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BINGO!

作者: 宮村佳介


 なあ、神様って、信じる?



「うらあ!」

 大振りの剣筋から逃げると、俺は前のめりになるスキンヘッドの山賊の後頭部に回し蹴りをおみまい。

 きれいに攻撃が決まると、俺はいつもの口癖を言い放つ。

「そらっ、ビンゴ!」



 いるんだぜ、神様って存在(やつ)は。



 俺の顔に伸びる(こぶし)が届く前に、俺はバンダナの山賊の顔に拳を叩きこむ。



 俺は信じるっていうよりも、俺には女神様がそばにいる。



 青い上着の山賊が俺を(とら)え、羽がい締め。

 続けざまに、刺青だらけの山賊に顔面を好きなだけ殴られる。

 俺が無反応を装っていると、刺青男が俺の(つら)をのぞきこんだので、俺は油断しているその男に唾を吐き捨てた。

刺青の山賊が動揺する。

俺は足腰に力をこめて、羽がい締めにしている青い上着男を前に投げ飛ばす。抱きあうように体勢を崩す二人の山賊を踏み台にして、俺は空へと跳んだ。



 最強に、最恐で、最凶の、

 最悪な女神様が俺の味方についている。



 坊主頭の山賊の肩を着地台にして踏み倒すと、地面に転がった彼は立ち上がろうとしたので、俺は容赦なくそのビール腹を踏みつけて、気絶してもらう。

 残るは、一人。

 俺が振り向くと、気を失った山賊たちが倒れている中でそこに立っていたのは、剣を両手に構えて、見るからに、俺に怯えている少年だった。力が入りすぎているのか、がちがちと剣が音を立てている。茶の髪にそばかすだからの顔立ち。今までの山賊たち(やつら)に比べ、まだ幼さが残る年頃だと見受けられる。

 それでも、戦わなきゃとでも思っているのか。少年は果敢に俺に向かって走り、声にならない声を上げる。

 俺はそっと横に動いて片足を彼の足に引っかけて、ついでに、転ぶ少年の手から器用に剣を奪うという芸当をしてみせた。

 すぐさま起き上ろうとする彼に、俺は剣の切っ先をその喉につきつける。

 少年は動かない。いや、動くに動けないのだ。

 敗北を悟って。

「終わりだな?」

 最後に、俺は確認をとった。

 最後の山賊は、黙って目を伏せる。

 今まで俺はあらゆる戦場を渡り歩いてきた。だから、それが戦意を喪失したという意味にすぐ気づく。

 ため息を、俺はついた。

 見渡せば、負かした山賊たちが気絶して横たわっている。その数は、だいたい二〇人かその前後。俺からすれば小規模の部類に入る。もっと大きい一団だと、別の場所で待機する仲間を呼びに行く役目がいるが、今日はその姿はなかった。

 扱い慣れない剣を俺が投げ捨てると、乾いた金属音が響き渡る。

 山賊たちの屍……あ、いや、死んでないや。まあ、意識を失った男たちを踏まないように歩いて、戦い前に投げ放った荷袋と荒縄が巻いてある小瓶を拾う。

「終わったぞ、メアリー」

「……お疲れさま」

 掌サイズの小瓶の中では、小人の、金髪の女性が膝を抱えて座っている。

 彼女は俺に対して労うわけでなく、むしろ不機嫌な態度を見せた。

「なんだよ?」

「投げた時に、おでこをぶつけたわ」

「いつものことだろ?」

「お(なか)空いたわ」

「女神は腹減らないって、前に言ってたじゃん」

「おい!」

 不意に呼ばれて、俺は振り向いた。

 見れば、最後の少年が立っていた。剣は持っていないから、戦意はないようだ。

「なんだよ」

戦闘後の疲労があって、俺はメアリーに負けず劣らず苛立ちを見せる。

「俺今疲れてんのっ。お前らの相手してさ」

「……名前」

「あ?」

 ぶっきらぼうに、俺は訊き返す。

「名前、言ってけ!」

 少年は声をふるわせることもなく、はっきりと言った。

「いつか…………いつか、僕が倒しに行くから、だから、名前、名乗ってけ!」

 少年が何を思ってそう言ったのかは、俺は知る(よし)もないが、でも徒党を組んで活躍する賊よりもこの少年の方が、幾分勇ましく見えた。

 勝負で負けても、気持ちでは負けない――――

「コンだ。コン・ドラグード。よく覚えておけ」

 俺は笑って、その場を立ち去った。

 夏の終わりにしかない特有の風が、俺のそばをよぎった。

 もうそろそろ、秋になる。



 山を下りて町に着くと、俺たちは宿をとって荷袋をおき、夕飯を食いに出かけることにした。

 メアリーはいつものように「食べたい、食べたい」とわがままを言って小瓶から勝手に出てきて、俺と並んで部屋を出た。

 町はちょうど夕飯時だ。飲食店が軒を連ねるこの通りは、腹を空かした人々でごった返している。明るく照らされた店のショーウィンドウには、ガラス越しにでも感じるほどうまそうな料理が並んでいて、それに魅了され近づくと今度は店の中から香ばしい匂いまでしてくる。それらが余計に食欲を募らせた。 

 はぐれたらいけないと、メアリーの発案で、俺は彼女と手をつないで歩いている。本人は楽しそうだが、俺は恥ずかしくてたまらない。見た目は「姉弟」または「恋人」のようにも見えて、俺は抵抗感でいっぱいなことを伝えたが、メアリーは子供のように駄々をこねて「手をつなぎたい」と言うばかり。しかし、彼女が駄々をこねると決まって災いが起こるので、仕方なく、俺はこうして手をつないでいる。

