腹筋二回目
「どうして、どうしてこうなったー!!」
「はっはっはっ、エリカは元気だなー!」
今日も“腹筋二千回”の目標日課に挑んでいる姉の姿に、エリカはついに本音が令嬢らしからぬ声と共に零れてしまったーー……。
物心ついた時から自分には“前世”の記憶があった。
(確かわたしは広告会社のしがない事務員だったはず)
生まれも育ちも島国日本首都東京。コンクリートジャングルに囲まれ、毎朝満員電車で通勤し、たまに寄る小さな公園の緑に癒され、貴重な休日はアニメと漫画とネット小説に明け暮れる。
(……オタクだったんだろうなあ……わたしは)
家賃ばっかり高い古くて狭くて小さくて飾りようのないアパートで、濁流のような日常に飲み込まれ流されつつ何とか過ごしてた。
(おしゃれなカフェとかバーや二郎系ラーメン食べ歩きも好きだったけれども)
一番ハマったのは二次元の世界、その中でもファンタジーな世界でハイスペックな異性たちと様々なイベントをこなし、相手とフラグを立てていく“乙女ゲーム”と呼ばれる恋愛攻略ゲームをこよなく愛していた。
(……そしてここはどうやらそのゲームの一つの世界みたいなのよね……)
鏡に映った“今世”の自分の姿を見る。ゆるやかに巻く金髪は太陽の光を反射しまばゆい輝きを放つ。長い睫毛に縁どられた大きな瞳は晴れ渡る空のよう。柔らかく白い肌に、細く長い手足。これからの成長が楽しみだ。
(この容姿、それに『アントロワーズ』という家名には覚えがあるわ……)
乙女ゲーム、『選ばれし乙女は救国の聖女』の中に出てくる侯爵家の名前だ。エリカは鏡の中のふわふわして守りたくなるような、愛らしいことこの上ない“主人公”である自分の姿を眺めた。
そう、前世地球生まれの日本人、東京社畜なオタクOLは、自分がプレイした乙女ゲームのヒロイン、『エリカ・アントロワーズ』に転生していたーー……。
「エリカお嬢さまはホントお可愛らしいわね」
「本当に、まるで天使のような愛らしさ」
「大きくなった時が非常に楽しみと同時に、旦那さまも今から悩ましいわよね」
「そうそう、より良い所に嫁がせたい気持ちと、あんなに可愛い娘を手元に置いておきたい気持ちと……」
「分かるような気がするわ……あの可愛いさだもの……」
口々にメイドたちが囁くのを小耳にはさみながら、エリカは口角が上がるのを抑えられない。と言ってもまだ五歳なので妖艶さや意地悪な感じは全くなく、ただただぷにぷにのほっぺの可愛い女の子が、嬉しげに頬を上げているだけなのだが。
(……確かに、恥ずかしいけどわたしもそう思うわ。外国の子どもって本当可愛いもんね……)
小さなお鼻をぴくぴくさせながら広い廊下の角でメイドたちの会話を盗み聞きする。令嬢にあるまじきだが、愛らしさに免じて許してほしい。幾つになっても好奇心には勝てないのだ。
「……それに比べて姉君の『エレーナ』さまは……」
エリカの耳がぴくりと動いた。
「ああ、エレーナお嬢さまねえ……外見はとてもお可愛らしいんだけど……」
「そうね、妹君のエリカさまと並ぶともう天使と女神!、月の妖精に星の妖精ってくらいに神々しいお美しさよね」
「あのお年であれだけの美貌なんだから本当に良い意味で末恐ろしいわ……」
「……でも、ね……」
メイドたちが困ったように瞳を交わし合う。
(ほんと、どうしてこうなったんだろう……)
聞き耳を立てていたエリカも思わず遠い目になる。
「エレーナお嬢さまの腕、見た?八歳の少女、ましてや侯爵家のご令嬢とは思えないくらい“ムッキムキ”になってたわよ」
「あれねえ……“腕立て伏せ”なるものをしていらっしゃるんだけど、回数が半端ないのよねえ……」
「食事のメニューも、“高タンパク、低カロリー”とかいう、野菜と脂身の少ない鶏肉なんかを主に召し上がりたい、って料理長にお達しがあったみたいよ」
「ええっ、何それもったいない!せっかくご馳走食べ放題のお貴族さまにお生まれになってるのに」
エリカはメイドたちの嘆きに乾いた笑みをもらしつつ、もっと言ってやれ!と思う。
「甘いお菓子やケーキなんかも召し上がられないしねえ……お茶の時は木の実や味付けしてないドライフルーツをかじってるんだとか」
「リスか何かなの?はたまた冒険者?」
エリカは糖質制限ダイエッターか!と突っ込んでおいた。
「あんなに身体を鍛えてどうなさるおつもりなのかしら?武家の出でもないのに……」
「まあ、美容にはいいかもしれないけれど……ねえ……」
「そうそう、今日も『筋トレは正義』とかおっしゃいながら、“腹筋二千回”されるみたい……」
「ちょっと意味分かんないわ……」
メイドたちの深い溜め息が、廊下を伝ってエリカの元にも届いた気がした……。
(ちょ、腹筋二千回とかって、わたしも意味分からんわ……!!)
