お目付役の任務
9月2日0930時
自然と速歩きになる音火。
知り合いというわけではない。任務に都合がいいからというだけで、里絵しずくの近くにいろ、行動を共にしろと命令を受けた音火。しかし、止まった時間が動き始めるような気がして、肯定的な動揺が音火の心を支配する。その期待は音火の表情に現れていた。少しだけ口角が上がり、隠す気のない喜びが漏れていた。
「失礼します!!」
通い慣れた扉の前に着いた途端、勢いよく取っ手を右へスライドする。が、ガチャンという耳をつんざくような大きな音がたった。
「……!?…………」
病室の扉は常にロックされている。当たり前だったことをすっかり頭から抜け落ちている音火。
音火は少しの気恥ずかしさを感じながら、胸に手を当て一息だけ心を落ち着かせる。
そして指紋認証でロックを解除し、ゆっくりと扉を開けた。
いつもは目を閉じ、仰向けで寝ている少女が、今はベッド上で上半身を起こし、医師と看護師の診察を受けていた。顔色はよく、意識がはっきりしている。ただし、音火は少女に無気力さ少しだけを感じた。
医師と看護師の診察を見る限り、別段どこか異常が見つかったというわけでもなさそうだ。音火はそう思った。
「診察が終わるまでここで待たせてもらってもいいですか?」
音火が医師へ尋ねる。
「すぐ終わります」
中年の男性である医師はそう言い、言った通り、2、3分で診察を終えるとすぐさま退出していった。
部屋に里絵しずくと二人きりになる音火。いざとなると、話しかける言葉が見つからない。出そうと思った言葉が喉を行ったり来たりしている様子を、音火は見せていた。
「里絵……しずく少尉ですね」
「…………」
返事は返ってこなかった。里絵の目線は音火に向いているが、焦点がどこか音火の背後の遠く向こう側を見つめているようだった。
「あのぉ……里絵少尉……?」
「……私のこと?」
自分のことを言っていると気づいた里絵。ただし、自分の名前に聞き覚えがないようだった。
「自分の名前がわからないの?」
「名前…………」
音火が言った通り、さっき音火が発した名前が出てこないようだった。とっさに言われた自分の名前とは思えない氏名をいきなり覚えろというのも無理な話だ。
「……じゃあ、なぜあなたがここにいるかは思い出せる?」
「…………わからない……」
「ショックだと思うけど、自分の体をよく見て……。その傷を見てもわからない?」
里絵はぼんやりと自分の右腕に視線を移し、ピンク色の患者衣の袖をまくる。年頃の少女の腕には絶対刻まれないであろう、一本一本が太く深い傷が、そこにはあった。
「わからない……なんで……」
「階級は? 所属は? 家族のことは?」
「…………」
里絵は遂に「わからない」という言葉を発せなくなった。そのことに音火は気づき、質問を中断した。
「ごめん……。一気に聞きすぎた。気分はどう?」
「…………気分…………なにか……落ち着かない……。なにか……足りない……」
「足りない?」
記憶を失っているのだ、不安と喪失感があるのは当然。しかし、里絵の発した「なにか」は失っている記憶という感じには音火には聞こえなかった。
「忘れている記憶はゆっくり思い出してくれればいいです」
里絵からの返事はない。そのかわり里絵は無機質な部屋に少しだけそぐわない、その目覚まし時計に目を向けた。そして、右手を伸ばし手に取ろうとする。
音火は目覚まし時計を手に取り、里絵に渡してあげた。針の止まった時計をぼーっと見つめる里絵。
「なにか気づいたことがある?」
「…………」
無言の否定。
「その時計、壊れてるみたい。電池の交換じゃ動かなかった。でも昨日一度だけ音がなったの」
「そう……」
里絵はそっけない返事をすると、人差し指を長針の上に重ねるように触れる。そして、ゆっくりと左回りに指をなぞる。奇妙でいじらしく、もどかしい行動。指を動かしても針はもちろん動かない。
音火には里絵の行動が理解できなかった。里絵自身、なにか思いがあっての行動ではないことは確かであるが。
「外に出たい……」
おもむろに里絵がそう言った。それまで受け身だった里絵が要望を言い、驚く音火。自然に目が見開いたが、すぐに冷静な面持ちになっていく。
「だめです」
冷たく音火は拒否した。
「どうして……」
「今のあなたは軟禁状態だからです。挨拶が遅れました。私は音火希梨少尉であります。あなたのお目付役として一緒に行動させてもらいます」
「…………」
里絵は再び自分の現状が理解できないというふうに、うつむき、空虚な表情になった。
音火が命令されたことは里絵しずくと行動を共にすることだけではなかった。
里絵しずくが意識が回復した時点で「例の作戦」の情報をどれだけに持っているか調べること。さらに、許可が下りるまでの里絵しずくの拘束もしくは軟禁すること。