「コン。ここにしようよ」

 鈴を鳴らしたような上品な声で、俺の女神さまは居酒屋を指差す。

 まあ、高級料亭を選ばなかっただけでも喜ぶべきだ。メアリーは俺の財布を空にするのが上手で、今までにも何度か財政難になったことがある。

「ねーえ?」

 だめなの? とおねだりをする彼女に、俺は「ここにしよう」と同意する。すると、あれだけこだわっていた手を離して、一人でさっさと入る。

 メアリーは、わがままで、甘えん坊で、人のことなどお構いなしに振り回すのが得意で。それでも、根っからの悪人ではないのだ。それが、俺にとっての唯一の救いだった。

 居酒屋は混んでいた。(かき)()(どき)だったが、折よく食事を終えた人がいたので俺たちはすぐにテーブルにつけた。

 棚などの至る所に多種多様古今東西の酒瓶が並べられていて、店は木目調の壁紙を使い、店員たちの活気ある声で騒がしい。一見すると物が多い店だが、テーブルはメニュー本と灰皿、紙ナプキンの束があるだけでシンプルだ。俺たちが座った席は、頭上に大小含めた酒瓶を並べた棚の下にある場所だった。

「コンは何にするの?」

 さっそく、大型のメニュー本を開いて料理を選ぶメアリー。

「なんでもいいよ。コーラが飲めりゃ」

 パウチされた小さいメニュー表を手に、俺は料理を眺めた。どれもうまそうで、入る胃袋があれば片っ端から食べたいくらいだった。

 俺は大事なことを思い出して、向かいに座る彼女からメニュー本を取り上げる。

「何よ?」

「料理は、二品まで、だ。いいな?」

「……デザートは?」

 怒るわけでもなく、品良く微笑むメアリー。

「一品だけだからな」

 メニュー本を、俺は大人しく返す。

 別に彼女の微笑みに負けたわけではない。ただ、後々(あとあと)になってあれこれとわがままを言われるくらいなら、いっそ、一品くらい認めてやればいいのだ。それで黙ってくれるのなら、話は早い。

 料理が決まると、俺は近くのウエイトレスを呼ぶ。

「俺は醤油ラーメンと餃子セットと、あとはコーラを一つ」

「私はロールキャベツとスパゲッティ、食後にティラミスを」

 俺の言う通りに三品頼んだ女神は、すっかりご満悦だ。

 以前、俺がトイレで席を立ったわずかな時に、彼女は五品も追加注文した前科があるのでこうして注文数は決めているが、はっきり言って俺よりも食ってる。

「どうしてそんなに食えるんだ?」と前に訊ねたことがあるが、メアリーは「神様だから」と笑っただけだった。

 そう、神様なのだ。彼女はこんなかわいい顔をして、とても恐ろしい女神なのだ。

「ねえ」

 俺がぼんやりと料理を待っていると、メアリーは言った。

「自己紹介しようよ」

「……はあ?」

「だって私たち、旅をしてまだ二週間目だよ? そろそろ、お互いのこと話すべきじゃない?」

 料理がまだ来ないので、単なる暇潰しなのはすぐにわかったが、それにしても、自己紹介とは……今さら何だよっとつっこみたくなる。

「俺はめんどい」

「私の名前はメルフィード」

 俺の意志を無視して、メアリーは陽気に溌剌と自己紹介を始めた。

「みんなからはメアリーって呼ばれてて、災厄と戦を司る女神様です。人間界には、人間が身分を作った頃から住んでいて、時々天界に里帰りすると世の中に平和が訪れるのが特徴、かな?」

 柔らかいウェーブのかかった、胸まである茶色混じりの優しい金髪に、九頭身のスタイル抜群の身体。整った顔立ちはまさしく美女で、町を歩けば誰もが二度見してしまうほどだ。だがかえって目立つので、俺は一緒に歩きたくはない。その色香に惑わされることはないが、本心は非の打ち所はないとその美貌を認めている。桃色のブラウスに踝まである白いスカートは完全に着こなしていて、いわいるモデルみたいな女性だ。あ、うーん……訂正すると女神だ。

「ほらほら、コンも」

 促されて、俺は渋った。渋ったとも。

 確かに、こうしてメアリーと並んで旅をするようになったのはつい最近だが、俺が覚えている限り、彼女との初対面は三年前だ。



 武者修行に出て二年目かそれくらいの頃。その時、俺は近くにいる賞金首を倒すことで生計を立てていたんだが、いつからかついた渾名(あだな)は「(こぶし)のコン」だった。俺はただ、ひたすら強くなることで頭がいっぱいだった。賞金首を成敗しようと決めたのも正義感からではなく、名のある悪党に腕比べをしようと思ったからだった。それに、悪い奴を倒しても悪いことにはならないし、賞金ももらえるから、というのも理由のうちだ。

 そんな、ある日。

 とある山の中で、俺はある騎士と出会った。

 鎖帷子の上に鎧をまとい、鋼鉄の鉄仮面を被って馬を連れていたその騎士は、ろくに名乗りもせずに俺に勝負を申し込んだ。

 戦闘の経験が積めるのならと、俺はその勝負を受け、そしてあっけなく俺が勝った。

 両膝をついて敗北を認めた騎士を背に立ち去ろうとしたが、俺の耳に嬉しそうな騎士の声が届いた。

「決めた! あなたにするわ」

 鉄仮面でくぐもっていたためわからなかったが、それを脱いだ騎士の正体は女だった。

「拳のコンね。いいわ、あなたに決めた。あなたを呪ってやるわ!」

 負けたのに嬉々としたその声に、変な奴もいるもんだなと、俺はそれだけ思って女騎士と別れた。

 それが、メアリーとの初対面だった。

 今思うと、それから俺の生活が一変した。山を歩けば決まって山賊と交戦するはめになるし、町ではやくざ者に絡まれ、宿で寝つけば、どこかの御曹司を狙った刺客が部屋を間違えて俺を殺そうとするし。とにかく、戦いという戦いに巻きこまれ、命という命を狙われた。

 そんな生活を送っていると、ついに俺は気づいた。

 騒ぎや取っ組み合い、または戦闘にまでなると俺の視野のどこかに必ず、あの女騎士がいるのだ。

(あなたを呪ってやるわ!)

