番外編~それさえも尊き日々で~
再び18年前。過去編です。
雲一つない快晴の中を、小鳥たちが飛んでいく。
春の陽気が降り注ぐ空とは裏腹に、人気のない静まり返った部屋でクロッカスは少し開いた窓の外を眺めていた。
ソファに座ったままぼんやりしていると、気配も音もなく、目の前のテーブルにコーヒーが置かれた。
「ありがとう、アンバー」
ようやく窓から目を離したクロッカスは、テーブルを一瞥してからコーヒーを手に取る。
躊躇いなく一口、コーヒーを口につけてから、ようやくクロッカスは横に視線を向けた。
「また腕をあげたな。お前は本当になんでも出来る」
口元を緩ませたクロッカスの横には、いつからいたのか10歳ほどの少年が立っていた。白髪に金目の、妖精のような絶世の美少年である。
アンバーと呼ばれた美少年は、ジト目でクロッカスの事を見上げていた。
「ボクが貴方を殺そうとしたの、忘れたんですか? 毒でも入っていたらどうするんです」
「大体は飲む前に気づく。気づけなかったらそれまでだ。オレが悪いと諦めるよ」
コーヒーをテーブルに置きながら淡々と返すクロッカスに、アンバーはむすっとした顔になる。
「そうじゃなくて……なんでボクの事怖がらないんですか。子どもみたいだから舐めてかかってます? 貴方なんて簡単に殺せるんですからね。―――こんな風に」
アンバーが指を鳴らすと、クロッカスの周りをガラスのように透明な刃が取り囲む。剣のような形をしたそれらにドーム状に取り囲まれ、クロッカスは数度瞬きを繰り返した後に口を開いた。
「凄いな! 初めて見た!」
「えっ」
勝ち誇った顔をしていたアンバーが二度見する。
クロッカスは少年のように目を輝かせて、自分を取り囲んでいる刃を見ていた。アンバーの蛮行をまったく気にした様子はない。
クロッカスは嬉々とした表情でそのままアンバーに語り掛ける。
「文献でも見た事ないな。失われた古代魔法か?」
「あの」
「でも室内で使うのは危ないから止めておけ。制御を間違えたら、周りに被害が出るからな」
そう言うとクロッカスは片手を上げる。その手が空を切るような仕草をすると、クロッカスを取り囲んでいた刃が音もなく消滅した。
「……は?」
呆然と目を見開くアンバーの横で、クロッカスは何事もなかったかのようにコーヒーに口をつける。
コーヒーがソーサーに置かれる音でようやく我を取り戻したアンバーは、信じられないものを見る目でクロッカスを見る。
「どうやって打ち消したんですか!?」
「古い魔法は強力な物が多いぶん、大雑把だからな。脆いところを突くとすぐに崩れるぞ」
「そんな、砂漠の中で一本の針を探すような事を初見で……」
声を震わせるアンバーに、クロッカスは不思議そうに首を傾げる。
「お前だって出来るだろう?」
「そんな事するより、自分の魔力をぶつけて破った方が早いですよ」
「それだと相手より魔力を多く消費しないと破れないだろう。格上相手だと通用しないぞ」
「ボクより上なんていないからいいんです!」
つんっとした態度のままそっぽを向いたアンバーに、クロッカスは困ったように腕を組む。
「今のままで満足してるのか。もっと強くなれそうなのに。勿体ないな」
その言葉に、アンバーはぴくっと肩を震わせる。胡乱気にクロッカスに目を戻したアンバーは、じっと何かを見定めるように彼を見つめた。
見透かすようなアンバーの視線を、クロッカスは笑顔で受け止めた。
「お前の使ってる魔法は古いものが多いからな。まるで妖精から習ったみたいだ。それ自体、強力で価値があるものだけど―――現代の魔法だって面白いぞ。使いやすく、最小の魔力で最大の威力を引き出せるように改良を重ねた人類の英知だ。お前は天才だから、二つを組み合わせてより強くなれるし、新しい魔法だって作れる。……そう思わないか?」
その問いに答えはなく、沈黙だけが返ってきた。
じっと見つめ合い、先に目を逸らしたのはアンバーだ。迷うように自分の手を重ね、視線を彷徨わせた後、ゆっくりと顔を上げた。
アンバーが口を開こうとした瞬間、ノックの音が室内に響いた。
途端、弾かれたようにアンバーがドアに向かって走る。
「おはよう、姉さん!」
相手を確かめる前にドアを開き、笑顔で出迎えたアンバーに対して、彼とよく似た笑顔でリリーも挨拶を返す。
「おはよう、アンバー。殿下の所にいたのね。殿下にご迷惑をおかけしてないかしら?」
「えっ、う、うん。もちろんだよ」
扉を閉めながら視線を彷徨わせるアンバーに、リリーは困ったように片手を頬に置いて溜息をつく。
それからリリーは努めて明るくクロッカスへ一礼した。
「おはようございます、殿下」
「おはよう、リリー。良い朝だな」
姉弟の様子を微笑ましく見守っていたクロッカスが挨拶を返す。
その途端、開いていた窓から小鳥の群れが襲来した。
小鳥たちはあっという間にクロッカスを取り囲むと、猛烈な勢いで突きだした。
「おわぁっ!?」
