知恵の輪と封筒
同日1440時
その狭い部屋は半分をベッドが占めるビジネスホテルのような内装をしている。生活感はさほど見られないが、無造作に置かれた書類がちらほら見える程度だった。
音火希梨は軍施設内部の自室兼待機場所で、小さなデスクに向かい、静かに知恵の輪を解いていた。カチャカチャと不規則な音が部屋に充満する。それ以外の音はない。
「なかなか解けないな……。やっぱり考えないとだめなのかな」
知恵の輪のレベル自体はさほど高くない。
本人も自覚している通り、音火がパズルに手こずるのは頭を使って解こうとしていなからだった。
そのことに嫌気がさしたのか、音火は知恵の輪をデスクに置いた。
「ふぅ……」
ため息がでた。音火は里絵が目覚めてからのことを思い出す。
記憶を失った少女と、謎の潜入作戦……。わからないこと、理解できないことが多く、混乱してくる。里絵の記憶の中を覗き見ることはできない。が、例の作戦自体で何が起きたのかは知ることができる。音火はそう心の中でつぶやいた。
ベッド上に置かれた薄い封筒。音火はそれに目を向けた。
立里衣参謀にお願いして、情報を開示させてもらった。作戦の情報はその封筒の中に入っている。参謀は音火に呪術【怨花】の情報を開示させたこともあり、割とすんなり作戦のことも音火に開示した。
この封筒が届いたのは里絵が目覚めた次の日のことだ。
「開けなきゃダメかなあ……」
音火は重い腰を上げ、封筒を手にした。が、
「やっぱやめた!」
そう言い、再びベッドへ投げた。そのまま天井を仰ぎ見た。
考えなきゃいけないことがいっぱいあるのに、頭が回らない。何を考えていいのかわからないから、何を考えるべきかを考えなくちゃいけな……。音火は考えるのが嫌になってきた。
「里絵何してるかな!」
おもむろに椅子から飛び上がると、音火は部屋をあとにした。もちろん向かうのはいつもの場所。
里絵がいる部屋の辺りには何人かの人がいた。妙に騒がしい。
「………………」
なぜか開いてる部屋を覗き込む音火。部屋に里絵の姿はなかった。代わりに里絵が着ていた患者着が床に落ちている。
音火は後ろを振り返る。部屋と廊下を仕切っているはずのドアが視線の先にあった。重機を思い切り衝突させたように凹んだそれは、音火の思考をさらに遅くさせた。
「うーん…………。んん?…………。………………逃げた!?」
音火はやっとの事で理解した。
その時、音火の通信端末が音を鳴らした。
音火の表情はすでに、気の引き締まった、真面目なものになっていた。外からみれば、頼もしいさや、シリアスさを見せる表情に。
音火はインカムを耳にかけた。
「こちら音火」
「立だ。里絵少尉が脱走した。至急拘束せよ。現在、C棟東出口より屋外へ逃走」
一切慌てた様子のない声の主は参謀の立さといからだった。しかし参謀が直接戦闘員へ指示を出すのは多いことではない。それだけ緊急であることを音火は理解した。
「了解」
音火は低く落ち着いた声で返した。その瞬間、音火は走り出した。屋内であるため、動術の《加速》は使用しない。しかし、音火希梨は戦闘に身を置く兵士である。身のこなし、素早くキレのある動きは、走る姿が全てを語っていた。
建物の出口から音火は屋外へ出た。
周りは背の高い建築物が多く、太陽が隠れていたが、天気自体はよかった。ベンチや噴水などのオブジェクトは植物とも調和のとれている。人は複数人音火の視界に入った。
その中から、全力で走る人影を見つけるのは容易であった。
「いた!」
音火は小さく呟いた。
100mほどの距離の向こう、エイシェの戦闘服を着ている髪の長い少女。音火が里絵を見間違えるはずはなかった。
音火はぐっと全身に力を込める。動術《加速》を発動させ、一気に里絵の元へ接近する。
視界が一気に加速する。中心に映る里絵以外のものが手前にぐっと引き寄せられ、視界から消えていく。
里絵にあと10mほどというところで、《加速》する方向を変化させ、速度を殺さずに
里絵の目の前に回り込み、両手を大きく広げた。
「ストップ!」
音火は叫ぶ。音火の表情は真剣なものから、いつもの柔らかい表情に戻っていた。
里絵は足を止めた。立ち止まった里絵はその場に立つだけで、身構えることも、抜刀しようとする素振りも見せなかった。ただ、じっと音火の目を見つめている。
「どいて」
里絵は低い声で言った。
「なんで脱走なんか……。何か思い出したの? 何が目的? なんで言ってくれなかったの!」
音火は何もいてくれなかった里絵に対して、悔しさを感じていた。悔しさが言葉になって出てきていた。
「一人で行く。一人じゃないといけない気がするから。邪魔しないで」
里絵は音火から逃げるそぶりを見せた。だが、音火も里絵を拘束する任務を受けた身。やすやすと逃すことはしなかった。
里絵へ接近し、手で里絵を拘束しようとする音火。だがその手は何かに阻まれ、里絵へは届かなかった。
「!?」
里絵が発動させたのは動術の《排他》だった。里絵の体を包み込むように発生した球状の排他空間と音火の手は物理的に接触する。
「《排他》…………、まさか動術が戻ったの!?」
そんなことも言ってられなかった。音火は気がついた。動術が戻ったということは《加速》だって……。
里絵は体をひるがえし、音火から逃れた。そしてその瞬間、里絵は《加速》した。
「待って!」
音火も逃すまいと《加速》する。
里絵と音火は建物と建物の間を目にも留まらぬ速さで、駆け抜けていく。10mくらいの高さのものは難なく飛び越えていった。
「速い……」
音火は里絵の《加速》、特に自加速の速度に驚きを隠せずにいた。音火は身術、動術、刀術の3つの能力を持っていることの他に、それぞれの能力自体の強さにも自信があり、戦闘員の中でも強力な動術の《加速》《侵食》を持っていた。
その音火が、里絵の《加速》を使った逃走に翻弄されている。動体視力の限界ギリギリでのチェイス。音火は里絵に食らいつくだけで必死だった。
「昏睡から目覚めた術士の動きじゃない!」
その時、一瞬だけ音火が里絵を見失った。目標を逃した音火の視線は、目まぐるしく動き、周りから里絵を探し出そうとする。自然と《加速》を止め、その場に停止する音火。全神経を研ぎ澄ませ、里絵の気配を得ようとする。が、里絵も《加速》を止めたのか、音火の目には動く影は見えなかった。単調な音が聞こえなくなっていき、変化がある音に神経が鋭敏になっていく。
「絶対いる」
音火は身術の《知覚》を発動させた。視覚や聴覚がさらに鋭敏になり、それだけではなく、五感とは違う感覚、第六感とも呼べる感覚で目標を探し出す。
感じる……。音火は勢いよく振り返った。100mほどの距離に、今まさにバイクにまたがり発進するところの里絵を見つけた。
「なんでバイクなんか……!」
音火はホルスターから銃を取り出し、里絵へ銃口を向けた。
照準が里絵の背中に重なる。銃に無駄な力が入る。照準もわずかに震えているのに音火は気がつく。
そして、音火の右手人差し指は、引き金にかかった。
音火は里絵に銃口を向けた……。引き金は引かれるか……。
次回 13話「二通目の手紙」