 呪いとか宗教とかには俺は興味ないが、ここまでくるとどうしても気になって仕方ない。俺は真相を確かめるべく、彼女を追った。だが、何故か追うとまかれてしまう。女騎士が目の前にいるのに、次々に争いが巻き起こって俺を巻きこみ、追いつけない。逃げられ、見失い、髪一本触れることもできない。だから結局、彼女と話ができたのは、三年後のつい最近。

「あんた、誰だ?」

 不躾だとはわかっていたが、俺は訊いた。

 それに対し、ラフなブラウスにスカート姿で、礼儀正しく女騎士は言う。

「私はメルフィード、またはメアリーと申します。災厄と戦を司る女神です」

 災厄と戦。ストーカーにはぴったりだなと、俺は直感的に思った。

 俺はやけになって殴りかかろうかとも考えたが、満足に寝られないなどの疲労が激しく、それだけの体力がなかったので無理やり冷静を装う。 

 メアリーは凛とした声をしていた。

「あなたに呪いをかけさせていただきました」

「ほう……どんな?」

「これから先、死ぬその瞬間まで、あなたは戦い続けるという呪いです」

「……戦の女神さんよ。呪いはいいんだ別に。それよりも、なんで俺を呪うんだ?」

 根本的な質問だった。強い奴、弱い奴。戦えるやつなんていうのはごろごろ世界中にいるのに、俺よりも強い奴なんてのはたくさんいるのに、どうして俺なんかに呪いをかけたのだ?

「……あなたに負けたからよ」

 今までお上品に振る舞っていた彼女は、身勝手なほど急に怒り出し、眉間にしわを作る。

「戦を司る女神なのに、人間に負けたのよ。神々の笑い者よ。おかげで私は天帝から天界に出入り禁止処分を受けたの」

「ほーお」

「でも幸いなことに、あることをすれば私は元の地位に戻れるわ」

「何をするんだ?」

「あなたの首を、上司に献上するのよ。そうすれば、私は天帝に許してもらえるの」

 もし俺が文章を書くなら、こんな時は「彼女はぞっとするような台詞を言い放った」とかなんとか述べるだろうが、負けた奴の言葉に恐怖は感じない。

 要は、メアリーは仕返しをしたいのだ。負けたことを汚点に感じて、そこから学ぶことをせず、執拗に、気が済むまで何かをしたいのだ。

 しかし、だ。まだ疑問は残る。彼女のことだ。女神だって? 信じられない。というより、俺は「神様なんてものは人間が作り出した存在」という観念を持っているので、純粋に疑う。

 ふと、俺は普段なら思いつかないようなことを思いついた。それなら、彼女が人間であるかそうでないかを見分けられる。背負っていた荷袋を(あさ)って、元々、胃薬が入っていた小瓶と、栓のコルク。あと、故郷で祖母(ばあ)ちゃんにもらった、もしもの時のためのお札を手にした。

「えーと……」

「メアリーよ」

 親切なメアリーは、そっと微笑む。

「メアリー。一番の疑問なんだが、本当に神様なの?」

「言ったでしょ? 災厄と戦の女神よ」

「本当に? そう思っているだけの勘違い女じゃないの?」

俺は侮辱ともとれる言葉を使って挑発する。

「そもそも、神様なんてのは絵本の世界だけじゃねえの? そんなこと言って、お布施を要求するだけのインチキ女なんじゃねえのか? 今までのはただの偶然で、お前はただの、思い上がりのストーカーじゃねえのか?」

 彼女が、かちんと頭に来たのを、俺は表情から読み取った。すかさず反論される前に、俺は言葉を次ぐ。

「俺が言うものに化けてみろよ。化けて、神だってことを証明してみろよ」

「……いいわよ」

 怒りを押し殺して、取り乱すことのないようにするメアリー。かなり苛立っているはずだ。俺の言葉は、俺なら殴り倒すぐらいじゃ済まないほどの威力があったから。

「ただし。私が見たことのないものには化けられないわよ。それでも?」

「化けるのは、こーんな、これぐらい()っさい豆だよ」

俺は指と指を使って小ささを強調する。

「小豆でもそら豆でも、とにかくこれぐらい小さいものに化けてもらわにゃ、俺は神様なんてのは信じねえな」

「……それだけ?」

 勝ち誇った顔色の女神は、くるりと宙返りをして、姿を豆一粒に変えた。

 そのまま俺は、その豆をつかんで、用意していた胃薬の小瓶に変化した彼女を入れた。コルクで栓をして、効くことを信じて札を貼る。

 小瓶の中で、豆から小瓶サイズの女神に姿が変わる。

「札を取りなさいっ」

 彼女なりの恐ろしい形相で言うが、まったく怖くない。

「札って神様に通じるんだ」

 感心する俺の頭の中で、「神様」というキーワードが増えた。それ以来、信仰者ってほど信じたわけじゃないが、人間と動植物以外の存在を俺は認識した。

 メアリーはきいきい声でやかましく脅し文句を並べたが、最後には負けを認めたようで、地団駄すら踏まなくなった。

 俺が女神様を閉じ込めたのは、周りをうろちょろされるのが嫌だったからで、大した理由はない。それに、俺が苦しい思いをするのに対して、彼女だけ何にも制約がないのが不満だった。

