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思うところがあって、その夜は実家に帰った。
私の住んでいる駅近のアパートから実家までは、自転車では一時間もかかるので、地元に住んでいるのに、ついつい足が遠退いてしまっている。お母さんに、今日帰る、と電話をしたら、どういう風の吹き回しかしらね、と厭味を言われた。
リュックに一泊分の着替えを入れて、ついでに仕事も出来るようにとネーム用のコピー用紙と筆記用具も詰め込む。
陽の落ちた県道を自転車で走って、街燈もまばらな田舎道へ入る。雑木林と畑の中に、やたら敷地を広く取った民家が乱雑に混在する田舎の景色だ。
途中、可奈の実家のお屋敷を見たら、やっぱり懐かしい気分になった。
可奈の部屋にも明かりが灯っている。六年と四ヶ月前はあの部屋に自分も居たのだと思うと、甘ったるい疼きのようなものが込み上げて、ちょっと涙が出そうになった。
人気の無い夜道に自転車を停めて感傷に浸ってもいられないので、そのまま可奈の家の前は通り抜け、実家に着いた時には、泣きそうな気分は少しは薄らいでいた。
「なんだかなぁ、こういうの嫌かも……」
可奈はどうして私を無視したんだろう。すごく気になるし、キツイ。
切ない気分で玄関で靴を脱いでいると、二階からひょっこり妹が下りて来た。
「あ、姉ちゃんだ」
「よっす」
「よっす」
二つ年下のこいつは千香といって、私とはちょっと違うタイプだ。アイドルが大好きで、高校を卒業した後は定職に就かずせっせとバイトしてはライブに行きまくっている。地顔は私に似ているが、派手な服を着て化粧を塗りたくっている時はそうは見えない。今夜は珍しく着古したポロシャツにデニムのハーフパンツとノーメイクで地味だ。
千香はリュックを背負った私をじろじろ見ながら失礼な事を言った。
「姉ちゃん、何しに来たの?」
実家に帰って来た姉に向かって、何しに来たとはご挨拶じゃないか。
「千香、あんたねぇ」
文句を言い掛けたら、見澄ましたように台所からお母さんの呼ぶ声が聞こえる。
「千香、真里、何もしてないなら空豆剥くの手伝って」
はあい、と千香は素直に台所へ入って行った。仕方ないので私も荷物を居間に置いて、はいはい、と従う。ダイニングテーブルの上に新聞紙が敷かれていて、その上に大量の莢に入ったままの空豆が置かれていた。
お母さんは天ぷらを揚げながら、振り向きもせずに指示を出す。
「茹でて晩酌のおつまみにするから、あるだけ剥いちゃって」
薬用ハンドソープで手を洗って、千香と向かい合わせに座って空豆を手に取る。あざやかな緑色のふかっとした手触りの莢を割って、黄緑色のコロンとした豆を摘まみ取る。これが意外と楽しい。もくもくと空豆を剥いていると、ロロロロン、と玄関の電話が鳴った。
パッとお母さんは天ぷら鍋から視線を上げる。
「お父さんだ。千香、油見てて」
お母さんはエプロンで手を拭きながら電話に出る為に玄関へ向かった。はい谷中です、という応答の後、ええぇっ、という大声が轟いた。
「なによ、事故って?」
ぎょっとして耳をそばだてる。お父さん、事故に遭ったのか?
お母さんは大声で捲し立てる。
「水路にはまった? それで? 警察に連絡したの? はあ?」
もう、分かりましたよ、と最後に怒鳴って、お母さんは叩き付けるように電話を切った。
「どうしたの?」
台所に戻ってきたお母さんは、憤懣やるかたなしといった態度でエプロンを外しながら事の次第を説明してくれた。
「お父さん、農道で対向車を避けた時に水路にはまったらしいのよ。怪我はしてないらしいんだけど、車で迎えに来てくれって言うから、お母さんちょっと行って来るけど、警察も呼んじゃったらしいから、しばらくかかると思うわ。残りの天ぷら揚げて、あんた達、先にごはん食べちゃって。空豆は剥いておいてくれれば、後でお母さんが茹でるから」
ああ、もう面倒くさい、とぶつぶつ言いながら、お母さんは玄関のキーポストから軽自動車の鍵を取って急いで出掛けて行った。
「お父さん何やってんだろうね」
千香は半笑いで言い、天ぷらを揚げ続けた。私は揚げ物は下手なので、黙って空豆を剥く事に専念する。
空豆を剥き終わり、莢を新聞紙ごと丸めていたら、千香が最後の芋天を揚げながらぽつりと言った。
「姉ちゃん、今日、なんで帰って来たん?」
「は? 別に理由は無いけど?」
「姉ちゃんは薄情だよね」
「なんでよ?」
一瞬ムッとしたけれど、千香は妙にしんみりした声音だった。
何か千香なりの事情があるのかと気になったけど、奴は揚げ物に集中して背を向けているので私からは表情が見えない。ううむ、と唸って、素直に訊く。
「薄情かなぁ?」
まあね、と千香は揚がった芋天を油落としの網に乗せながら言った。
「漫画なんてうちでも描けるのにわざわざ駅の近くにアパート借りて、全然帰って来ないし、電話も寄越さないじゃん。お母さんいつも心配してるよ」
「あ、ああ、そうか……」
そう言われると返す言葉が無い。
はいよ、と千香は揚げ終わった天ぷらを乗せた大皿を持って来た。私の好きな掻き揚げもある。お母さんが揚げたものだ。人参と玉ねぎと小柱のシンプルな味が私は好きだ。
