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フチの少し欠けた赤地に白い水玉のマグカップを睨んで、ううむ、と私は唸った。
仕事用の漫画のネームを描かなければならないのだけれど、こんなモヤモヤした気分では集中できない。今日は起きてからずっと机に向かって仕事をしているのに、一ページも進んでいない。書いては消し書いては消しを繰り返しているだけだ。
ああ、でも、ネームをやらなきゃ。漫画を描かなきゃ飯が食えない。
ちなみに、ネームというのは漫画の設計図だ。どういう台詞を、どういうコマ割りで、どう配置するか、たいていは白いコピー用紙に雑に書き込んでいく。漫画の元になるものだけど、絵を描くという感じではなく、丸と棒で適当にキャラクターの配置だけを書き込むのが普通だ。ネームから丁寧に絵を描く人もいるが、担当さんからあまり没を出されない自信のある人なんだろうな、と個人的には思っている。まあ、没を覚悟で自分が作品を理解しやすいように描き込んでいる人もいるけど、それはそれで時間と労力を損しているなぁ、とも思う。けど、やり方は自由だ。本人がやりやすいようにやればいいんだよね。
……と、脱線してしまった。
脱線ついでに語ってしまうと、私が今描いているのは成人向けの漫画で、いわゆるエロ漫画というものだ。エロは楽しそうでいいね、とか、好きなモノ描いてるんでしょ、と心無い人によく言われるが、これがなかなか大変なのだ。
好きでエロを描いている人は実は多くない。
もちろん、プライドを持って、好きで描いている根性の座った人もいる。
でも、そうでないエロ漫画家の大半は、サービスでエロを考えすぎて、逆に性欲が枯れてしまっている人も多い。意外かも知れないが事実だ。
業界を知らない人と話してみて、エロ漫画を描いてる人ってエロイんでしょ、的な期待とも侮蔑とも取れる態度を向けられると、この人の脳内ではすげえ妄想が膨らんでるんだろうな、とドン引きする。こう言ってはなんだが、エロが苦手と言っている人ほど日常生活で欲求不満を押し殺している傾向が強いようで──要するにエッチしたいのに出来ないでいるようなので──エロを仕事で描いている人間に対する過大な期待と侮蔑を抱いている傾向があるように見受けられて不快にさせられるし、気持ち悪いと思ってしまうことさえある。完璧に取り澄ますか、素直になるか、どっちかにすりゃいいのに、と余計なお世話な事まで考えてしまう。
……おっと、もし刺さる人がいたら申し訳ない。
でも、エロ漫画家は頻繁に嫌な思いをさせられているので、そこを汲んで、どうか広い心で許して欲しい。
はあ、と深い溜息をつく。
「うう~~っ、集中できない~~っ!」
思い切って気分転換でアニメを見る事にするか。
棚をごそごそ漁り《聖転生SAGA・リィンホース》のソフトを選んだ。
ゲームが原作の作品で、美形キャラたちが剣や槍などの武器と、魔法や呪術などを駆使して闘うシリアスなドラマが人気だ。単純にカッコイイし面白い。
テレビ画面に見入りながら、はあ、とまたも溜息が出る。
そう言えば、この作品の人気キャラのモデルになったディルムッド・オディナの伝説も可奈に教えて貰ったんだった。
確かケルト神話で、フィアナ騎士団の首領ディムナ・フィンが前妻に死に別れ、新しい妃にグラーニアという美貌の娘を求めた際、グラーニアは歳を取ったフィンではなく彼に仕える騎士、頬に黒子のある色っぽい美青年ディルムッド・オディナに一目惚れしてしまうというエピソードだったと思う。
グラーニアはフィンとの結婚を嫌がり、恋しいディルムッドに、私を連れて逃げて、とせがむが、断られると、私を守る事をあなたの誓約にします、と勝手に押し付けた。
ケルト神話で言う誓約は、ゲッシュと呼ばれ、誓いを守れば神から恩恵を与えられるが、破れば災禍が降りかかるという。
ディルムッドは最初からグラーニアを愛していたわけではなかったのだけど、結果的に言いなりにならざるを得ず……
「あれ……なんか、微妙に何かとかぶるような……」
高校三年の夏、可奈の勘違いを正せず言いなりになってしまった私と、ディルムッドはなんとなく似ている。私はディルムッドのような美貌ではないし、男でもないけど。
なんだかんだと可奈の影響はそこかしこに残っている。
プレゼントで貰ったでかい黒ウサギは部屋の一角をドンと占拠しているし、他にも細々と可奈に貰った品物が多い。私の雑貨の好みは可奈が作ったと言っても良い。
たぶん、この赤地に白い水玉のマグカップも可奈の好きなデザインだと思うし、北欧ブランドのベッドカバーもカーテンもクッションも可奈の好みなんじゃないかな。
数学は可奈のお陰で赤点を免れて卒業できたのだし、逆に、英語は可奈が流暢に話せるほど得意だったから「私には無理だ」と避けてしまって苦手。
本棚に収まっている軽薄なファンタジー系の資料は私の好みだけど、大英博物館を紹介する本やイギリス文化系の小難しい資料は、高校時代に可奈に勧められていたから、原稿料を貰えるようになってから買った。
育ててくれたのは両親だけど、今の私に仕上げたのは可奈なのかもしれない。
そういう相手に無視されるというのは、かなりショックだ。
「ああ、ダメだ。全然集中できないっ!」
アニメを見ていてもストーリーが頭に入って来ない。これじゃ気分転換にならない。
今月の仕事は二十四ページの読み切りで、締め切りは約三週間後だ。今日は八月四日。スケジュールにはまだ余裕があるけど、私はアシスタントを頼まず一人で描いているので、作画には最低二週間は欲しい。必然的に一週間以内にネームのOKを担当氏から貰わなければならない。リテイクが出される事も考慮して、四日後か、遅くとも五日後にはネームを上げておきたい。
うううっ、と呻いて頭を掻き毟った。
「つうか、なんで無視されたんだろう?」
こんな気分では漫画なんか描けない。けど、断じて、原稿を落とすわけにはいかない。そんな事をしたら、デビュー二年目の売れないド三流エロ漫画家の私如きは、二度と、そう、二度と、金輪際キッパリと仕事の依頼なんて頂けないだろう。今でこそ貧乏ながらも漫画だけで食べていけるようになったものの、それでも人気は無いので毎月仕事があるだけマシというレベルなのだ。仕事が無い月だってある。そんな時は知り合いのアシスタントをさせて貰って食い繋いでいる。何度もしつこく言うが、売れないド三流エロ漫画家の私如きには原稿を落とすなんて贅沢は、いや罪悪は死んでも許されない。
私は、どんな事をしてでも完成させねばならないんだ!
「こんな風にぐちゃぐちゃ悩んでる暇は無いんだよ~~……」
よしっ、と私は覚悟を決めた。
いっそ問題と真っ直ぐ向き合ってしまったほうが良い。
可奈が、今、何をどう思っているのか知りたい──
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