 俺は、小瓶にメアリーを入れて旅をして、そして今に至る。

 今から二週間前の話だ。

「ほらほら、早く」

 楽しそうなメアリーに、俺は嫌々ながらも自己紹介を始めた。

「名前は、コン・ドラグード。二〇歳」

「うん、うん」

 女神は満足そうだ。

「生まれは」

 ウエイトレスが料理を運んで来たので、話が一時中断。

 テーブルの上に品がそろい、聞き手に徹して食べ始めるメアリー。

 俺は食べながら話を再開した。

「生まれは、大陸の東の果ての港を出て、船でしか行けないカラカス諸島の第三地区テナール村で育った。大陸と比べれば完全な田舎だけど、開発されていない土地だから空気が澄んでいて山とか風景もきれいだ。テナール村にはラカムという武術の道場があるんだ。拳と足の体術を使い、得物を一切使わない戦い方で、まあ、試合はほとんど殴り合いのケンカに近い。門下生は俺とリエルっていう男友達と、後は大人ばっかりだった。リエルは、年は一つ上だけど仲のいい友達でいろいろ馬鹿やったよ」

 短い黒髪に黒目をして、白地に赤文字でプリントされたタンクトップとジーパンを履いている、俺。いわいるアクセサリーは身につけていない。戦闘の時、邪魔だからだ。メアリーとは頭一個分身長が低く、男としては比較的小柄なのは自覚している。

「お父さん、お母さんは?」

「父親は俺が物心つく前に死んで、お袋と暮らしてたよ。父親がいなくても逞しくなって欲しいって、俺を道場に通わせたんだ。五歳からラカムを始めて、もう一〇何年も続けている」

 スパゲッティで唇を赤く染めながら、詳細を問うメアリー。

「ラカムはつらくなかったの? やめたいと思わなかったの?」

「何度も思ったし、覚えている限りでは百回は泣いた。でも、師範が優しい人でさ。誰にも負けないし、誰よりも強いんだ。怒ると死ぬほど怖いけど、褒めてくれるところは真っ先に褒めてくれてさ、何度も支えられたよ。俺、思ったんだ。この人みたいに強くなりたいって。実力が伴う、本物の男になりたいって」

「ふーん」

 気づけば、俺は予想以上にノリノリに語っていたが、メアリーはそこをからかうわけでもないので、続けて力をこめて話す。

「多分、自分の全てを捨てて修行に励んだって、この人には勝てない。圧倒的な強さを誇る師範は俺の憧れなんだ」

 師範は、今思い出しても尊敬に値する人だ。格闘技の技術者として、指導者として、先輩として、相手として、男として、人として。それで、本当の父親みたいに肩車してもらったのが、子供の頃の一番の思い出だ。俺だけじゃない。同じ生徒のリエルにも、道場に通わない子にも、村のみんなの人気者だった。

 俺もそんなふうになりたくて。人気者になりたいんじゃなくて、なんというか、かっこつけなくてもかっこいい、そんな大人になりたくて。そんな思いが、自然と武の道に俺の背中を押してくれたのだ。

『勝負は大事だ。真剣勝負ならなおさらだ』

いつも師範は言ってた。もうほとんど口癖だった。

『でも本当に大事なのは、気持ちなのだ。コン、よく覚えておけよ。武道は、気持ちで負けたらそれは本当の敗北なんだ』

 今でも、俺が追いかけてる背中は、ただ一つ。

「それで武者修行に出たの?」

 ロールキャベツの汁を垂らさないように気をつけながら、メアリーは質す。

「最初は十三歳の時だった。リエルが先に武者修行の旅に出たんだ。強くなるためってあいつ言ってたよ。俺もすぐ真似したかったけど、師範がなかなか許可を出してくれなかったんだ」

「それで?」

「課題出したんだよ。師範が」

 メアリーは怪訝な顔をする。

「何それ?」

「俺の顔面に一発でもパンチできたら許可を出すっていう課題。もちろん、初めは無理だと思った。小手先の技術でどうにかなる相手じゃないし、スピードもパワーも向こうの方が上だ。一年間修業して挑んだけど完敗。でも、俺、師範の悪い癖に気づいたんだ。師範は瞬きの回数は少ないけど、一回に目を閉じる時間がだいたい一秒から二秒手前。そこを狙ってパンチ決めた」

(まばた)きで目を瞑った瞬間を狙ったの?」

「さすがの師範もそこだけは無防備だった。でも課題をクリアしたけど、そんな不意打ちみたいな真似をしたことが自分でも納得できなくて、結局、出発は十五歳の時だった」

 そして各地を回る生活を送っていて、メアリーと出会った。本人には言わないが、最強に、最恐で、最凶の、最悪な女神様のおかげで、良い武者修行になっていると俺は思う。戦闘は場数を踏まなければわからないこともあるし、歩いてるだけで向こうから強敵がやってくるのなら、それに越したことはない。

 余談になるが、視界に入ったり消えたりするメアリーを小瓶に閉じこめた俺は、彼女に交渉をした。つまり、メアリーがあまりにも「出せ出せ出せ」とうるさかったので、俺は諦めて出してやった。そのくせ、俺が歩くと、彼女はおんぶに抱っこを要求したのだ。なので、俺はこう提案した。

