この世界は偽物だった
9月2日1637時
音火希梨少尉は、また里絵しずくがいる病室へ来ていた。いつもと違う場所はベッドの脇にある空の車椅子と音火が腰につけている手錠。
「記憶喪失については里衣参謀に報告しておきました」
「あり……がとう、ございます」
里絵が発する丁寧口調に、音火は違和感を覚えた。本来の口調がこんな感じなのかな……。音火はそう一人で勝手に納得した。
「17時から精密な検査をすることになっています。移動には念のため車椅子を使います。…………これも念のためなんだけどこの部屋から出るときには手錠をはめてもらいます。必要ないとは思うけど……」
「……了解」
気まずさで会話が続かない……。会話のキャチボールが成立しないで、ボールが里絵の場所に溜まっていく一方だ。音火はたじろぐ。
音火はすたすたと里絵のベッドの脇の丸椅子にストンと座ると、膝小僧を両手でそれぞれ握り、里絵の方向へ身を乗り出す。
「さ、作戦の話だけど!」
いきなりの行動に里絵はびっくりする。音火が身を乗り出した分だけ里絵の体は後ろへ傾いた。
「さくせん……?」
「あ、ごめんなさい。里絵少尉が行った直前の作戦のこと。記憶を失った原因でもあるけど、少しだけ内容を教えます」
乗り出した身を元に戻す音火は、少し気負った行動を反省した。
「内容……」
「そう、ある人物と一緒に遂行した潜入作戦。覚えてないと思うけど、イレギュラーの連続だったみたい。具体的な情報が不足しているのと、機密情報が含まれる内容だから、まだ断片的なことしか私には開示されていないけど……」
「教えて……」
里絵の口調が敬語でなくなった。
「前の巨大遮断結界の破壊作戦内の作戦として敵国のイーティル国内の初蟹基地へ対しての隠密潜入および、破壊工作が主な目的。途中、作戦開始直前に待機場所だった縦仙基地が、赤仮面と青仮面に襲撃されたことや、作戦中にイーティル側の男性戦闘員と戦闘になったこと、あの「巻き髪」に遭遇して、戦闘になったことが非常に不幸なイレギュラーでーー」
「ま、待って……」
里絵の困惑した表情に気づき、音火は口を閉じた。
「どこかわからなかった?」
「その……出てくるほとんどの言葉がわからない……」
「え……本当に? イーティル、赤仮面、青仮面、巻き髪。これらも?」
「わからない……です」
音火は絶句した。この世界の戦史、その敵をも里絵は忘れてしまったのか……。口には出さなかたが音火は内心でそう思った。
「じゃあ、この世界の歴史と、能力についてもかな……を一から説明しないといけないかもね。ちょっと時間がかかるかもしれないけど」
「どうして……そこまでしてくれるのですか?」
里絵の敬語が完全に戻った。
「上からの命令……」
音火はそこから言葉を繋げようとしたが、言葉に詰まってしまった。事実、音火がここにいる理由はそれ以外にない。だが、音火自身それだけが理由だとは思いたくなかった。
「なるほど……」
音火が繋げようとした言葉の前に、里絵が相槌を打ってしまった。音火は開けていた口を閉じる。
「…………じゃ、じゃあ、少しだけ歴史について教えてあげる」
「お願いします」
「まずは自分たちが今まさにいる場所が「エイシェ」という国。そして自分たちと戦争をしているのが敵国「イーティル」。お互い長く途切れたことのない戦争状態中」
里絵の目はじっと音火を見て、離さない。説明を食らいつくように集中して聞いていた。
「……戦争は主に「術士」(じゅつし、じっし)と呼ばれる能力を持った人間が殺し合うことで実行される……。そう、私たちがその術士と呼ばれる兵隊なの……」
里絵の顔に驚きの表情はなかった。「そんなことより続き!」とでも言うかのようにじっと音火を見つめる。