ここで盗み聞きしてる場合じゃなかった、と言わんばかりにエリカは姉の元へと飛び出して行った。
最近のエリカの悩みはもっぱら今世の姉のことである。乙女ゲーム『選ばれし乙女は救国の聖女』、略して選乙(えらおと)には攻略対象のイケメンたちに、ヒロインのライバルとなる、それぞれ婚約者がいた。
(今思えば、ゲームだから楽しんでやってたものの、よく考えれば現実で婚約者いる男性と恋愛って奪略よね?不倫よね?NTRよね?そりゃあ婚約者怒るわ)
ゲームだから割り切って遊んでたものの、現実ではそんなややこしくて裁判沙汰になりそうな面倒臭いこと、絶っ対に!!したくない。ともかく、その攻略対象者の一人にこの国の王子、ーー王位継承者なので王太子とも呼ばれるーーがいる。
(王子誑かそうなんて、ほんとどうなの)
その他にも王子の側近(宰相候補)だったり、騎士団長の息子だったり、魔術師長の息子だったりと、揃いも揃って国の重役になるような彼らを惑わすって、むしろ国傾くんじゃね?って勢いで色々どうなのかと思うけども。ひとまず置いておいて。
(『エレーナ・アントロワーズ』と『エリカ・アントロワーズ』か……)
エリカは姉の元へと、小さな手足を精一杯動かしながら急いだ。
(絶対、彼女も“転生者”よね……)
姉の部屋の扉が目に入る。扉の横の侍女が申し訳なさそうな顔でエリカに近寄る。心なしか諦観と疲労が滲んでいる気もする。
「……エリカお嬢さま、ただいま姉君のエレーナお嬢さまは……」
「分かっています、“筋トレ”中なのでしょう?」
「……はい……」
「大丈夫ですわ、おやめあそばせるよう言ってみますわ」
「ありがとうございます!!」
疲れ顔の侍女に食い気味で礼を言われた。瞳に涙を浮かべている気さえする。扉のドアを侍女がスッと開けたーー。
「お姉さま!“腹筋二千回”なんておやめください!!って、キャー!!何て格好してらっしゃるの!!」
「千五百十九、千五百二十、と、エリカか。どうしたんだ、顔を真っ赤にして」
「早く服を着て!!」
「ん?ああ、これか、こうしたほうが腹筋の動きがよく見えるのでな」
「いいから早く服ー!!」
「あっはっは、エリカは恥ずかしがり屋さんだな。一緒に風呂に入ることもあるというのに」
「ここは風呂場ちゃうわー!!ていうか貴族の令嬢の部屋で裸族になるなー!!」
思わず素が出た。エレーナの格好は、下は動きやすいトレーニングパンツ(これも前世の記憶から引っ張ってきたのか、姉が仕立て屋に別注していた)、上はあろうことか、胸にタオルのような白い布を巻いただけで、デコルテやらウエストラインが露わになっている。八歳にしてはやけに色っぽいその姿は、執事だけでなく女のわたしにも目に毒だ。目覚めてはいけないナニカに目覚めてしまいそうである。
「む、裸族ではないぞ?胸元はきちんと覆ってある。“前にいた所”では、こんな感じの“スポーツブラ”型のウェアを着けてトレーニングしていたぞ?こちらでも同じデザインのものを作ろうとお願いしたのだが……」
却下された、と納得いかなそうに口を尖らせている。
(美人の女の子のふくれ顔、可愛い……じゃなくて!!そりゃ無理だろー!!)
マズいマズい、と首を振りながらエリカは姉に向き直る。エレーナは、『はて、“前いた所って何だっけな?』と不思議そうな顔をして首を捻っていた。
(……どうやらお姉さまは前世の記憶が完全に戻ってるわけじゃなさそうなのよね……)
侍女たちに連れ去られ、着替えをしている姉を待っている間、姉の部屋で軽くティータイムをして心を落ち着かせる。温かい紅茶に甘いクッキー。最高だ。
「ああ、美味しい……」
ふう、と息をつきながら姉のことへと思いを馳せる。
初めて姉が腕立て伏せをしているのを見た時、その衝撃?で前世の記憶が蘇った。それと同時に、今世の姉の不可解な言動も、絶対に転生者のそれだと思ったものだ。
(だって、どこのファンタジーな乙女ゲームの世界の貴族のご令嬢に、筋トレマニアな令嬢がいるっていうのよ……『エレーナ・アントロワーズ』は、誰よりも礼儀作法に厳しくて、美しいけど気が強く冷たい感じのこれぞ貴族のご令嬢!じゃなかったの……?)
エリカは前世の記憶を引っ張り出してきて思う。はあ、と紅茶を一口飲んで、また息を零すと、その姉がやって来た。上は露出は抑えられたが、トレーニングウェアのままだ。側にいるメイドたちはどうやら力及ばずだったようだ……。項垂れている。
「……お姉さま……?ごいっしょにお茶をなさるのではなかったのですか?その格好のままですの?」
「ああ、エリカ、すまないがもうちょっと待っててくれるか?腹筋をあと五百回してからお茶にするよ」
「五百回」
ニカッと音がしそうなくらいにこやかに笑んで、我が姉は腹筋を再開しようと床に寝転がる。何やらいつの間に手に入れたか、ヨガマットみたいなものまでひいてあるではないか。
(ああ、どうして、どうして……)
「……うして……」
「ん?どうかしたか?エリカ」
「どうして、どうしてこうなったー!!」
美しい銀髪に菫色の瞳。誰もがたたえる月の妖精のような可憐で凛とした容姿の乙女の“中の人”は、マッスルに愛情を注ぐ筋肉命な、筋トレマニアである。そしてこの国の王位継承者、第一王子を落とす上でライバルとなるはずの婚約者、いわゆる“悪役令嬢”の『エレーナ・アントロワーズ』とは彼女のことである。