「歩く時は小瓶の中で、食べる時とかは外に出ることにしない?」

 運が良いことに、メアリーはその要求を呑んだ。というわけで、小瓶は札を貼らずに常に開けっ放しにして、彼女にはそれに自由に出入りしてもらうことになった。

「ごちそうさまでした」

 話を戻して。デザートまで平らげたメアリーは満足げに見え……たが、間をおかずにメニュー本に手を伸ばしたので、俺は先に奪った。

「メアリーさん、約束はどうした?」

「……えへへ」

 かわいく、色っぽく、上品に彼女は笑うが、俺にそのトリプル攻撃は通用しない。

「ったく、隙のない神様だな」

「そーお?」

「褒めてない」

「ねえねえ彼女、俺と飲まない?」

 突然、見知らぬ男がメアリーに話しかけた。

 女神の様子を見ると、どうやら相手も知らない男らしい。

 茶髪を半端に伸ばした頭は、明らかに染めたと見られる。アクセサリーをこれでもかというほど身につけてじゃらじゃらと音を鳴らし、俺ならうっとおしいくらいだ。人は見た目で決めるなって師範から教わったが、どう見ても、こいつは不誠実で軽そうな雰囲気の男だ。

「お姉さんかわいいね。俺の店で飲まない? 美人だから安くするよ」

 安っぽいナンパに、メアリーは大人の女性を演じる。

「ごめんなさいね。私、今食事を終えたところだから」

「こんな男よりも俺とデートしようよ。ね、そうしよ?」

 ふふっと、彼女は口元に不気味な笑みを浮かべる。

「私は断ったからね」

 あ、やばいと俺が判断した直後、メアリーはわざと見知らぬ男の前で指を鳴らした。

 ごとんと頭上で音がしたのでとっさに見上げると、見えない棚の上で、ごろごろと何かが動き回る。それが酒瓶だと知ったその時、ナンパ男の頭に酒瓶が落ちてきて、ヒット。

「ビンゴ」

 つい、俺が言ってしまった言葉と、ガラスが割れる音が重なった。

 悲鳴を上げて床を転げ回る男に従業員たちが気づき、慌てて駆け寄り声をかける。

 その場を嘘のようにすり抜けて、メアリーは俺の手を引いた。

「お会計しようよ」

「お……ああ」

 さすがは災厄の女神だ。俺は彼女の能力を間近で見て、改めてその威力を思い知った。

 災厄と戦を司るメアリーは、簡単に言うと人間の「運」を左右させることができる。人が誰しも持つ運を悪い方向に動かすことで、何人、何十人、何百人という人を不幸にすることができるのだ。

 俺たちは他人を装って会計を済ませると、居酒屋を出て宿に戻り、ちょっと早いが寝ることにした。早めの就寝に、メアリーはぶうぶう文句を言ってカードゲームの相手を求めたが、俺は山賊相手の疲れが残っていたのでそれを拒んだ。

「一〇分でいいから。一回だけでいいから?」

 それならとゲームを始めて、徹夜に引っ張られたことが今までで三回はあった。

 強制的に電気を消すと、渋々とメアリーは自分のベッドにもぐりこむ。駄々をこねても、あまり大きく逆らわないところが彼女の良いところだ。

 俺もベッドに入り、布団に身を預けた。



「で、なんでこうなるんだ?」

「……やっぱり、だめ?」

「……っ! だめに決まってるだろ」

 怒鳴ろうと思ったが、俺はもう呆れて大したことが言えない。

 朝になって、俺が起きて、向かいのベッドにメアリーがいないことはすぐにわかった。すぐに戻ってくるだろうと朝のストレッチをしていると、帰って来た女神様は知らないおばちゃんを連れて来たのだ。

 嫌な予感がする。と、定食屋の、白いエプロン姿のおばちゃんが一枚の紙を俺に見せた。

「この人が食べた料理の代金、払ってくれるかい?」

 俺は真っ白になる頭で請求書を受け取り、真っ青になる思いで金額を見つめた。

 できるだけ優しく、俺はメアリーを連れて部屋の隅に行き、こそこそと話す。

「で、なんでこうなるんだ?」

「……やっぱり、だめ?」

「……っ! だめに決まってるだろ」

 怒鳴ろうと思ったが、俺はもう呆れて大したことが言えない。

 財布に相談するも、足りない。

 ……仕方ない。

俺は腹をくくっておばちゃんに頭を下げた。

「申し訳ありませんが、手持ちがないので払えません。畑仕事でも雑用でも、何でも俺と彼女を使ってください」

 俺は労働で対価を払おうとした。怒鳴られる――――と腹の底で覚悟していると、おばちゃんは俺の肩に手を乗せてぽんぽん叩いた。

「あなた強そうね。職業は?」

「武者修行の旅をしています」

「強いの?」

「まあ、それなりには」

「戦える?」

「毎日戦っています」

「……ふーん」

 おばちゃんは俺を品定めする。

メアリーがどうなるかは知ったこっちゃないが、俺はどうだ。肉体労働にかりだされるだろうか。まさか、無銭飲食の罪で炭鉱の強制労働に送られて一生を過ごすのか?

「よし!」

 おばちゃんの掛け声で、俺も何とか覚悟が決まる。

「どこの炭鉱でしょうか?」

「え? 炭鉱?」

ふふっとおばちゃんは愛想良く笑う。

「何言ってるのよ。ちょうどね、町で人手を探してたの。ねえ、熊退治やらない?」

「……くま?」

「最近山でね、熊に襲われる事件が続いてね。狩人(かりうど)でも退治できないのよ。参加してみない? そしたら、この人の代金はチャラにしてあげるから」

「……はい」

 わけもわからず、話はとんとん拍子に進んだ。

 俺はこの町の近くにあるガルトン山で、熊退治をすることになった。

 地元の狩猟隊も手に負えないその熊は、ついた渾名(あだな)巨熊(イグナロ)。大きさは人間でいう大男よりも大きく、立ち上がると三メートルも超すという。いつからか人の味を覚えたかは不明だが、山に足を踏み入れる人を男女問わずに襲い、殺すという凶暴な熊だ。

