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悪酔いしそうな気分で、自転車を押して汗だくになってアパートへ戻ると、ポストに手紙が届いていた。
エアコンのスイッチを入れて、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぎ、仕事用の椅子に腰掛けて一息ついてから、改めて手紙を確認してみた。
宛名は印字で、差出人の名前は無い。
淡い水色の封筒。
中には青い水面が写ったポストカードが入っていた。
あざやかな夏の青──
ただ、それだけ。
可奈だと思った。直感で。いや、違う。可奈ならいいな、と思ったんだ。
「あ、あれ? なんで?」
気が付いたら勝手に涙が零れていた。
最高級の冷酒で酔っぱらっていたから、きっと涙腺が緩んでいたんだと思う。
それとも、私は自分でも気づかない内に弱っていたのか。
疲れが溜まっていたのかもしれない。
将来の見通しの立たない仕事で、貧乏で生活は苦しいし、頑張っても担当さんにはぞんざいに扱われるし、人気は取れないし、売れないし、絵もストーリーも思うように描けない。原稿を見直すとあまりにも下手で嫌になる。描きたいモノも描けない。仕事があるだけありがたいと思ってはいるけれど、でも、本当はもっと欲がある。上に行きたい。エロじゃなくて、子供の頃に夢見たように、広大無辺なファンタジーが描きたい。夢を描きたい。自分が本当に描きたいモノを描きたい。
「くそっ、死にてえっ!」
こういう気持ちはちゃんと就職してる人には分からない。学歴も無い。資格も無い。コネも無い。安定も無い。金も無い。運も無い。唯一しがみ付いた漫画だって、第一線で活躍している人気作家様と比べたら才能のかけらも無い。何も無い。
友達にも親にも妹にも頼れない。恋人はいない。誰もいない。
ただ、あてどなく夢の残り香に流されているしかない。
不安で、怖くて、寂しくて、辛かった。
後から後から涙が溢れて、私は声をあげて泣いた。
こんなはずじゃなかった──
本当は、もっと……
◆◆◆
可奈に別れを告げたのは、たぶん、自信が無かったからだ。
卒業式はあまり記憶に残っていない。特別な思い入れが無かったからだ。
けど、可奈と二人で行った卒業旅行はよく覚えている。
可奈は海外に行きたがったけど、私にそんな旅費があるはずもなく、国内──しかも新宿のホテルに二泊して可奈のおごりで高校生には贅沢過ぎる食事をし、翌日は上野動物園へ行き入園前に気の早い花見客にもみくちゃにされて疲れ果て、そのまた翌日は原宿をぶらぶらして珍しい服や小物に目を丸くし、表参道の可奈が好きなチョコレートブランドのカフェでバカ高いホットショコラを飲んだ。それが精一杯だった。
そもそも私に金が無かったのは、高校時代にバイトをするなと我儘を言った可奈のせいだったので、さすがの可奈も、海外じゃなきゃ嫌だとは言い張らなかった。
慣れない人混みに疲れてぐったりしてしまった私に合わせて、二日目は早い時間にホテルに戻った。
中学まで世田谷に住んでいた可奈にとっては東京なんて珍しくもなんともない。つまらない旅行だったんじゃないかと不安になってそう言ったら、近場だからこそ新宿のホテルには泊まったことがないし、珍しくて楽しいよ、と可奈は機嫌良く微笑んで小首を傾げた。
それからしばらく、二人並んで大きな窓に張り付いて暮れていく街の景色を眺めていた。眼下に広がる街並みが淡い水色に染まり、ぽつぽつと明かりやネオンが灯り出し、キラキラとロマンチックに輝く夜景に変わっていく。
「綺麗……」
可奈の横顔は影絵のように美しいシルエットになっていた。
大学の入学式はとっくに終わり、可奈はもう大学生だ。自宅から大学まで片道一時間半かけて通学するつもりらしい。たぶん、私の為だと思う。橘家は裕福だから、一人娘を上京させてそれなりの仕送りをしても痛くも痒くもない。それなのに可奈が上京しなかったのは、私と離れて東京で一人暮らしなんてしたくなかったからだ。
私も漫画専門学校に通わせて貰える事になっていた。可奈と同じく専門学校まで片道一時間半かけて自宅から通う。うちは単純にお金が無いから。
私はうどん屋でのバイトを決めた。学費は親が出してくれたけど、さすがに交通費や雑費などは自分で稼がなければならなかったからだ。通学に三時間。バイトは週五日、夕方五時から夜十時まで。高校生の頃とは状況が変わって、もう放課後にべったり寄り添っているような事は出来そうもなかった。
「来週から、あんまり会えなくなるね」
可奈が寂しそうに呟いた時、私の中で何かが弾けた。
「会えないと付き合ってる意味無いよね?」
え? と可奈は不思議そうに目を見開いた。
言ってしまってから私も自分の言葉に驚いて、変な誤魔化し笑いが出た。
「いや、その……付き合ってるって言えるかどうか分かんないんだけど、一応、私達って付き合ってるんだよね?」
可奈は何も言わなかった。窓にほっそりとした手を添えたまま、宝石箱をひっくり返したような夜景を背にして、まるで言葉の通じない異星人でも見るように、きょとんとした顔で私を見ていた。起きている事が信じられないとでもいうように……
そんな傷付いたような無防備な顔で見詰められると、妙な罪悪感で胸がザワザワする。
悪い事をしてしまったのか?
でも、事実を確認しているだけだし、私は何も悪くないハズ……
本当に悪くないならする必要の無い言い訳を頭の中で何重にもして、私は、悪気の無い態度を取り繕った。




