三話
辺り一面――桜だった。
満開の桜が、咲き誇っていた。心地よい春風がやわらかく吹いていて、気温もポカポカ日和で、秒速五センチメートルで落ちるピンクのそれは、まるで春に降る雪のようで、地面も全て桜のピンクで覆われていて、汚い土なんか一つも見えなくて、空さえも、舞い散る桜で覆われていて、僕はもう、桜の一部なのかもしれないと、錯覚してしまうよ。
その、瞬間的な、あまりの美しさに、僕は心を――奪われた。
「ダメっ!」
僕は押し倒された。桜の上に尻餅をつくと、桜はまるで四散するゴキブリのように消えてしまって、汚い土が顔を出す。
「ああ、ごめんなさい。もっとはやく気付いていれば――もう、手遅れですね、ああ、ああ」
僕を押し倒したのは、まるでタケノコのような肌色の角が頭のてっぺんから生えている、女の子だった。女の子は、頭にタケノコが生えているところ以外は、至って普通の人間だった。
タケノコ少女は放心したように、ああ、ああ、と感嘆を漏らしている。
「大丈夫ですか? お嬢さん」
僕は紳士的に、タケノコ少女の手を取った。
「大丈夫なもんですか。いえ、私は大丈夫です。大丈夫じゃないのは、あなたの方です。あなたは、あなたは――心を奪われてしまった」
タケノコ少女は今度はわんわん泣き出した。すると、なんと! タケノコ少女の頭のタケノコが「ゴゴゴ」と奇っ怪な音を立てながら、右回転にぐるぐる回り始めた。
僕はとりあえずそれは無視して、自己紹介をした。
「あの、僕は光と云います。混沌より生まれし――光です」
「そう、あなたは光と云うのね。私は、俗物と云います」
「俗物さん……ですか。もしかして、堅物さんのお知り合いですかい?」
「いえ、知りませんが」
「そうですか、失敬。今のは忘れてくださいな。で、さきほど俗物さんは云いましたね。ええ、確かに云いました。僕の心が奪われたと。それはどういう意味ざんしょ?」
「ああ! そうでしたそうでした。大変です。あなたは心を奪われてしまいました。大変です。大変なことが起きます!」
俗物さんは慌てふためくばかりで、『肝心なこと』は何も云ってくれない。僕は少し、イライラした。
「で、で、で! 僕はどうしたらいいんですか! ぐ・た・い・て・き・なあ! 対処法を教えてください。完結にね」
「どうにもなりません。どうなってしまうのか、私にはわからないのですから」
「なんじゃそりゃ」
「先へ進むのも、後戻りするのもあなたです。どうにかするのも、どうにもしないのもあなたです。でも、このままあなたを行かせて、なにかあったら目覚めが悪い。きっと、孫世代まで悪夢にうなされることでしょう。ああ、恐ろしや。ですから、あなたに最強のとっておきの魔法を授けます」
そう云うと、俗物さんの頭のタケノコが天に伸びた。ぐんぐん伸びた。雲を突き抜け、宇宙の星を撃ち抜いた。こりゃまあ、とんでもねえたけのっこだ! 僕はめんたま飛び出るくらい驚いた。
星を撃ち抜いたタケノコは、一つの”ひかり”を生み出した。きっと、希望と書いてひかりと読む、あのひかりだろう。
「さあ、このひかりを飲み込むのです」
「味は?」
「ゲロまずです」
「じゃあ、やめときます」
「ええい! つべこべ云わずに飲み込みなさい!」
俗物さんはそう云うと、力任せに僕の喉へとひかりを押し込んだ。ひかりが僕ののどちんこを暖簾のようにくぐり、僕の体内に侵入した。
「う、ぐええげぇ」
噂通りのゲロまずだった。
「さあ、これでいい。これであなたは最強の呪文『喝!』を使えるようになりますた。ただし、この呪文は三回しか使えません。無駄打ちはしないように」
そう云うと、俗物さんはスキップしながら去って行った。
気が付けば、桜は散り、辺りには小汚い木々が身を寄せ合っているだけだった。
桜はやはり、一瞬の美しさなのだなぁ。
そんなことを考えながら、僕はとりあえず、北に向かって進むことにした。それは、俗物さんが去って行った方向と真逆の方角だ。
なんだか、俗物さんと同じ方向には行きたくなかった。これは、つまりは、根拠のないカンと云うやつだ。
さあ、異世界の旅はこれからこれから。