 狩人たちも昼も夜も捜索したが、何人も襲われ、重軽傷者も死者も出ている。

「熊ねえ」

 定食屋のおばちゃんが帰った後、俺は宿に残り、準備体操をする。

 俺は今までいろんな人間と戦ってきた。自分よりも背の高い奴、低い奴。体重が重くてでかい奴、軽くて猿みたいに身軽な奴。剣を、槍を、弓を使う奴らと手合わせしたことがあるし、自分と同じように拳を使う奴もいた。だが、熊は初めてだった。相手は小技が通じない野生の獣だ。それもかなりでかいから体重差もあるだろう。一度でも、気の緩みから馬乗りにでもされたら、確実に殺されるはずだ。

さーて、どう戦うか……

「コン」

 呼ばれて、俺は準備体操の後の腹筋を止める。

「私もついていっていいかしら?」

「はあ?」

「だってもしその巨熊(イグナロ)に首を食いちぎられたら、私がコンの首を回収できないでしょ?」

 まったく、この女神は。

 自分勝手な意見に、自然とため息がこぼれた。

 そもそもメアリーは、俺に勝てないのを知っているのだ。真っ向から勝負を挑んでも俺に負けるから、隙をついてでも首を手に入れようと目論(もくろ)んでいる。もしかしたら、こういった事態になったのも、彼女の差し金なのかもしれない。

「いい?」

「だめだ。お前はこの町でウエイトレスでもやって、少しでも金を稼いでもらうからな」

「えー」

「いいな?」

 語句を強めると、それでもメアリーはなんとか頷く。

 俺は温まった身体を起こして、部屋を出た。

「じゃ、いってくる」

「はーい」

 ひらひらとメアリーが手を振ったが、俺は手を振り返さなかった。

 メアリーが無銭飲食を働いた定食屋の、あのおばちゃんに聞いて、俺は狩猟隊が集まる小屋に向かった。

 町の外れにあるその建物は、いかにも手作りといった掘っ立て小屋で、中に入ると一人の男がパイプイスに座っている。部屋は猟銃や弾が棚に整理されていた。

 俺が簡単に話をすると、事情はすでに聞いているようで、朗らかに笑って男は俺を出迎えた。

「アルージだ。狩猟隊の副リーダーをしているよ」

 白髪混じりの黒髪に、日焼けした浅黒い肌は日頃から外仕事に従事していることを連想させる。歳は六十くらいだろうか。

 ほかにも隊員はいるが、アルージのほかは巨熊(イグナロ)に襲われて入院しているか、巨熊(イグナロ)に怯えて家にこもっているのかの二組に分かれるそうだ。

 手振り身振りに、アルージは巨熊(イグナロ)の特徴を話す。

「とにかくでかいのなんの。立ち上がると三メートル以上あるんだ。なのに足は恐ろしく速くて、一度狙われたらかなり危険だ。腹を噛まれて死んだ仲間もいる。普通とは違うんだ。昔は、俺は他所(よそ)に住んでて、そこは熊なんていっぱい出たけど、このあたりの山はそんなに熊は出ないんだよ。なのに、巨熊(イグナロ)はいきなり現れたんだ。しかも行動範囲はでたらめで、広いガルトン山のあちこちに出没するんだ」

 俺はアルージの奢りで、昼飯は定食屋で食べて、腹を満たしてから彼と一緒に山に入ることになった。

「素人がいても平気ですか」

と俺が訊ねると、アルージは、

「人の目は多い方がいい」

と笑って言う。彼自身も何度か巨熊(イグナロ)に遭遇していて、そいつは前後左右どこから飛び出してくるのかが予測できないので、こうして目の数を増やすことにしたのだ。

 鬱蒼(うっそう)と茂るガルトン山に入る直前、アルージはこんな話をした。

「そういや、入院している仲間が言ってんだけどな」

 枝をかき分け、勾配がきつくなる中で猟銃を一丁背負う彼の後ろを俺はついていく。

 山道は慣れていないが、普段から足腰が鍛えられているので苦にならない。

巨熊(イグナロ)は、人の言葉をしゃべるんだってさ」

「人の言葉?」

「仲間のうち、四人は聞いたって言ってたな。まあ、あまりの怖さに聞き間違えたんだろうけどな」

 俺たちは、太陽がゆっくり西へ動いていく中で、巨熊(イグナロ)の目撃場所をめぐり歩いた。

 俺は自分が素人なのはわかっていたので、できるだけ後ろをぴったりくっついて歩き、はぐれないように努めた。それから前後をきょろきょろして、襲われないように気をつける。

 夏が終わろうとしているこの時季。緑が繁茂する山を、秋を想像させるような冷たい風が吹いているので、あまり暑くは感じなかった。

 人の手が入っていないこの山は、とても歩き難い場所だった。地面は踏み固められていないのでふかふかで不安定だったし、生きるために自己主張の激しい植物たちの間を俺たちは足元を確認しながら進む。

 事件が起きたのは、そろそろ休もうかという話が持ち上がった、その時だ。

 左側が急斜面の細い山道を歩いていると、俺が道を踏み外して何十メートルもある斜面を転がり落ちた。

 驚いたアルージの声が遠くなっていく。

 転がり落ちる瞬間は一瞬のようにも思えたが、草木にまみれて、動きが止まって顔を上げるとかなりの距離をすべっていた。自分がいた場所が、あまりにも高すぎて見えない。

 こんなドジを踏むとは思っていなかった俺は、山をなめていた自分を知り、もどかしさと腹立たしさを覚える。

 しかし、アルージからははぐれた時の対処を教わっていたので、焦りは感じなかった。俺みたいな素人は、下手に動かない。彼からはそう聞いていたので、俺はアルージが迎えに来ることを信じて座りこんだ。

