悲劇の幕開け
回想シーンから始まります
「お義母様!」
知らせを聞いて、急いで駆けつけた。『はしたない!』と叱られるはずなのに、そんな声も飛んでこない。
なぜならいつも叱りつけてくれたその人は、死の縁にいるのだ。
広い部屋で天蓋付きの大きなベッドに横たわるのは、年老いた女性だ。
偉大な女王だった。いつも国と民の事を考えている人だった。
私はそんな彼女の一人息子の婚約者として、幼い頃に選ばれた。親元を離れ、彼女の息子である王子と共に育ち、国母なるために厳しい教育を乗り越えてきた。
なによりも近くで女王陛下の背中を見て、憧れていた。己にも周りにも厳しい人だったが、それが何よりも相手を思っての優しさからだったことに私は気づいていた。
―――もっとも、一人息子の王子であり、私の夫はその優しさに全く気付かなかったようだが。
そんな人がやせ細り、今にも途絶えそうな息を繰り返している。
私は思わず、やせ細って骨ばかりになった彼女の手を取った。
冷たい。
もうすぐそこまで死が迫っているような冷たさだった。
お義母様は何とか目を開けて私が居ることに確認すると、周りの者を下がらせた。
これが最期の別れになる。
私は涙が零れそうなのを歯を食いしばって耐えながら、お義母様を見つめた。
彼女は普段の厳しさが嘘のように、優しい顔で私を見つめ返す。
「貴女には苦労をかけたわ……でも、貴女の事は……本当の娘のように思っているのよ……」
「わかって、います……!」
私の手を優しく握り返してくれた手を、私も強く握り返す。
泣くな、泣くなと思っているのに、一筋の涙が頬を流れた。
そんな彼女の一人息子はと言えば。
母親が病を患い、譲位して国王になってからは、今まで我慢していた分が弾けたように、自分の好きなように動き始めた。
城に置く調度品を新しく買い揃え、娶った側室に服や宝石を好きなだけ買い与え、自分は国政を貴族に任せて最愛の側室と愛に耽っている。母親の見舞いにも来ようとしない。
正室となっただけの私の言葉など、煙たがられるだけだ。
それでも私は妃として、この人の娘として、この国を背負っていこうと、そう彼女に宣言しようとした。
しかし私より前に、お義母様が口を開いた。
「貴女に渡す物があります……あれを……」
彼女が震える手でベッドの横にある机を指さす。そこには小さな正方形の箱が置いてあった。指輪でも入っていそうな小ささだ。
私が手に取ってもほとんど重みを感じない。ただ中に何か入っているのか、左右に揺らすとかすかに中の物が動くのがわかった。
「開けてみなさい」
お義母様の言葉に、私は素直に従って箱を開けた。
そうして、箱の中の物と『目』があった。
比喩ではなく、箱の中には丸い目玉が一つ、ごろりと入っていたのだ。
「ひっ……!」
箱を取り落とさなかったのが奇跡ともいえる。
なんせ私はほとんど城の中しか知らず、厳しい教育を受けてはいたがそれは淑女として、貴族としての教育だ。人の血肉など見たことがなかったのだ。
そんな私でもわかる―――これは人の目だ。
「お、お義母様……これは一体……?」
震える声で尋ねる私に、お義母様は小さな子供に教えるような優しい声で答えた。
「それはウィスタリアの目よ」
何を、言ってるの?
全く理解が出来なかった。
ウィスタリアはこの国の王族の祖先だ。虹の女神の子供だとされている。いわば女神の子であり、ウィスタリア本人も神だ。
御伽噺で『雪の妖精』に助けられた後、この地を守るために人々を見守っているとされているが、所詮御伽噺だ。
今までウィスタリアに出会った人間はだれ一人としていない。
ましてや、その目がこんな所にあるわけがない。
混乱と恐怖でパニックに陥る中、追い打ちをかけるようにお義母様の言葉が私に届く。
「その目を食べなさい。そうすれば貴女も貴女の子どもも、ウィスタリアの力を得ることができるでしょう」
―――なに、を?
私は改めてお義母様を見た。その目はいつもの目だった。国や民を思いやる優しさに溢れていた。
―――正気の目だった。本当に、この人はそれでウィスタリアの力が手に入ると、信じているのだ。
怖い。
初めてお義母様に恐怖を覚えた。狂気にかられていたり、病に侵されて気弱になっているわけでもなく、正気でこんなことを言える人間に震えが止まらなかった。
お義母様は再び何かを言おうとして口を開いたが、それは言葉にならずにせき込み始めた。そして咳き込みながら喉を抑えて苦しむ始めた彼女を見て、私は慌てて大声で人を呼んだ。
その後はお付きの者や医師が大挙して訪れ、私はあっという間に部屋から追い出されてしまった。
―――あの箱を持ったまま。
今の会話はなんだったのだろうか。ひょっとして、悪い夢でも見ただけなのかもしれない。
現実味がない。ふらふらとおぼつかない足取りで廊下を歩く。
それなのにずっしりと、軽いはずの小さな箱が私に現実味を与える。私の意識を嫌でも現実に引き戻す。
気づけば、中庭まで歩いてきてしまっていた。
色とりどりの四季の花が心を癒してくれるはずだが、今はそんな花たちも色あせて見える。
ただぼんやりと庭を見つめていると、遠くから声が聞こえた。
「そんなに急ぐな。転んだらどうするんだ」
「もう、陛下ってば。過保護すぎます。大丈夫ですよ。少しくらい運動しないと、返って体に悪いんですよ?」
「しかしだな……君とお腹の子にもしもの事があったら……」
中庭を仲良く歩いているのは夫である国王と、側室の娘だ。
何も知らずに、能天気にへらへらと。影にいる私に気づかずに、二人は仲睦まじく通り過ぎていく。
別に、私は側室がいても良かったのだ。
国王は、夫は、昔から勉強も出来なくて、気弱で、いつもお義母様や周りに叱られてばかりいた。本人が努力しても実らず、周りから『あんなのが王になるのか』『女王陛下も他に子がいれば良かったのに』と散々陰口を言われていた。
だからその分、私が頑張ればいいと思っていた。
あの人は優しくて、親元を離れて泣いている私をこっそり中庭に連れ出してくれたり、花をプレゼントしてくれた。大人に内緒で夜中にお菓子を食べたり、星を眺めたりした。
全部幼い頃の思い出で、あの人は忘れているかもしれないけど、あの人が優しくて傷つきやすい分、私が強くなろうと思った。
例え私を愛してくれなくても、あの人の心が救われるのなら側室の事も許容できた。
だけど、今は。
お義母様には夫の事でもなく、国の事でも民の事でもなく、こんな気味の悪い目玉を託されて。まるでお前が力不足だからウィスタリアの力を借りるのだと言われているようだった。
私の努力はなんだったんだ。私よりもこんなオカルトめいたものに頼るのか。
沸々と沸く怒りは留まることを知らない。
それは側室の娘も同様だ。
私はこんなに努力して、我慢して、遊びに行くのも友達に会うのも家族に会うのも制限されているのに、何の努力もしてこなかった小娘が私の初恋の人を奪っていった。
許せない許せない許せない。
あの人の子どもまで、先に宿して―――
………そうだ。あの娘の子どもも王族の血を引くのだ。
お祝いに、この目玉はあの娘に食べさせてあげよう。ウィスタリアの力を宿したら、夫もあの娘もお義母様も、喜ぶに違いない。
***
「そうして砕いた眼玉を何も知らずに飲まされたのが、側室だった私の母だ」
クロッカス殿下が淡々と続けた。
地獄か?