らでも改竄することができ裏付けとなる資料がありません。些か証拠としての信憑性が低いように感じられます。これらのことは結局、事実かどうか疑わしいものです」
「そんなーーそれじゃあんまりです」
瑞希は悲しみの余り思わず弱気になってしまった。そして今回、被告人として当事者尋問を受けることになっている仮住本人が、裁判長の呼びかけで証言を始めた。
「私はこの度、このような事態に発展してしまったことが残念でなりません」
「では被告人は、原告へのハラスメントがあったことを認めますか?」
「いえ、私自身は清廉潔白な人間です。そのような事実はございません」
仮住は、薄茶色のサングラスの奥から目を光らせ、嫌味ったらしく微笑んだ。
「まず最初に私が申し上げたいことは、今回争点とされているような問題行動はなかったということです。私はウェアフレッシュの皆を平等に扱っており、そんな依怙贔屓のようなことは一切しておりません」これを聞いて、溜まりかねたサクラが口を挟んだ。
「仮住さん、えこひいきと言えばーー」
「原告は本件と関係のない発言は控えるように」
勢い余ったサクラを裁判官が制止すると、これ幸いと相手方の弁護士が口を挟む。
「話すことがないようですし、ここらで口頭弁論を終わりにして頂けないでしょうか?これ以上、無意味な話し合いを続けたくはないですし」
ここで、これまで一回も発言していなかった筆跡弁護士が、裁判長へと進言した。
「裁判長、今回の件で日程が調節できなかった証人が、まだ一人居るのですが」
「筆跡さん、裁判は結審へと向かっています。そんなに重要な人物なんですか?」
「はい。重要な証言をして下さる方です。判決に必要不可欠であると考えています」
「――分かりました。では次回、口頭弁論の期日を設けます」
何とか首の皮一枚つながったが状況は決して有利であるとは言えなかった。瑞希たちは一様に不安な表情を浮かべていたが、筆跡の表情には焦りの色は見られなかった。
「皆さん安心して下さい。僕が正義を勝たせます。次の答弁で逆転です」
皆は筆跡のこの自信ありげな発言を信じ任せる他なかった。帰る途中サクラ、瑞希、ツクシは、仮住の普段とは違う物言いに怒り心頭の様子であった。
「あれって絶対に入れ知恵されてますよね。いつもはもっと余計なこと喋りますし」
「それ思った!清廉潔白とか残念でなりませんなんて。あの人が言うわけないもん」
「本当ズル賢いですよね。保身のためなら周りの犠牲も厭わないですし」
人を悪く言うのは良くないことだとは思ったが、裁判のあまりに横暴な展開に思わずグチが口を突いて出るのであった。
「ああいう人はいずれ必ずボロが出るよ。みんな意外と人となりを見てるから」
昴がそう言うと、勢いづいたサクラとツクシも、これまで以上に不満を噴出させた。
「そうですよね!ホント意地汚い人なんだから」
「そうです、そうなんですよ。最低なヤツなんです!」
人の悪口と言うのは、悲しいかな盛り上がってしまうもので、この昴の発言は二人の心をガッチリと掴んだようだ。それから皆で少し話した後で解散し、家路に就いた。
「今日はありがとね、来てくれて」
「心配だったからね。それに、どうなってるのか状況を把握しときたかったし」
それから二人は車に乗って話を続けながら、家の近くの駐車場まで着いて車を降りてドアを閉めようとした。だが、ちょうどその時に蓮からメールが入り、昴は瑞希に携帯の画面を向けて潔白を示し、ついでだからと例のコンビニでまた会ってこれまでの経過を踏まえて相談を受けることにした。
コンビニに着くと既に蓮はスタンバっており、美味そうに肉まんを頬張っていた。
「すみません、昴さん。呼び出すつもりはなかったんですけど」
「いいよ。ちょうど外に出てたから、会って話した方が早いと思っただけだし」
「ありがとうございます。どうしても相談しときたくて」