 大した傷もないし、騒ぐ必要性もない――――

 視線を感じて、俺は習慣で耳を澄ます。

 風が優しく木々を通り抜け、木の葉が囁く。

 はっきりとした、殺意のような鋭い視線を感じる。

 何かいる。俺は立ち上がって、気を引き締めた。

 見回す、見回す……肌がざわつく思いが好戦的な感情を刺激し、ひりつく感覚が身体を支配する。頭を締めつけるような緊張感で、心臓な動悸が聞こえるほど集中し、敵の姿が見えないことによる焦燥に駆られる。

 どこだ。

 ………………

 静寂が仮面を被り――――頭上で、そのわずかな音を俺は聞き逃さなかった。

 上を向く。茶色い巨体が降ってくる。

 右前に跳んで振り返ると、鉛を一〇〇キロ落としたような地響きが鳴り、目標を見失った巨体がこちらを向く。

「グ、ルルルル」

 俺と目を合わせたそれは、けむくじゃらの毛皮に刃のような鋭利な視線を併せ持った熊だ。戦意むきだしで、もし自分の直感を信じるのであれば、

「ビンゴ」

 俺は、巨熊(イグナロ)と対峙する。

 二本脚で立ち上がる噂通りの巨躯は、子供が大人を見上げるような錯覚を覚える。幅もあって、ただのでかい熊だけじゃなさそうだ。見ただけで、腕力や脚力といった力という力は自分よりも何倍もあるということがわかって、すんなり勝てそうな相手ではないことを悟る。

 巨熊(イグナロ)は荒い息で、どうやら興奮しているらしい。声にならないうめき声が威圧的に聞こえる。

 下手に距離を縮めるなんて真似をしないで、俺は間をとりつつ、前後の戦場舞台の地理を把握した。

 さーて、どうしたもんか……

「……ヒトだ」

「あ?」

 聞き間違いか、今……

「ひトダ……フー、フー、ひとダ」

 しゃべった。確かに、(つたな)い人語を口にした。

巨熊(イグナロ)か」

 立ち上がって俺を見下ろしたまま、巨熊(イグナロ)は動かない。だが目線はしっかりと俺を捕えている。

「手合わせ!」

 俺は駆けだす。

 それに巨熊(イグナロ)が気づいて、それなりに身構える、刹那――――俺の右足による回し蹴りが敵の首筋に炸裂。どうだ。足が首から離れる瞬間、巨熊(イグナロ)は俺の右足をつかんで、乱暴に足元の地面に叩きつける。その威力は、予想以上、いや本物だ。背中を打った俺は、骨の髄にまで響く衝撃に、悲鳴にならない声を上げた。

 そのまま一拍もおかずに、敵の攻撃が開始。

 下から見上げるその姿は、でかい。俺が悠長にそんなことを思っていると、巨熊(イグナロ)は俺の顔面に狙いを定めて片腕を引く。

 来る――――とっさにつかまれた足で毛皮を蹴って、肉球だらけの手から逃れると、後転で間合いをとる。空を貫くその拳は、地面を揺らし、その場にヒビを作った。

 転がり逃れた俺は、すぐに立ち上がって応戦体勢。

「どんだけの腕力だよ。」

 言いながら、それでもこれだけの敵に出会えたことを嬉しく思う。

 楽しい。俺は危険を承知で、考えた。わかってる。勝負は遊びではない。負ければ死ぬのだ。だから、これだけ強い相手に出会えたことは、俺にとっても利点ばかりだ。なぜなら、自分よりも強者だと感じた敵に勝てた時、俺はまた一歩最強へと近づくのだ。

背筋が興奮でぞわぞわして、湧きあがる勝利への欲求に酔いしれる。

だから俺は、戦うことをやめられない。

 俺は間合いをとり、(きた)る攻撃に備えて最適な構えに身体を変化させる。

 それにしても、俺は冷静に分析する。巨熊(イグナロ)は先ほど、「腕を引く」という行為をした。これは人間以外の動物にできる行動ではない。言葉もしゃべる。動きも、まるで戦い慣れた戦士のようで、言うならば人に似て非なる生き物だった。

「……ひトだ。ヒトだ」

 巨熊(イグナロ)は変わらずに何かの言葉を発するものの、短い単語しか言っていない。

「そうさ。俺は人だ。相手に不足ねえだろ?」

「……ふー、フー……お、オ、おマエ……つヨいノか?」

「あ?」

「ツヨイのか? ……ふー……つよイノか?」

 大して動いていないのに、巨熊(イグナロ)はみっともないくらいに息が荒い。

 さーて、どうするか。

 自問する。最初のあの一撃は決して手を抜いたものではない。手応えはあったが、考える以上のタフさに負けて不利なのだ。

 これだけでかいと、背負っている筋肉の量も半端ではないだろう。それが巨熊(イグナロ)の、攻撃の根本的な支えであり、時にそれは防御として内臓や骨を保護する。

 なら、狙うは肉の少ない頭部。

 俺は左右にステップを踏んで間合いを詰め、敵を翻弄。惑わせる中で背後に回って、そのまま両手を組んで後頭部を手荒く打ちつける。

 がくんと仁王立ちの姿勢が崩れたか。と思うと、巨熊(イグナロ)は華麗に足を踊らせ、()っとい足で回り蹴り。

「……っ!」

 毛皮の足が、俺の横腹に食いこむ。焼けつくような痛みと、刺すような感覚が混ざったそれは、一筋縄の相手ではないことを教えてくれた。

 俺は勢いを殺さないままに、木に衝突。ずるりと、その根本に座りこんだ。攻撃自体に特殊なことはない。やはり問題は、そのパワーだ。

「タタかえ」

巨熊(イグナロ)が言う。

「たタアえ、たたカエ、タたかエ!」

 背にした木を頼りに立ち上がり、俺は口の中で混ざった唾と血を吐き捨てる。

「おレは! マけなイ!」

 叫ぶなり巨熊(イグナロ)が俺に向かって突進。木と巨体に挟まれ、俺は悲鳴すら喉から出ない。

「まケナい。おれハ、オれは、マケなイ!」

 俺は、俺の襟首を巨熊(イグナロ)がつかみ、そのまま宙を回っての背負い投げを受けた。

 地面に叩きつけられた身体は、骨がイカれる音でいっぱいいっぱいだ。

「おレは!」

 巨熊(イグナロ)がそこに腕を振り降ろし、その爪先が俺の身体を突き刺して、服を、皮膚を、臓器を切り裂く!

