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「その……付き合ってるって感じの事はしてないけどさ、あんまり会えなくなるんだったら、形にこだわらなくてもいいんじゃないかな、と思って。可奈も大学で新しい友達とか出来るだろうし、そしたら、新しい友達との付き合いもあるでしょ。だから、あの、私に気を遣わなくていいっていうか……自由にしていいんだよ、ていう……」

 可奈は蒼褪めていた。胸の前で両手を握りしめて、唇を震わせ、瞬きひとつせず黒い硝子のような目を見開いて、ほとんど健気と言ってもいいほどに、静かな表情を変えなかった。

 血の気の失せた蝋のような顔色が窓ガラスの向こうの夜の暗さに染まっていく。

 可奈がやっと絞り出した声は、微かで、死にかけの小鳥のように弱々しかった。

「真里は、私と付き合ってると思ってなかったの?」

 うっ、と息が詰まる。

 改めて突き付けられると困る。だって、分からない。友達と恋人の違いが。

「だって……うちら、そんな恋人同士って感じじゃなかったよね。なんて言うか、別に、キスとかしてるわけでもないし……」

 あはは、と私はバカのように笑って頬を掻いた。

「じゃあ、キスしてみる?」

 一歩、可奈は私に近付く。真剣な眼差しに射抜かれて、私は怖気づいてしまった。

「いやいやいやっ、そういう話じゃなくてさっ」

 近付かれた距離以上に私は逃げた。二歩、後ろによろけて、壁に背中をぶつけた。

「あ……あの、可奈……?」

 可奈は、この世の終わりのような顔をしていた。諦めて、でも、傷付いて、ひとかけらの希望も無いから、逆に情けなくて笑ってしまうんだ、という顔を……

「……分かってる。真里は私とそういう事はしたくないんだよね」

「そんなこと……」

 いきなり突き付けられても分からない。困る。可奈の勘違いを否定できずに付き合う事になってから、おぼろげには考えなくもなかったが、なんだかんだでそんな雰囲気にはならなかったし、私達の関係は友達以上のものではなく、結局、一度も向き合わずにきてしまったのだ。

 可奈とキスをするなんて、考えられない。

 私はおろおろと視線をさまよわせた。どこを見ていいのかすら分からなかった。

「したくないっていうか……別にしなくてもいいと思ってるだけで……」

 ふう、と息を吐き出して、可奈は吹っ切れたように両手を広げ、

 I don‘t know──

 お手上げ、のジェスチャーをした。

 しょうがないわね、もういいわ、この遊びはおしまいよ、とでも言うように。

 可奈は唐突に、カラッと明るい表情になっていた。

 その調子で、アッサリと揶揄うように、

「バカだなぁ、真里。それ、したくないって事なんだよ」

 と言われたので、そうかな、と、へらっと笑ってしまった。

 ほらね、と可奈は静かに言って俯いた。

 華奢で頼りない肩が、また傷付いたように下がっている。

 可奈の感情の急変に付いて行けず、私は混乱した。傷付いているのか、なんとも思っていないのか、いったいどちらなのか理解できず、ただ狼狽えているしかなかった。

「いつか話したディルムッド・オディナの伝説、覚えてる?」

「あ、ああ、うん。ケルト神話だよね。フィアナ騎士団の団長フィンの花嫁になるはずだったグラーニアが、おっさんのフィンと結婚するのを嫌がって、イケメンの若い騎士に、自分を守れって誓約を押し付けたんだっけ?」

 私はわざとガサツに言った。可奈は寂しげに笑う。

「うん、そう。グラーニアはどうしてもディルムッドが欲しかったんだと思う」

 じっと可奈は私を見詰めた。

「私、やっぱりグラーニアだったのね」

 苦しげに絞り出された可奈の声は私を金縛りにした。

「ケルトでは誓約をゲッシュって呼ぶのよ。ゲッシュはただの誓いじゃないの。自分で自分にかける呪いなんだよ。誓いを破ったら恐ろしい不運が降りかかる呪いを受ける代わりに、誓いを守っている間は恩恵をくださいっていう狡い取引なの。浅ましいよね」

 意味を考えるのが怖くて私は黙っていた。

 もう、動けない。

 何も考えたくない。

 可奈はいじらしく、濡れた視線で私の視線を絡め取った。

「私のゲッシュは、たぶん破れたんだと思う」

 可奈のゲッシュは何だったのか?

 私のゲッシュは──?

 つんと鼻の奥が痛くなって、息が出来なくなった。ひゅうひゅうと喉が鳴る。

 大勢の男子の心を鷲掴みにしてきた最強の美少女が、見るも無残にうなだれている。

 永遠を、魔女の大鍋で煮詰めて、煮詰めて、煮詰め過ぎて黒焦げにしてしまったような、恐ろしく苦くて不味い、走って逃げたくなるような、いたたまれない時間だった。

「私達、しばらくは会わない方が良いかもね」

 可奈に言われて、そのほうが良い、と私も思った。

 少し時間を置いて、この胸を抉られるような気分を忘れてしまわなければ、とてもじゃないが、まともに息も出来ない。

「うん、そうだね……」

 なるべく軽い調子に聞こえるように苦労して私は言って、えへへ、と笑って媚びるように肩を竦めて見せた。

 可奈は大人びた微笑みを白い顔に貼り付けて、静かに凪いだ声で言った。

「落ち着くまで時間が欲しい。気持ちが片付いたら連絡するから、待っててくれる?」

「うん。待ってるよ」

 私は最悪の返事をし、可奈は少しの間、名残りを惜しむように、静かに、静かに、佇んでいた。可奈の後ろは大きな窓で、綺麗な夜景が現実感を奪っていた。

 しばらくそうして突っ立っていたが、可奈が空気を変えてくれた。

「まあ、それはともかく旅行は楽しもうよ。ごはん食べに行こう。せっかくホテルのレストラン予約してあるんだし、フレンチのビュッフェなんだからお腹いっぱい食べなきゃ損だよ」

 パッと表情を切り替えて、明るくはしゃいだ声で言ってくれたのだ。私は可奈の言葉を真に受けて、そうだね、と呑気に応じ、無神経に食事を楽しんでしまった。

 そして、まるで何事もなかったかのように旅行は終わり、可奈の家の前で、じゃあね、とお互いに手を振って別れた。

 それが、笑顔の可奈を見た最後になった。

 五月に入ってから、可奈は都内の大学の近くにマンションを借りて上京した。私には連絡が無く、少し後で美優ちゃんから聞いた。その場では知っているふりをしてしまったが、どうして知らせてくれなかったのか、と不満にも思ったし、まだ連絡してくれる心境にはなっていないのか、と申し訳なくも思った。

 まさか、そのままずっと連絡が来ないなんて思ってもみなかった。

 六年と四ヶ月も経ったというのに、まだ、可奈の気持ちは片付いていないんだ。


   ◆◆◆



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