「頼りにされてると思うと嬉しいよ。それで、どういう返しだったんだ」
「明日、例の相手と食事に行って気持ちを確かめてくるって言われたんです」
「それで、どうしたんだ?」
「彼女が行きたいっていうから結果待ちなんです。彼女を信じてるんで」
「そんな大事なことを、女の子に委ねるなよ!!行ってもいいってことは、別に盗られちまってもいいって言ってるのと同じだ」
「そんな!!俺はそんな風には考えてないですよ」
「女の子からしたらそうなんだよ。好きだったら絶対、行くなって言え」
「けど、それは彼女の気持ちを尊重してないですよね」
「そんな弱い男はいらねえんだよ。引き留めてほしくて言ってるんだ。乗り換える気だったら、黙って行けばいいだろ?お前のこと試してるんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「ここで負けたら本当に相手に盗られるぞ。そんなんでいいのか?蓮に気持ちが残ってるから言ってくれてるんだぞ」
「でも、彼女が向こうと付き合いたいかもしれないですよね?」
「だったら尚更だよ。好きだったら奪い返せ。彼女のこと大事に想ってんだろ?俺に
言ってくれたみたいに、彼女にも自分の気持ちを伝えろよ」
「俺――自信なくて。ホントに彼女に相応しい人なのかなって、幸せにできてるのかなって。考えすぎて答えが出せなくなってしまってーー」
「ダメなところがあるなら変われよ。日々が不安なら、好きだって何度も伝えろよ。
蓮は努力してゴレイロでスタメンはれるまでに成長したんだ。俺はサッカーの技術では勝ってたけど、人としては蓮に負けてたよ。蓮には『人に優しくできる』っていう良いところがあるよ。自信もっていいよ。彼女を失いたくないんだろ?」
「俺、彼女と話したら泣いてしまうかも。情けないとこ――見せたくなくて」
「泣いたっていいよ。それだけ彼女が大事だってことだろ。それはきっと、彼女も分かってくれるよ」
「――ありがとうございます。俺、彼女に行かないでほしいって伝えてきます!!」
「そうだ!!それでこそ男だ」
「昴さん――優しくなりましたね。良い意味で変わった気がします」
「そうか?それに関しては蓮のお陰だよ。良い影響を受けたってことだな」
「帰ったら、どうなったか必ず報告しますね」
「ああ、よろしく頼むよ」
いい先輩を持って良かった。蓮はこの時、昴に対して初めてそう思えた。
その後、蓮は近所の公園にマユミを呼び出し、自らの想いを伝えることにした。
「マユミ、ちょっといいかな?」
「何――!?蓮くん」
「この前、気になってる人が居るって言ってたよね?」
「うん、狭間さんのことだよね?」
「そう、その人と今も会ってるんだろ?」
「う、うんーー。だって、私のことを必要としてくれるから」
「もう会いに行かないでほしい!!」
「なんで?どうしようと私の勝手じゃない!」
「マユミを一番大切に思ってる。僕にはマユミしか居ないんだ!!」
「でも、ずっとそうとは限らないじゃないーー」
「そんなことない!!僕を信じてよ、『必ず幸せにする』から」
「!!。ありがとう、その言葉が聞きたかった」
「えっーー。ほんとにいいの?これで納得?」
「うん。私、分かったの、蓮くんの魅力――」
「僕の魅力!?それって何なの?」
「蓮くんの魅力はねーー誠実な所なの。狭間さんと接してみて、そのことが分かった」
「誠実さかーー。確かにそれなら負けないかもね」
「けど、蓮くんいつも優柔不断だから、不安になってしまってーー」
「そうかーー。ごめん、これからは不安にさせないように気を付けるよ」
「うん。あなたの魅力を心に刻んで、これからもよろしくね!」
「そうだね、ずっと一緒に歩んで行こう」
それから二人は互いに見つめ合い、固く手を繋ぎながら夜の街へと消えて行った。