千香が味噌汁を椀に入れてくれたので、私はごはんを装った。高校生の頃に使っていた紫陽花柄のごはん茶碗がまだ残っている。
「ビールあるけど飲む?」
「うん」
千香も二十三歳になって、すっかり晩酌が馴染んでいる。お母さんもなんとなく歳を取ったし、お父さんもそうなんだろうと思う。美優ちゃんだって子供を産んでお母さんになっちゃったし、みんな、もう昔とは違う。可奈も……
感慨に耽っていたら、
「可奈さん、実家に帰って来てるよ」
唐突に言われて、ぶほっとビールを噴き出しそうになった。
「なんで会いに行かないの?」
「いや、だって、連絡貰ってないし……」
千香はなぜか、私が可奈に会いに行かない事で怒っているようだった。
「姉ちゃんは本当に薄情だよね」
「そう言われても……つうか、なんで千香が可奈の事なんか気にするわけ?」
「姉ちゃんさぁ、恩人に対してそんな態度はないんじゃないの?」
「恩人……て、可奈が?」
意味が分からなくて首を傾げてしまった。だって、どちらかと言えば私が可奈の恩人じゃないのかな。田舎の学校に馴染めなくて寂しがってた可奈の我儘に、ずいぶん自分を犠牲にして付き合ってやったと思う。
煮え切らない私の態度に千香は益々怒りを煽られたようで、掻き揚げをガブリと齧った。ジャクジャクジャクッと乱暴に咀嚼して飲み下し、箸で私をビシッと指した。
「可奈さんが、姉ちゃんの嫌がる事から守ってくれてたの知らないの?」
「ええと……何の事だか全然分からないんだけど……」
もうっ、と憤慨しながら千香は要領を得ない説明を始めた。
「姉ちゃん、中学の頃は美術部に入ってたじゃん」
「はあ、まあ、入ってたね」
高校でも美術部に入ろうと思っていたのだが、可奈に二人で遊ぶ時間が減るからやめてと言われて入部は見合わせたんだった。中学の美術部は楽しかったから、高校で美術部に入れなかった事は結構心残りになっている。
「中学の美術部がどうしたん?」
私は千香を刺激しないよう、やんわりと訊き返した。物事を筋道立てて話すという事が、千香は昔から下手だ。こいつの話を理解するには相応の忍耐が要求される。
そんな私の努力を余所に、はあ、と大仰な溜息をついて千香は呆れたように首を振った。
「姉ちゃん、後輩の女の子達に人気あったんだよ」
「はあ、そうなん?」
気の抜けた返事をしたら、また盛大な溜息をつかれた。
「まったく、姉ちゃんは何も分かってないよね。姉ちゃんが高校に入ってから、うちと同じクラスの美術部の子達がバレンタインデーにチョコ持って家まで来た時、可奈さんがそれを見付けて、姉ちゃんが嫌がるからって追い返してくれたんじゃん」
「待て待て待てっ、そんな話は初めて聞くわっ」
千香は訝しげに私を凝視した。
そんな事も知らないのかという調子で話されても、知らないものは知らんぞ。
つうか、後輩に懐かれてたなんて思ってもみなかった。中学の美術部ではそんな感じは全然無かったよ。後輩達は近寄っても来なかったし、話し掛けられた事もあんまりないぞ。
「ぜんっぜん、意味が分からん。何がどうしてそうなってるの?」
あれ、と千香は首を傾げた。
「そういや、姉ちゃんが気にするからこの事は言うなって可奈さんに釘刺されてたわ」
がくっ、と顎が落ちる。呆れて言葉が出ないとはこの事だ。
おいおい、そりゃ、私は知らないわけだよ。隠しておけって言われた事を、さも知っていて当然であるかのように話し出すなんて、本当に千香はアホの子だ。
──つうか、可奈はいったい何を考えてそんな事をしたんだ?
後輩が、バレンタインデーに私にチョコを持って来て、それを可奈が追い返した……というか、妨害した。
この際、その後輩が誰か、とか、どういうつもりだったのか、とかは置いておいて。
別に私は、貰えるものは貰っておく主義だから、女の子からチョコを貰ったって何とも思わないし、後輩に好かれていたならむしろ嬉しい。憧れの先輩、なんてちょっと良い気分じゃないか。うん。断じて私は嫌じゃなかった。人に好かれる事を嫌った事はない。
それなのに可奈は、私が嫌がるから、と嘘をついて後輩を私に近付かせないようにした。
まるで、嫉妬したみたいじゃないか。
千香の中学の同級生が……って事は、私はまだ高一か高二だ。その頃はまだ私と可奈は付き合うっていう勘違いには至ってなかったよね……
「えっと……ちょっとよく分からないんだけど、どういうコト?」
「だから、姉ちゃんがファンに囲まれるのは嫌だって言ってたからって可奈さんが……」
「完全に意味が分からんっ。ファンって何? そんなもん、いた事ないわっ」
いたら今頃もっと仕事の依頼もあって、稼ぎも安定してるハズだわ。
「はあ? だから言ってんじゃん。中学の時の美術部の子が──って」
「分かった。それは分かったから。ちょっと混乱してきたから考え纏めさせて」
しょうがないなあ、と千香はトドメの溜息をつき、眉間に皺を寄せたまま、グラスに残っていたビールを一気に呷った。
「姉ちゃんさぁ、どうでもいいけど、恩人は大事にしなよ」
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