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無視された──
八月四日、午後四時頃の事だった。
買い物中に彼女を見かけて笑って片手を上げた私を、彼女は空気のように無視して、顔色ひとつ変えずに通り過ぎた。まるで、そこに何も存在しなかったように。
びっくりした。
夏の納涼フェアという鮮やかなブルーと白の垂れ幕の下、涼しげな金魚鉢と朝顔と、竹筒と滝の白糸を模したディスプレイの横で、私は親しげに上げた右手と満面の笑みを持て余して、エアコンの利いた駅ビルの中で暑くもないのに汗だくになってしまった。
女同士の友情はこれほどまでに儚かったというのか。
そりゃ、しばらく会ってなかったよ。
こっちも連絡しなかった。
不義理はお互い様かもしれない。
けど、それにしたって酷過ぎる。あんまりだ。
連絡しなかったのには、しなかったなりの理由がある。
だって、いずれは偶然顔を合わせることになるだろうと思っていた。高校が同じで、最寄り駅も同じ、あちらは都内の大学に進学してしばらく地元を離れていたけれど、今はお互い社会人になってそろって地元に住んでいるのだから有り得る事だ。
むしろ、今まで一度も遭遇する機会が無かったのは逆に不思議じゃないか。
高校卒業から六年と四ヶ月が経ち、お互い二十五歳になったとはいえ、私は当時と髪型も変わっていないし、体型だって変わっていない。彼女は大人っぽい服装になってメイクも女優のようにばっちり決めて、昔よりずっと、というか、いっそ神々しいほど綺麗になっていたけど、でも、高校の三年間を共に過ごした浅からぬ付き合いだったし、眼鏡をかけた程度で私が誰だか分からないはずはなかった。
それなのに、ずっと友達だよ、と言った私を無視した。
卒業式の後、二人でじっくり話し合いはしたし、彼女はずっと穏やかな雰囲気で、私の話に静かに頷き続けてくれた。泣きもしなかったし、怒りもしなかった。
あの日、納得づくで別れたのだから憎まれているはずはないと思い込んでいた。
ところが、だ。
完璧に無視された──
ショックを受けたとか、傷付いたとか、そんな感覚ではなくて、とにかく驚いた。彼女は目が見えなくなったんじゃないかと、そんなバカバカしい心配まで浮かんできたほどだ。
あまりにも鮮やかなスルーで、駅ビルの重いガラスドアを開けた瞬間、彼女の長くて綺麗な髪が黒い翼のように舞い上がった光景を、私はぼんやりと眺め、間抜けにも見惚れて見送ってしまった。
「嘘でしょ……」
ぼそっと独り言を吐いて、遅ればせながら周囲の目が気になった。
ああ、間違えちゃった、人違いだったわ、という態度を取り繕って、顔を伏せて逃げるようにその場を立ち去った。仕事に必要な画材を買いに出て来たのに、動揺してしまってそれすらも買えず仕舞いだ。
さて、いったいどういう事でしょうか──
狭くてぼろっちい我が家に戻って黙然と考え込んだ。
ちなみに私は売れないエロ漫画家で、この部屋に一人暮らしだ。築三十年、日当たりは悪く、階段には赤錆が浮いている家賃三万八千円の1DKのアパート。バストイレ付と紹介されていたが、バスタブは異様に小さく、ほぼシャワー専用に思えるゴリゴリの省スペース設計ユニットバスだった。ただしトイレにはウォシュレット完備というアンバランスさが笑える。古い造りなのでキッチンには少しスペースの余裕があるが、冷蔵庫を置いたらテーブルは置けない。それでも二口コンロは付いていた。
ううむ、と唸りながら、ヤカンに水道水を汲んで沸かし、安売りのドリップバッグコーヒーを淹れた。一杯約二十円。冷蔵庫から一リットルパックの牛乳を出してどぼどぼと注ぐ。クーラーの効いた部屋で飲む熱々の珈琲ほど贅沢なものはない。
香ばしい香りを胸いっぱいに吸い込んで、もう一度、ううむと唸る。
腑に落ちない。スッキリしない。
お気に入りの赤地に白い水玉のマグカップは、一昨日うっかりシンクに落としてしまって、わずかにフチが欠けている。ほんの少し、三ミリほどの傷なので気にしていなかったが、それが突然、猛烈に気になった。
「アンラッキーウィーク……なのかな」
占いの類は信じていないが、なんとなく、星の巡りが悪い時期に入っていますよ、とお昼のニュースのキッチュなキャラクターに言われたような気分になった。確か、ふざけた水色のウサギだった。
ウサギにはちょっとした悪感情がある。
彼女が高校生の頃ウサギのキャラクターを好きだったからだ。誕生日だからと、一万円もするぬいぐるみを買わされた。高校生にとって一万円は大金だ。いや、稼ぎの少ない私に取っては二十五歳になった今でも大金だけど。
サラだったか、リサだったか、白いウサギを彼女は嬉しそうに抱きかかえて、翌月の私の誕生日には同じ値段の黒いウサギを買ってくれた。
──いやいや、ソレ、私が欲しいものじゃなかったから。
当時は文句ひとつ言えなかったけど、今にして思うと、あれは横暴だよな、と。
あの時の無邪気な笑顔と、今日見た完全スルーの冷たい横顔。
「相変わらず何を考えてるのか分からんわ」
彼女──橘可奈は、変な奴だった。
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