母の愛
「だがリリーがスノウを犠牲にしてまでオレを救おうとするなんて思わなかった。気づけなかったのは夫として情けない限りだ」
クロッカス殿下が沈痛の思いで息を吐く。
「リリーは元々子どもは欲しくないと言っていたのに、結婚してから急に意見を変えたんだ。周りの意見に流される奴でもないし、結婚による心境の変化かと思っていたが……。ちゃんと話を聞けばよかった」
俯くクロッカス殿下を、院長がジト目で下からのぞき込む。
「どうせ姉さんに押し倒されてうやむやにされたんでしょ」
「子どもの前でそういう話をするな」
珍しく顔を引きつらせた殿下が院長の口を人指し指で塞ぐ。
きっと事実なんだろうな。
夫婦のあれこれを聞くのは野暮なので置いておくとして、まだこちらの話が終わっていない。
グレイが無言で睨み合っている殿下と院長に割って入った。
「アンバーは気づいてただろう。姐さんがスノウを……そんなに好きじゃないって」
グレイはこちらをちらりと見て少し言い淀んだ。
スノウは私が耳を塞いでいるので安心してほしい。そういう意味を込めてグレイに苦笑を返した。
スノウも理解はしているのだ。母親に愛されていないことを。ただ感情が追い付かないだけ。本人が消化できるまで、余計な言葉で傷つかなくてもいいように守るだけだ。約束したからね。
尋ねられた院長はきょとんとした顔をグレイに向ける。
「姉さんはスノウを嫌ってたわけじゃないよ? ただ、興味がなかっただけ。好きとか嫌い以前に無関心だったんだよ」
「余計にダメだろうが。なんで殿下や俺に言わなかったんだよ」
苛立ちを込めて詰め寄るグレイに、院長はますます首を捻る。
「だって殿下もグレイも、生まれてから母親に愛されたことないでしょ?」
その言葉を理解するよりも早く、グレイの拳が院長に飛ぶ。
しかし院長は軽々とその一発を避けた。
再び殴ろうとするグレイをクロッカス殿下が肩を掴んで抑える。
「アンバー。言い方が悪いぞ。ちゃんと伝わるように言え」
クロッカス殿下の注意に、なんで殴られたのかわからずにきょとんと瞬きを繰り返していた院長が困惑したように口を開いた。
「母親の愛情なんてなくても殿下もグレイも優しいし、姉さんやボクより人間出来てるじゃないか。それに貴族の婚姻なんて、愛がなくても子ども作ってる夫婦なんていくらでもいるよ。ボクの母さんも、ボクを産んで半年後に任務で死んじゃったからよくわからないけど......姉さんだってスノウを嫌って意地悪してるわけじゃないんだし、スノウの事は殿下とボクとグレイが愛してるんだからそれでいいってボクは思ってたんだけど、ダメなの?」
難しい問題だ。
前世でも子どもを愛せない親だっていた。片親や親と血が繋がってなくても幸せそうな子どももいる。
院長の質問は難しいものだけど、それでもグレイは苦々しく口を開いた。
「俺は……母親の愛情が欲しかったよ」
「私も出来ればあった方がいいと思います。こればかりは人によると思いますよ」
「……そっか。じゃあボクも気づいたときに皆に聞いた方が良かったね。答えが出るものじゃないから、余計に」
院長は困ったように笑う。
人とズレているけど、素直に人の話を聞けるのが院長の良いところだ。素直過ぎて喧嘩を売っているように聞こえるのが偶に傷だけど。
「グレイ」
クロッカス殿下がグレイに向き直って優しく声をかける。
その顔は『兄』の顔だ。
「リリーが反乱を企てたのも、スノウを殺そうとしたのも、オレ達を想って黙っていてくれたんだな。お前にばかり負担をかけてすまなかった、グレイ―――いや、シルバー」