本日2月1日は待ちに待ったプロテスト当日であり、この一世一代の大勝負のために多くの選手が鎬を削ろうとしていた。テストは2種類行われ、一週間程でその結果が知らされる。タイの首都バンコクにあるホテルに宿泊し、早めに起きて身支度を整える。
出掛けに昴は、お守りにしているホイッスルを握りしめ、ゆっくりと目を閉じた。
そして目を開けると、ホイッスルの中にビニールに入った一枚のメモがあるのを見つけた。以前こんなものはなかったはずだ。不思議に思いメモを取り出して眺めてみると、そこには墨で書かれた一行の文章があった。
『手繰り寄せろよ、運命を。諦めるなよ、最後まで』
それを見た昴は、あまりの思いに感動を抑えきれなかった。
「先生、ありがとうございます。――行ってきます」
これは滝川が、昴を案じて東海大会の日にこっそり入れておいてくれたものだろう。一人ではない、昴はこの時、そのことを大いに噛み締めることができた。
会場に着くと既に何人かの選手が到着しており、アップを終えると、練習形式で監督とコーチらしき何人かの人物に品定めされるらしかった。最初は緊張して体が硬くなっていたのだが、シュート、クロス、ボールキープなどの練習を経てチームでお馴染みのロンドをやると少し解れてきた。ふと周りを見渡してみると、一人気になる人物が居た。
“おっ、あの人上手いな”
その人物は相手に背後から近づき、すんなりとボールを奪って見せた。小休止に入り“タイにもこんな上手い人が居たんだな“などと思っていると以外にも日本語で話し掛けられた。少し年上かと思われるその人物は、黒く日焼けしていたため東南アジアの人かと思われるような風貌であった。
「よっ、日本人か」
「!!。そうです、日本の方だったんですね」
「そうだよ、忍比ってんだ。キミ名前は?」
「堺です。大阪の地名と同じ字ですね」
「そっかー。俺、伊賀忍者の末裔なんだ」
「そうなんですか。ほんとに?」
「ほんとだよ、服部半蔵の子孫なんだ」
「う~ん、まあ一応は信じときます」
「ほんとなんだって。じゃあ今後のプレーで証明してみせるよ」
そして暫くチーム分けの発表を待っていると、トレーナーから英語で話し掛けられた。
強みを聞かれ、判断力があるのと球離れが速いことだと答えると、賛同してもらうことができた。更に君のプレー良いと思ってるんだ、最高だよ!と言われ、謝意を伝えると次の試合形式のテストでもしっかり活躍してくれよと言ってもらえた。
“才能がないわけじゃなかったのか。チャンスが――チャンスが掴めなかったからだったんだ。まだ、その時じゃなかったんだ。自分に必要な、『ちょうどいいタイミング』を探さないと、あるべき『姿』にならないと、できないことだったんだ”
認められたことで、嬉しさが込み上げて来る。
“チャンスだ、夢を掴むなら今しかない!!”
その後20分×2回のミニゲームを行い、選手たちはその実力を示すこととなった。
参加者は全部で36名のため、12人3チームが2試合を行う。昴は、代表者によって振り分けられたチームで忍比と一緒になり、青のゼッケンをつけた。そして1試合目の開始直後、昴が渾身のジンガを見せつけ、相手を鷹揚に抜き去って点を決めると会場からどよめきが漏れた。こういった状況は非常に気分がいいもので、昴はこのテストで2度目の好感触を得ることができた。
試合が再開され赤のゼッケンをつけた相手チームがまごついたところ、忍比が相手のボールロストから即座に展開し、昴がワンタッチでパスを返すと、それを大きく浮き球に変えて、瞬時にディフェンスの前に出て得点を決めた。これには昴も目を見張る。
忍比のこの『シャペウ』はポルトガル語で帽子を意味し、相手の頭上を通過するようなフェイントで、ブラジル代表として、2016年のリオデジャネイロ五輪を制した、ネイマール・ダ・シウバ・ジュニアも使用しているフェイントである。
“まだまだ上手い人、知らない技があるんだな”
