一日目(10)
「どうぞ、お座りください」
女性にそう勧められて、アサゴはテーブルにつくことにする。
この時のアサゴは夢を見ているのかと思っていた。先ほどまでの記憶ははっきりと残っているので、自分は刺されたことで意識を失い、その中で暢気に夢を見ているに違いないと思い始めていた。
そうでないと、この腹部の痛みも消えた理由が分からないと思いながら、自分の腹部に手を当てたところで、ようやくアサゴは傷口が塞がっていることに気づいた。
もしくは傷口がなくなっているのかもしれないが、その時のアサゴは女性に遠慮して服を上げることをしなかったので、どちらが正解かは分からない。
ただし、痛みもなければ血も出ていないことだけは確かだった。
それに気づいたことで、アサゴは益々夢であると思い込むようになる。
そう考えると納得できる不思議なことは他にもあった。
この真っ黒な部屋の中で目覚め、部屋の中を見回したところから疑問だったのだが、この部屋には扉のようなものが一切見つけられないのだ。
いくら壁を真っ黒に塗り潰したとしても、扉の位置くらいは分かるようにしていないと外に出られなくなるはずだ。
それにテーブルや椅子はしっかりと視認できているのに、照明のようなものも見当たらない。
これが現実だとすればおかしいことばかりだが、ただアサゴが見ている夢と考えると納得できる要素ばかりになる。
ただし、アサゴがこのように奇妙な夢を見ている理由は分からない。腹部を刺された影響だと思いたいが、腹部と黒いイメージを繋げたくない気持ちの方が強い。
アサゴがテーブルにつくと、すぐに女性も同じテーブルについていた。
こうして正面から改めて見てみると、女性はアサゴが見たことのないくらいに整った容貌をしていた。真っ白な髪と同じくらいに真っ白な肌などは大根のようだ。
そう思ってから、アサゴは自分の比喩表現の壊滅的なセンスに絶望した。
「まだぼうっとされていますか?」
女性がアサゴの前で小首を傾げて聞いてきた。
腹部を刺されるまでの十九年間、これといって女性との関わりがなかったアサゴは、たったそれだけのことで心肺機能を止めそうになるほどの緊張に襲われる。
「あ…いえ…あの…大丈夫です…」
自分の夢で何を緊張しているのかとアサゴは激怒したくなったが、湧いてくる緊張感はとても現実的なもので逆らえそうになかった。
女性がアサゴの目の前で柔らかく微笑んでいる。とても優しく、とても綺麗な笑顔だが、その笑顔がアサゴの緊張を加速させる。
「緊張されているようですが、大丈夫ですよ。私はただ、貴方に頼みがあるだけなのですから」
「頼み…?」
女性は微笑みを変えないままに、小さく何度もうなずいていた。
これがアサゴの夢なのならば、目の前の女性はアサゴの代弁者のはずだ。
その代弁者がアサゴに頼みとは、何と不思議な夢なのだろうかとアサゴは少し思いながらも、ちょっとした違和感に気づき始めていた。
さっきの緊張もそうだが、今の女性の言葉にも、アサゴには新鮮な驚きがあった。
それはモザイク越しに世界を見ているような夢の中の感覚と違って、より鮮明にアサゴの心を捉えている。まるで現実のようだが、これが現実であるはずがない。
アサゴの頭には確かに刺された記憶があるのだから間違いない。
そう思っている間に女性は何かをテーブルの上に取り出していた。
アサゴの両手一杯ほどもあるテーブルを覆い隠すほどに大きな紙で、紙の上には線や記号が不思議な文字と一緒に描かれている。
それらが何故文字であるのか、アサゴは気づいてから不思議に思った。冷静に考えずともアサゴの知っている文字ではないのだが、アサゴは何故か読めている。
「地図…?」
アサゴが小さく呟くと、女性は首肯してくれた。細く長く伸びた指を地図の上に乗せ、端の方にある一点を示してくる。
「ここに森があります。貴方はここで目覚めます」
唐突な女性からの解答編にアサゴは面食らった。まさか、夢の中で目が覚めた後の予言をされるとは思ってもみなかった。
しかし、それは間違いだ。アサゴは腹部を刺されているはずなので、次に目が覚めるとしたら、真っ白なベッドの上のはずだ。
