先生
そんなこんなで、和やかと言えなくもないお茶会は終了した。
院長の事も『真実の水鏡』の事も謎が残ったままだが、国家権力を持っているクロッカス殿下やその側近たちが動いているので、私の出る幕はないだろう。
それよりも私には今度クロッカス殿下との食事会が控えている。
院長に教えてもらった事を復習しておかないと。
今日みたいにフランクな感じならいいけど、相手は王族なので絶対違うと思う。
今からでも胃が痛い。
胃のあたりを押さえながら職場に戻ると、残っているのはフラックスだけだった。彼は必死に机に向かって眉を顰めながら永遠に文章を書き続けている。
ちなみに他の皆は定時退社している。
少し前の私もこんな感じだったのだろうか。
私の時はなんだかんだアンバーが手伝ってくれていた。
あれがデフォルトかと思ったのだが、周りにそれとなく聞いたらそうでもないらしい。
確かにアンバーは部署の皆がいなくなってから手伝いに来てくれていたな。
あれもあれでクロッカス殿下の気遣いだったのだろうか。院長に言われて私の採用を決めたから、様子見もあったんだろうけど。今度会ったら聞いてみよう。
フラックスの場合、アンバーが教えるのをボイコットしてる可能性があるけど。アンバーはフラックスを嫌っていそうだったので。
侯爵家の跡取りだから、そもそもの要求値が高いのもあるだろう。
貴族も大変だ。
「何かお手伝いできる事はありますか?」
「いや、いい」
声をかけてみたが、にべもなく断られてしまった。
「でも、このままだと終わりませんよ。人を上手く使うのも、上に立つ人には大事なのでは?」
流石に帰れないのは可哀想だし、無理して倒れられても困る。
じっとフラックスを見つめているど、ようやく彼の手が止まり、視線がこちらに向いた。
その顔はなぜか拗ねた子犬を連想させる表情だった。
「アンバーにお前の方がマシだと言われた」
そんな事言ってたのか、あの野郎。
余計な火種を撒くな。
そんな事を思いながらも顔には出さずに、
「勉強と実践では違う事も多いですよ。私も最初は苦労しました。フラックス様はすぐに私より出来るようになりますよ」
なんせ攻略対象なので。
モブの私よりハイスペックなのは請け合いだ。
「......そうだろうか」
フラックスは自信なさげだ。
アンバーに心折られまくってるからな。仕方ない。
「大丈夫ですよ。不安なら慣れるまでは私が先生になります」
アンバーの代わりにはならないだろうが、慣れてる私が教えた方がいないよりマシだろう。
「お前が?」
フラックスは酷く驚いたようだった。
これでも孤児院で年下に勉強を教えてたからね。自信あるぞ。
「はい。私が合わなければ言ってください。アンバーに頼んでみます」
「アンバーはいい」
明確に拒絶されてる。
アンバーだから仕方ないか。私もそこはフォローしないぞ。
「ではお隣失礼します」
とりあえず進行状況を見るべく隣に座る。
そこで改めて落ち着いた状態で近くから見ると、やっぱり顔が良いな、と思う。
更に凄く良い匂いがする。最初は辛味があってツンと鼻にくるけど、段々と爽やかに甘く香る清涼感のある香りだ。
なんで男なのに、この世界の男達は良い匂いがするんだ。乙女ゲームの世界だからか?
私なんて絶対に洋服の洗剤の匂いしかしないぞ。
「どうした?」
まじまじと見つめていたせいか、フラックスも不思議そうに私を見つめ返す。
うっかり数秒見つめ合ってしまった。
「すみません。年上に教えるのは初めてなので、緊張してしまって」
嘘を言って誤魔化しつつ、視線を書類に向ける。精神年齢は私のが上だけどね。
「そんなんで大丈夫か? 先生?」
揶揄うような物言いで微笑まれてしまった。
見てろよ。今に『先生』の称号に相応しい指導してやるんだから。