なすすべなく突かれるクロッカスを、瞬時に動いたリリーが抱えて助け出し、部屋の隅に退避する。
「大丈夫ですか? 殿下」
「ありがとう、リリー。今日も世界一カッコいいな」
リリーはクロッカスをお姫様抱っこしたまま、ぽかんと眺めているアンバーを叱咤する。
「アンバー、これくらい即座に対応できないと死ぬわよ、殿下が」
「ここって戦場か何か?」
引いた目でリリーを見やった後、アンバーはピヨピヨと囀りながら飛び交う小鳥に目をやる。
「出て行ってよ。ボクを怒らせたいの?」
その言葉を理解したように、小鳥たちは開いていた窓から一斉に飛び去って行った。
溜息を付きながら窓を閉めるアンバーを片目に、クロッカスは苦笑いを浮かべた。
「外に出て鳥の群れに襲われたことはあるけど、室内まで来たのは初めてだな」
「殿下は動物に好かれない体質なんですね」
「ああ。犬は吠えたてて襲ってくるし、猫は毛を逆立てて引っ掻いてくるし、馬は近づくだけで暴れ出すからな。おかげで乗馬が出来た試しがない。困ったものだ」
苦笑しながらも和やかにリリーと話しているクロッカスに、アンバーがジト目で近づいていく。
「いつまで姉さんに抱っこされてるんですか! その状態で普通に話さないで下さい!」
「―――そうだった。すまない、リリー」
アンバーに言われて初めて気づいたような顔で、クロッカスはようやくリリーに下してもらう。クロッカスは非常に申し訳なさそうな顔でリリーと向き合った。
「安心感からそのままになっていた。重かっただろう?」
「いいえ、花束を抱えているくらい軽かったですわ。殿下」
「花は君もなのに。特別綺麗な花に守って貰えて光栄だ。オレの騎士」
「殿下……」
見つめ合う二人の間を、リリーを背に庇うようにしてアンバーが割って入る。
「姉さんを誑かさないでください」
「誑かしてないぞ。事実しか言っていない」
「嘘をついてない分、余計に質が悪い!」
片眉を上げて首を傾げるクロッカスに、アンバーは毛を逆立てた猫のように威嚇する。その後ろからリリーが慌ててアンバーを宥める。
「アンバーったら、殿下に失礼よ。ごめんなさい、殿下。アンバーがご迷惑をおかけしているでしょう?」
「いいや、アンバーはよくやってくれているよ。それに、君を喜ばせたいからと料理やお菓子作りも勉強しているし―――」
「言わないで下さい! ……違うよ、姉さん。殿下に試食なんてしてもらってないから!」
「アンバー!」
リリーに叱られた途端、アンバーは今までの威勢を投げ捨てて小さくなる。
「姉さんに喜んでもらいたくて……。『影』だと『貴方様が料理なんてする必要ない』って止められるんだ。殿下はやりたい事やっていいって言うし、ちゃんと評価してくれるし、嘘つかないし、怒らないから……」
段々声が小さくなるアンバーの頭をクロッカスが優しく撫でる。
「怒らないでやってくれ。アンバーもどうやったら君が喜んでくれるか一生懸命考えてたんだ。……それにオレにとっては、試食としてちゃんと味を見て欲しい分、毒が入ってないだろうから普段の食事より安心して食べられるから感謝してるぞ」
「殿下は前提がおかしいのもありますけど、アンバーの事、あまり甘やかさないでください」
リリーの言葉にクロッカスは苦笑する。
「悪いな。どうもアンバーを見てると、弟を思い出して甘くなってしまうんだ」
ぴくりと頭を撫でられていたアンバーが反応する。それに気づかず、リリーが顎に手を当てて考え込む。
「異母弟の王太子様……ですか? そんなに仲が良さそうに見えませんでしたが」
「ああ、そっちじゃないよ。もう一人、下に異母弟がいたんだ。俺と同じ、側室生まれのな。―――生きていたら、アンバーと同じ年だったんだ。アイツはお化けが見えるって、よくオレに泣きついてきてた。兄として、守ってやらないといけなかったのに―――何もできなかった」
クロッカスは後悔するように目を瞑る。それをじっと品定めするようにアンバーは見つめていた。
一方、リリーも申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ありません。不躾にこのような事を聞いてしまって」
「いいや、オレも悪かった。それに弟の事がなくても、アンバーには甘くなってたさ。なんせ可愛いからな」
「は?」
今まで黙って話を聞いていたアンバーがド低音の声を上げる。
「誰が可愛いんですか!? ボクの方が強いのに! 撤回してください!」
「強さと可愛さは関係ないだろう。アンバーは可愛いぞ。そうだな、あれだ、ポメラニアンみたいで」
「なんでポメラニアン!?」
キャンキャンとアンバーが声を張り上げる中、リリーは『ポメラニアン』を聞いた時点で噴き出して崩れ落ちていた。声を出さないように肩を震わせるリリーの横で、アンバーが声を張り上げる。
「殿下なんて嫌いです! 絶対に殺してやるんだから! 覚悟しておいてください! だから! 撫でないで! 怖がってください!」