昴はこの日、自らの可能性とサッカーの可能性を同時に感じていた。忍比はバク宙で得点の喜びを表現していたのだが、この試験においては明らかにオーバーアクションであり、監督、コーチ共に苦笑いを浮かべていた。
「見事ですね、流石は伊賀忍者の末裔!」
「だろ?身軽なんだよ、俺は」
そう言うと二人は、ガッチリと右の拳を突き合わせた。それからも昴は必死になって得点を狙いに行き、更に1点をもぎ取ることができた。後に昴は、この時の夢中になって挑んだ感覚を、何度も何度も反芻して思い出すほど大切なことであったと感じていた。
『剣ヶ峰では全力を』これは人生の鉄則なのかもしれない。
そして、赤のゼッケンのチームを圧倒してからの運命の2試合目。次の対戦相手は、黄色ゼッケンのチームであり、昴たちとは対照的にゴツくてデカい選手が多かった。
試合開始直後、センターフォワードの選手がポストプレーで1点をもぎ取り再度相手チームのオフェンスに切り替わると、中央からゴール右隅に強烈なシュートが炸裂した。
試合が再開され、昴が警戒してプレッシャーを掛けると、マークしていた選手が倒れすぐにファウルが取られてしまった。これは『魔法の笛』と呼ばれ、タイでは基本的にフィジカルコンタクトに厳しく、ジャッジがお世辞にもフェアとは言えない場合がある。
「マイペンライ」
昴が覚えたてのタイ語で謝罪したのに対して、相手選手は優しく微笑んで見せた。
そしてゆっくりと置かれたボールを強烈にキックし、ブーメランのように曲げられたフリーキックは鋭くゴールへと突き刺さり、前半終了後に0対3で俄然不利となった。最早これまでかと思われ、昴のチームは大きな不安と共に後半へと向かった。
だが、今日の昴は一味違う。両掌で強く頬を張ると咆哮して奮起し、ここでも必殺のジンガで華麗に相手を抜き去り、得点を決めて見せた。これには首脳陣も舌を巻く。
「エクセレント! ライク ア モンクット!」
“モンクットって、どっかで聞いたことあったようなーー”
そんなことを考える余裕が出てきた頃、相手チームのミスでボールがサイドラインを割ると忍比がスローインを買って出た。忍比が勢いよく転回すると、放たれた球は弾丸のように昴の頭上まで飛んできた。
忍比のこの『フリップスロー』は、ハンドスプリングの勢いで投げるスローインで、日本では80年代に筑波大学の選手が行って大流行し、近年では17年に、前橋育英の助走をつけ上体を弓のように撓らせるロングスローなど、日々進化している技である。
このセンタリングで昴は、見事に2点目のヘディングシュートを決めることができた。
忍比は自信ありげに人差し指と中指だけを伸ばして蟀谷の横に当て、それを前に押し出して合図を送って来た。その暑苦しいキャラクターが少し苦手ではあったが、悪い人ではなさそうなので、気にしないでおくことにした。忍比とのコンビプレーは、即席であるにも関わらず妙に馴染むものがあり、スムーズに試合を運ぶことができた。
“サッカーって、こんな楽しかったっけ?”
捨てる神あらば拾う神あり。昴はこの日やっと自分のサッカーを取り戻せた気がした。
それから昴たちのチームは見事黄色ゼッケンのチームを制圧し、3チームのリーグで優勝することができた。試合後、忍比は、昴に対して正直な感想を述べた。
「やるな、堺。俺はもうダメかと思ったよ、この状況から逆転できるとはな」
「ありがとうございます。今日はそういう気持ちになれたっていうかーー」
「ハートが強いんだな、俺もそこは見習わせてもらうよ。これからもよろしくな!」
「はい、こちらこそ!」
人は負荷がかかった時に初めて成長する。プロであれば肉体、精神共に強さが求められ、それは不変のものではなく弛まぬ努力と、日々の修練の先にあるものなのだ。この時昴は、初対面であれば強心臓と言われるまでに成長できていた。昴はテストが終わると、憑き物が落ちたように体から力が抜け落ちてしまい、忍比と連絡先を交換した後で長い一日を終えて1泊し、確かな自信を得て帰路に就いた。