初恋
水鏡で何が見えたのか、頭を抱えたサクラが去っていく。
本人は帰るつもり満々だろうが、殿下から夜も遅いから泊って行けと言われるのが目に見えている。あの性格からして断り切れないだろう。
「―――これでわかると思ったのに」
思わず言葉が口に出る。
手には我が家の家宝である水鏡。
それを見つめながら、水鏡で見た幼いころの映像を思い出していた。
***
「ここで少し待っていろ」
「はい、父上」
幼い頃父に連れられ、父の友人の邸宅に訪問したが、幼い自分がすることなどあまりない。
今もテラスに設けられた椅子に腰かけて、大人しく待つのみだ。
テラスから見える広い庭は、四季の花が揺れて華やかだ。しかし席を離れて見に行くなど勝手な振る舞いはできない。自分は侯爵家の跡取りなのだから。
そう言い聞かせて、自分を律して生きてきた。
ぼんやりと庭を眺めていると、唐突に近くの茂みが揺れる。
驚いてそちらに目を向けると、茂みから少女が飛び出してきた。
自分より1つ2つ年下だろうか。まるで妖精のように愛らしい少女だが、あちこちに葉っぱをくっつけて、髪は乱れ、大変愉快な恰好だった。
普段、着飾って上品な女性か使用人しか見たことがなかったので、ポカンと見つめてしまう。
「……お客さま?」
ようやく自分以外の存在に気づいたのか、少女は大きな藍色の瞳を一層大きくした。
お互い見つめ合う事数秒、少女は弾かれたように動き出した。
焦ったように近くに駆け寄ってきて、何かを差し出す。差し出されたはクローバーだった。
「お願い! 私が来たのを内緒にしてほしいの。アンバーもバレないように『ショウコインメツ』すればいいって言ってた」
「な、そんな『ワイロ』に屈しないぞ」
「むー。せっかくグレイが一緒に探してくれた四つ葉のクローバーなのに。私の分はあげるから、ね?」
愛らしく頬を膨らませて、無理やりクローバーを握らせてくる。
こんな葉っぱ、なんの価値もない。
なのに少女が触れた手に心臓が高鳴る。くるくる変わる表情を、もっと見たいと思ってしまう。何か言葉を返そうと思うのに、口から出てくるのは空気ばかりだ。
少女はそんな俺の様子に気づかず、くるりと体を翻した。
「あ、待て。名前……」
伸ばした手は届かない。
駆けだした少女はもう自分なんて見ていない。
見ているのは庭に現れた黒づくめの男だった。
「お父様!」
駆け寄る少女に気づいたのか、黒づくめの男は少女と同じ色の瞳を細めて腰を下ろす。
「こんな所にいたのか。オレの白雪姫」
男は服が汚れるのも厭わずに、駆け寄った少女を抱きしめた。
その表情は愛情に溢れている。
父上はあんな表情、俺に向けてくれた事がない。
母上は似たような表情をすることはあるけど、それは父上を見ている時だ。
両親の言う通りにしていれば、いつかあんな表情を自分に向けてくれるだろうか。
あの親子を見ていると心の中がモヤモヤして、鼻の奥がツンとする。
「こんなに汚れて何をしていたんだ? また叱られるぞ」
「お父様は『フコウ』って皆が言うから、幸運のお守りを探してきたの」
少女が差し出したのは、先ほどの四葉のクローバーだ。
男は瞬きを一つして、はにかむように笑う。そして少女の小さな手をクローバーごと包むように握った。
「ありがとう。でも、これはお前が持っていてくれ。お前が幸せならオレも幸せなんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。それにリリーもアンバーもグレイもいてくれる。こんなに幸運な事はない」
首を傾げる少女を片手で抱き上げて、男は歩き出す。
二人の姿が見えなくなった後も、風に乗って会話が聞こえてきた。
「お嬢様? どうしたのですか、その恰好は。皆にバレないように綺麗にしてから行きましょう。そうすれば怒られませんよ」
「子供に何を吹き込んでんだ! ダメだぞ、お嬢。アンバーの言葉を鵜呑みにしたら」
「グレイこそ、お嬢様を見失っておいて偉そうに言わないで下さい」
楽し気な声が遠のく。
一人ぼっちの自分を残して、水鏡の映像は途絶えた。
***
母の騒動のあとで、指輪をサクラに返す殿下の姿があの時のクローバーを返す姿と重なって見えた。
隠しているならそれでもいい。何か理由があるのだろう。
俺は爵位も領地も婚約者も、全部自力で取り戻して見せる。