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さて、壮大な勘違いと、とんでもない大問題を引き起こす為に、私は三十二枚もの原稿を描いたという結果になったのだけど、それで私と可奈の関係は特に変化は無かった。
付き合うとか付き合わないとか、そんなん以前に、私は完全に可奈の支配下にあり、大抵の人間がノイローゼになるレベルの束縛を受けていたのだから、それ以上、変化しようが無かった。キスするとか、女の子同士でエロイ事をするとか、そういう事もあり得たのかも知れないけど、私には想像も付かなかったし、可奈もしたいとは言わなかった。
ただ、夏休みの内に突然気紛れを起こして、指輪を買えと言い出されたのには参った。
だって金が無い。
私はバイトをした事がなく、こつこつと貯めた小遣いとお年玉から、漫画用の画材代や、可奈に連れて行かれる喫茶店代や、誕生日や記念日のプレゼント代などの諸費用を捻出していたのだ。だと言うのに、五月の可奈の誕生日に一万円もする白ウサギのぬいぐるみを買わされていたし、貯金は底をついていた。ちなみに、私の小遣いは月々五千円だ。
まあ、六月の私の誕生日には黒ウサギのぬいぐるみをお返しに貰ったけど、ソレ、私が欲しかったモノじゃないから割に合わない。
とにかく、私には金が無かった。指輪なんて無理。
バイトをすれば良いんだろうけど、それは問題を提起した可奈が許さない。一緒にいる時間が減るからバイトなんてしないで、とシレッとした顔で言い捨てるのだ。
「お金が無いよ」
エアコンの利いた可奈の部屋で、ぐだぐだと寝転びながら正直に言ったら、可奈は可笑しそうに笑い転げた。
テレビには可奈のお気に入りの古いフランス映画が流れていた。
笑い過ぎて目に涙を浮かべて起き上がった可奈は、不思議と色っぽく見えた。画面に映っているフランス人の女優より、もしかしたら可奈のほうが美人かも知れない。
バカね、と可奈は妙に優しく言った。囁くような声音だった。
「どんな指輪を買おうと思ったの? 婚約指輪をくれって言ったんじゃないのよ。ゴールドでもプラチナでもなくていいの。気持ちがこもってれば何でもいいのよ」
可奈は私を駅ビルに引っ張って行った。
バス停まで徒歩で向かい、一時間に二本しかないバスに揺られて四十分。田舎ではわりとマシなオシャレスポット、駅ビルに辿り着く。一応はファッションビルなので、それなりに良い感じのアクセサリーショップもある。大人向けの宝飾店ではなく中高生向けのステーショナリーも扱っているようなファンシーショップだ。壁一面に安物のピアスやイヤリングやネックレスが並べられている。メッキの金色と銀色に、いかにも色ガラスといった風情の色石がキラキラしている。
ふと奥を見ると、見知った顔がプラスチックのブレスレットを物色していた。たぶん隣のクラスの女子だ。こう言ってはなんだが子供っぽいしあまり可愛くない。オモチャのアクセサリーが丁度良い感じだ。
振り返って可奈の顔を見てドキッとした。やっぱり、美少女だ。そこはかとなく上品で、なんとなく大人びている気がする。
可奈にはこんな安っぽい店は似合っていない。
だけどその安っぽい店で、透き通った青い石の付いた金色の指輪をせがまれた。
オモチャだ。可奈には相応しくない。
「これでいいの?」
「うん」
可奈はキッパリ頷いた。
二千円。
帰りのバス代を残して、ギリギリ払える金額だった。
可奈の表情を伺う。品良く取り澄ましているけど、唇の端が嬉しそうに上がっている。
気に入っているみたいだ。
明後日から二学期が始まる。そんでもって、これを買ってしまうと、次の小遣い日まで約一週間、学食のパックジュースすら買えなくなるのだ。新学期になったら自分で早起きしてランチ用のおにぎりを作って、水筒に麦茶を入れて学校まで持って行かなきゃならない。教科書すら学校に置きっぱなしの私としましては、水筒を入れると鞄が重くなるから嫌なんだよね。
もう一度、可奈の顔を盗み見る。バチッと目が合った。幸せそうに微笑んでいる。
よし、分かった。
私はオモチャの指輪を掴んで、ビジュアル系メイクの太った店員がいるレジに行き、気前良く、税込み二千円を払ってやった。
カッコよく決めたつもりだったのだけれど、うっかりしていて、プレゼントです、と言い損ねた。指輪は普通のファンシー柄の小袋に入れられ、普通に店のロゴがプリントされたテープで口を留められてしまった。プレゼント用のリボンが付いた特別仕様の包装にしてもらえなかった。
「あ……」
マズイかな、と思ったけど、いつの間にか隣に来ていた可奈は、私の失敗を見てもニコニコしていた。可奈がこれで良いならいいや。
バス停からの帰り道。
夏の陽は長く、七時を回っても辺りは薄闇が落ちかけている程度で、夜という感覚にはならない。昼間の熱がしつこく残っていて、じっとりと肌が汗ばむ。水色の景色の底で、ひぐらしが鳴いていた。
道沿いの雑木林に近付いた時、蚊がいるから、と言って可奈はバッグから虫除けスプレーを取り出し、私にふんだんに吹きかけてから、私にもかけて、と両腕を伸ばした。その甘えた仕草は幼く可愛い。
ひとしきり害虫対策を終えた後、虫除けスプレーをしまう時に、可奈は指輪の入った小袋を取り出して、いたずらっぽく笑った。
「開けても良い?」
「え、いいけど、ここで?」
「家まで待ちたくないの。今、指につけたい」
「ふうん……そういうものなん?」
そうよ、と言って可奈は丁寧にシールをはがし始めた。
左の手の平の上で逆さに振った小袋から、コロンと指輪が転がり出す。
「薬指にはめて」
つん、と顎を上げて傲慢なハートの女王のように可奈は言った。
「はあ……」
逆らっても無駄なので、私は可奈の手の平から指輪を摘まみ上げ、精一杯うやうやしく可奈の指にはめた。フリーサイズのオモチャなので、リングを調整して縮めなければ、ほっそりとした可奈の指にはブカブカだった。少し迷ったが、可奈の指にはまったままの指輪のリング部分を右手の人差し指と親指で軽く押すと、互い違いになった部分がクッと縮み、可奈の指に合うサイズになった。されるがままに左手を差し出していた可奈は、自分の指に軽く食い込んだ指輪を不思議な眼差しで見詰めた。
なんと言えばいいのだろう。しみじみと、指輪がそこにある事を確認するように、可奈は左手を眼前に翳して、長い間、じっとそれを見詰めていた。
やっと動いたかと思ったら、
「ありがとう」
清らかな横顔で、可奈は左手の薬指にはめた指輪の青い石にキスをした。
ああ、なんて美しい。
青い石は、本当は石じゃなくて、ただの硝子玉だったのだけれど、可奈が唇を付けた途端に世界一貴重な何物にも代えがたい魔法の宝石になったような気がした。
尊い瞬間だった。
私が一週間、ジュースもパンもおにぎりも買えない不便を我慢する事で、可奈はこの指輪を手に入れた。私は自分の欲を抑えて、可奈を喜ばせてあげられた事が誇らしかった。
誰かの為に何かを我慢する。自分を手離す。それが愛なのだと、私は思った。
その時は──
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