真っ黒な部屋から真っ白な部屋にアサゴの周囲の色は反転する。
ただそれを口にするだけの余裕がアサゴにはなかった。未だ緊張感はアサゴの喉を塞いでいる。
「そうしたら、ここに向かってください」
地図の上をスケートして、女性の指が移動する。森といった場所から、方角にして西の方向に滑ってしばらく、女性の指が再び一点で停止する。
「エアリエル王国…」
「そうです。そこに向かってください」
それはアサゴの記憶にない国名だった。
もちろん、夢であるのだから記憶にない国名が出てきても不思議ではないのだが、それにしても知らない単語ばかりが続いている。
わざわざ夢に見るくらいなのだから、自分自身で気づいていないだけで、何かしらの望みがアサゴにはあるのだと思うのだが、その望みが何なのか、知らない単語ばかりの中からでは読み解くことができない。
そう思っているところにその言葉は突然落とされた。
「そこで魔王を殺してください」
あまりに唐突な言葉が降ってきて、アサゴは馬鹿面を晒すことになった。
物騒な内容もそうだが、魔王という非現実的な単語も重なって、アサゴの夢という仮説が信憑性を増していく。
やはり、これは夢だったのかと思いながら、もう既に意味を考えることをやめていた。
ただ腹部を刺されたから、魘されているだけと思ってみると、それ以上の答えが見つからないからだ。
「もちろん、殺して終わりとはなりません。ちゃんと報酬も用意しています」
「報酬ですか?」
「はい。もし殺していただけるのなら、何でも一つだけ願いを叶えて差し上げます」
一応は聞いておくかと思った程度だったのだが、その破格の報酬にアサゴは驚いた。
あまりの破格さにアサゴは夢であることを悔やむほどだ。
これが現実ならば、アサゴは―――そう思ったところで、アサゴははたと考え込んだ。
もしもこれが現実だとして、アサゴは何を願えばいいのか分からなかった。何でも叶えられると言っても、叶えたい願いなどアサゴには何もない。
安定した職業や数々の欲望を満たすことなど思いつく願いはたくさんあるが、そのどれが本当の望みかと考えた瞬間に、アサゴは何を望んでいるのか分からなくなる。
ありきたりな願いを叶えたい願いとして思い浮かべているだけで、本当にアサゴが望んでいるものは、その中にはない。そんな気がする。
本当の望み。本当の願い。
そう考え始めたところで、アサゴはずっと自分が抱えている悩みを思い出した。
何か一つでも熱中できることがないという悩みだ。アサゴの将来に対する漠然とした不安の源であり、アサゴはその不安を解消するために人生を豊かにする何かを探していた。
それが見つかるのなら、アサゴは願いを叶えてもらうのも悪くないと思った。
ただし、これは夢なので望んだところで叶うこともないのだが、一度思ってしまった思いは消すことができない。
「どうですか?私の頼みを引き受けていただけますか?」
はっきり言って、それは気の迷いだった。夢の中だと思っているからこそ、そうしたのだと思う。
気づけばアサゴは首肯していた。とても小さな動きだが、確かに魔王を殺すと宣言していた。
「そうですか。ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべた女性が立ち上がり、アサゴに両手を伸ばしてきた。
透けて見えるかと思うほどに白い肌はやはり大根を思い出させる。腕は大根ほどに太くないが、その思いだけは消えないことにアサゴは絶望する。
自分が小説を書く時があったなら、もう少しマシな比喩表現を思いつきたいものだ。そんなありもしないことを思う。
「それではお願いしますね」
女性がそう言ってきたところで、アサゴの前にあったはずのテーブルが消えていることに気づいた。その上に乗っていた地図まで綺麗になくなっている。
「あれ…?」
その呟きが引き金になったようにアサゴは倒れ込んでいた。真っ黒な部屋の床はコンクリートのように冷たいと思ったことが最後の記憶だ。
次に目が覚めた時、アサゴは見知らぬ森の中に倒れていた。
その森で小さな傷を負ったことが原因で、今までの全てが夢ではなかったと知ることになるのは、それから少し先のことである。




