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 さて、どうしたものか。

 小一時間もすると、軽自動車で出掛けて行ったお母さんは助手席にお父さんを乗せて帰って来た。お父さんはしょんぼりしていたけど、怪我はしていなくてホッとした。車は明日レッカー車を呼んで修理屋に持って行って貰うらしい。大変だったね、と声をかけると、そんな風に言ってくれるのは真里だけだよ、と可哀想ぶって言ったので、同情する気が失せた。

 お父さんとお母さんは、二人で晩酌をしながら食事を始めた。

 お風呂に入って居間でテレビを見ていると、千香が勝手に番組を変えてしまった。好きなアイドルが出演するらしい。それを一緒に見る気にはなれなくて、ネーム道具の入ったリュックを持って二階の自分の部屋へ上がった。

 それにしても、美優ちゃんから聞いた事と、千香から聞いた事、両方がぐちゃぐちゃになって、よく分かっていたはずの可奈が分からなくなった。

「結局、私は可奈を一面からしか見てなかったって事か……」

 人間は平面じゃない。いびつな多角形で、見る角度によって形を変える。私が見ていた可奈は、私にしか見えなかった可奈で、それはつまり、可奈が意図的に私に見せていた可奈だという事なのかもしれない。

 私には見えていなかった──見せて貰えなかった可奈は、どんな顔をしている?

 私に対して怒っているのかもしれないし、逆に何とも思っていないかもしれない。むしろ私との事なんて忘れてしまいたい黒歴史かも。実は高校生の頃、気の迷いで女の子と付き合ってました──なんて、恥ずかしくて消してしまいたい過去かもなぁ。

 でも……

 なんとなく、本当の可奈は泣いているんじゃないかという思いが浮かぶ。

 益々ネームが手につかなくなってしまった。


   ◆◆◆


 翌日は朝からカラッと晴れて良い天気だった。

 真っ青な空にもくもくと入道雲が立ち昇る。

 うちの裏手は雑木林で、まだ午前中だというのにミンミン蝉がうるさいほどに鳴いていた。蝉しぐれなんて風情のある言い方をしてみたところで騒音に変わりはない。

 顔を洗って台所へ行くと、お父さんが遅い朝食を食べていた。目玉焼きとトーストにサラダとコーヒーというオーソドックスなメニューだ。お母さんは洗濯物を干しに外に出ているようでこの場にはいない。千香はとっくにバイトに行ってしまった。

「あれ? お父さん仕事は?」

 珍しいね、と声をかけると、お父さんはトーストを齧りながらぼそぼそ答える。

「今日は休みだ。真里は何してるんだ? おまえこそ仕事はどうした?」

「いやぁ、ちょっとスランプで」

 頭をぽりぽり掻いて誤魔化し笑いをしたら、お父さんの眼鏡の奥の目が厳しくなった。

「おまえは何をやらせても気概が無い。もっとがむしゃらに、貪欲に仕事に食らいついていくくらいの気持ちを持たんといつまで経っても売れないぞ」

「うぐっ……」

 この親父、漫画もろくすっぽ読まないくせに知ったような口を利きやがるぜ。

 とは言え、我が父親ながら的を射た意見でございます。

「あはははは、お父さんの言うことはもっともで」

「もっともだと思うなら、早くヒット作を出せるようになりなさい」

「はあ、手厳しいね」

 笑うしかない、とはまさにこの心境だ。お父さんは私がエロ漫画を描いているとは知らないのだ。別に言っても良いのだけど、まあ、しかし、親にはなかなか言い難い。漫画の載った雑誌を見せろとは言われないので、薄々は知っているのかもしれないが、もしかしたら根本的に漫画に興味が無いだけかもしれない。そこのところが全く読めないのは、お母さんも同じだ。なんと言うか、昔からちょっと変わった両親なのだ。アッサリしているというか、放任主義というか、ありがたいというか……

 お母さんは私の分も目玉焼きとサラダを用意しておいてくれた。ラップが掛かったお皿がダイニングテーブルに乗っている。トーストを焼いて、冷蔵庫から牛乳を出して、朝食の用意をする。

「いただきます」

 サクッとしたトーストは、ちょっとだけほろ苦かった。


   ◆◆◆


 自転車に乗って自分のアパートへ帰る途中で、思いがけない人物に出くわした。

 県道を後ろから走ってきた軽トラックに、パッパァッ、とクラクションを鳴らされ振り返ると、運転席の窓を開けて現れたのはよく見知った顔だった。

 よう、久しぶり、と奴は車を路肩に止めて陽気に手を振った。

 大塚だ。高校の同級生で、美優ちゃんの巨乳が好きだと公言していたエロ魔人。確か実家の酒屋を継いだんだったか。軽トラックには《大塚酒店》とくっきりした太い黒文字で書かれていた。見事に日焼けして、いっぱしの社会人のような顔になっている。

「谷中ぁ、元気かぁ? つうか、おまえ一人? 橘さんと野上さんは一緒じゃねえの?」

「野上さんはもう金井さんだよ。立派なお母さんになってるぞ」

 うぐっ、と大塚は胸を押さえて苦悶の表情を浮かべた。ノリの良い奴。

「暇ならちょっと店に寄ってけよ。福井の地酒があるんだ。何人か意見聞いてみて、買うって奴が多ければ仕入ようと思って。おまえも試してみてくれ」

「それ、無料?」

「無料、無料、今だけ無料の大サービス!」

「よし、乗った」

 大塚は酒屋の配送車にガソリンを入れて来た帰りらしかった。空の荷台に私の自転車を積んでくれたので、遠慮なく助手席に乗り込む。

 うはあ、エアコン気持ちいいなぁ、と言うと大塚はバカみたいに笑った。

 大塚とは小学校からの顔見知りだ。ものすごく仲が良いわけではないが、男子の中では比較的仲の良かった相手だと思う。

 小学校の頃は美優ちゃんも含めた六人グループで、近所の雑木林を探険したり、ドッジボールやケイドロをやったりした。中学も同じで、高校では同じクラスだった。

 漫画やアニメが好きな者同士、大塚とは情報交換も兼ねてよく短い立ち話をした。

 例によって可奈は、私が大塚と話している間は何を考えているか読ませぬ氷の微笑を浮かべて決して会話に加わろうとせず、私の後ろに隠れるように頑固に突っ立っていた。

 そう言えば、大塚が美優ちゃんを好きだということは、可奈が職員室に行っていて偶々側にいなかった時、アニメ話のついでにポロッと聞いた。

 その日、美優ちゃんは風邪で休んでいて、

「野上さんは?」

 と大塚が美優ちゃんを心配するそぶりを見せたのだ。

 思わずピンと来て、

「おまえ美優ちゃん好きなのかよ」

 と突っ込んだら、

「野上さんを嫌いな男はいない。小柄でロリ顔で色白で巨乳なんて、アニメのヒロインみたいだろ。もはや神懸ってるぜ!」

 と大塚はのたまった。

 呆れて、はあ、としか返事を出来なかったのを覚えている。

 さらに「ロリ巨乳最高っ!」と畳み掛けられ、「おまえ、それを女子に言うのかよ」と文句を言ったら「おまえは女子じゃねえ」と暴言を吐かれた。

 まったく……女子じゃないなら私は何だ?


   ◆◆◆



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