「術士が使う能力には種類があって、身術、動術、刀術の三種類があるの。それぞれ使える能力によって身術士、動術士、刀術士と呼ばれるの。里絵少尉、あなたはその中でも動術士の能力を有するの……」
「動術士……」
里絵がつぶやく。
「能力の説明はとりあえずここまで。細かいことは後々。歴史の方に戻るけど、今から約30年前にこの世界はある大きなことを知るの」
「大きなこと?」
「きっかけはエイシェとイーティルの国境付近で戦闘をしていた自国の術士たちがイレギュラーに発動した能力で、全く違う世界に飛んでしまったこと。そしてそこには……「日本」という国があった。いや、日本もあの世界の中では多くの国の中の一つだから、正確には「現実世界」があったの」
「現実世界? 現実……?」
里絵は説明を理解できない様子だった。それも当たり前だ。こことは違う場所を現実と呼んでいるのだから。
「そう……。こことは違う世界が存在していたことにみんな驚いたけど、もっと驚いたのがそのあっちの世界、特に日本という国と自分たちのいる世界が説明できないくらいに酷似していたこと」
「どういうこと?」
里絵の質問を無視して音火は続けた。
「日本とは……文化や言語が似ていた。最初は双方どっちが最初で、どっちが後か、わからなかった。でもそれを考え始めてから気づいていくの。こっちの世界には歴史が存在していなかったことを」
「…………」
「その時点から約10年前、今からなら40年前以前の歴史的記録が見つからなかった。長く生きている人に聞いても、自身の生まれや思い出のことは覚えているのに、この世界に関することが思い出せなかった。もちろん、自国エイシェと敵国イーティルが戦争している理由も不明」
音火はそのまま説明を続ける。
「調査をするうちに判明することはまだまだあった。この世界が箱庭みたいな閉ざされた空間で、あっちの世界の比にならないほど狭かった。この世界に「端」があったの……。歴史と端についてはイーティル側も含めこの世界全員がそれまでまったく気づかなかった……」
「そして最後に……あっちの世界に術士が使える能力である、身術、動術、刀術が存在していなかった」
音火はまくし立てるように言葉をつないでいった。
「こっちの世界の人はこう結論付けたの…………この世界は誰かが意図的に創造した世界だって……」
里絵は以前沈黙を維持し、音火の話を聞く。
「それからこっちの世界のことを「異世界」、あっちの世界のことを「現実世界」と言うようになった。これはイーティル側も同じ」
「なるほど……」
圧倒的な情報量に里絵は理解が追いついていないようだった。そんな里絵をみて音火は、夢中になって説明してしまった自分に気づいた。
「ご、ごめんね! 一気に説明しちゃって。なんか気合い入っちゃった。まだ説明は終わってないけど、ひとまずここまでにしておきましょ。じゃあ、検査に行こっか」
「了解」
里絵はゆっくりベッドから起こして、脇にある車椅子に腰を下ろす。その動作を見てても体を動かすのに不自由はないようだった。長い時間寝たきりだったのに、歩行も問題なさそうに思えた。
音火は里絵が乗った車椅子の前に立つと、里絵の両手首、両足首に手錠をはめた。カチャリと鈍い金属音が鳴り、ロックされる拘束具。音火はそのまま車椅子の後ろへ回り、ゆっくり押し始めた。ドアのロックを外し、廊下へ出る。
廊下へ出ると少しずつ速度が速くなっていった。
「す、少し速くないですか?」
不安を感じ、それが口から漏れる里絵。手で体を車椅子に固定できないためどうしても不安になってしまう。里絵の表情は自然と不安げに引きつったものとなる。
「そう?」
音火はなんの疑問も持っていない様子。半暴走状態車椅子は誰もが不安を覚える速度で廊下を突っ切って行った。
この世界に起きたことはそれだけではなかった……
次回 4話 「世界が偽物と知ってから」