「うわあああああああああ―――――っ‼」

「マけナい! おれハ、ダレにも、まケなイ!」

 何度も、何度も、何度も――――巨熊(イグナロ)は俺の身に爪を立てた。

 どのくらい経ったかは、俺は知らない。熱い痛みが全身を支配する中、血が流れ出る感覚が鮮明にわかる。ぼんやりとする視界に、巨熊(イグナロ)が俺の顔をのぞきこんだ。

「……しンだカ?」

 答えることができない。息すら、しているのかもわからない。

「だメだ」

 うつろになる俺と、巨熊(イグナロ)の目が合う。藍色の双眸が、こちらをまっすぐ見下ろす。見覚えのあるその眼差しに、どこか懐かしさを感じる。

「きモチでマけたラ、ホンとうノはイボくだ」

 聞き覚えのある言葉。

 巨熊(イグナロ)は手を振り上げる。

 俺は……覚悟をして目を閉じた。

 銃声が、山に響く。

 爪が身体を襲わない。

 再び、銃声。

 しばらくして、アルージの声がする。

 暗闇の中で腕を引っ張り、前のめりの体勢のまま、俺は揺られる。どうやらアルージが背負っているようだ。

 そう言えば。

 朦朧(もうろう)とする意識の中で、俺は思った。

 あの熊の瞳は、きれいな藍色をしてたなあ……



 ぐすんぐすんと泣いて、嗚咽をもらす友達の手を引いて、幼い俺はでこぼこの舗装されていない山道を歩いていた。

「もう泣くなよ。玩具(おもちゃ)は取り返したろ?」

「……うん」

 それでも泣き止まない似たような年齢の友達に、俺は呆れるわけでもなく、ただただ手を引いてやる。

「ねえ、俺と一緒にデラさんのところの道場通わない?」

「……どうじょう?」

 うんと答えて、俺たちはいったん立ち止まる。つないでいた手を放すと、友達は手を丸めて涙を拭うばかりだ。

「ラカムっていう武術の道場なんだ。強いんだぜ、デラ師範。俺、あの人みたいになりたいんだ」

「うん」

「でも、俺以外はみんな大人なんだ。だから一緒にやらない? 一緒に強くなろうよ」

「……そしたら……もう、玩具(おもちゃ)、とられないかな?」

 しゃくりあげる友達。

「とられないよ! 一緒に強くなって、あいつら見返してやろうぜ。明日から通うけど、一緒に行こうよ」

「……うん」

 ようやく泣くのを止めて、友達は顔を上げて俺を見やった。

 彼は、澄んだような藍色の瞳をしている。

「僕も、強くなるよ。コン」



 誰かに呼ばれた気がして、俺は目を開けた。

「……コン?」

「メアリー? あでで」

 身体を起こそうとして、全体を貫く鈍い痛みに、ついつい声を上げる。

「だめよ動いちゃ。三日も意識なかったのよ」

「……三日?」

 俺は白を基調とした部屋の、カーテンで仕切られた窓際のベッドに寝かされていた。すぐに、ここがどこだかわかった。病院だ。

 メアリーから聞かされた話によると、巨熊(イグナロ)に襲われた俺は重傷を負い、アルージに担がれて町の病院に入院したという。

 自分の脇に座る彼女はいろいろと話をしてくれたが、俺は横になって巨熊(イグナロ)のことばかり考えていた。

 頭によぎる、巨熊(イグナロ)。吸いこまれるような、美しい藍色の瞳。

 それに、俺は見覚えがあった。どこかで見たことがある。

 たまたま? 偶然に、あの熊の目の色がそうだっただけ?違う。俺は、巨熊(イグナロ)を知っている?

「じゃあ、コン。面会時間が終わるから、宿に戻るね」

「……メアリー」

 立ち上がる彼女を、俺は呼び止める。

「頼みがある」



 夜になった。

 まだ蒸すような息苦しさが残るが、そこを風が涼しく吹き渡る。

 病院を勝手に抜け出した俺はガルトン山を歩き、適当な広さの広場を見つけると、そこで巨熊(イグナロ)を待った。

 風が吹く度に囁く木の葉が、秋の足取りを思わせる。

 墨を流したような夜空には、月が煌々と闇の世界を照らす。それが満月なのか三日月なのかはよく見ていないのでわからないが、それでもその場に影を作るのには十分だった。

 腹の傷が、(うず)く。俺は違和感で気持ち悪い腹をタンクトップの上からさすった。でも、今は文句を言ってられない。

 近くの木陰には、メアリーが幹によりかかって立っている。

 俺は、どうして巨熊(イグナロ)に会わなきゃならなかった。会って、確かめないといけないことがあった。だけど、素人が山を探したって普通なら会える確率は低い。だが、俺には災厄の女神と、死ぬまで戦うという呪いがついている。それが、「危険な巨熊(イグナロ)」と会える率をぐんと上げるはずだ。呪いだけでもよかったかもしれないが、確実に会いたいので、メアリーがいることは俺にとって好都合だ。

 病室で巨熊(イグナロ)に会いに行くことを伝え、一緒に来て欲しいと頼むと、メアリーは初め、俺が巨熊(イグナロ)に会うことを嫌がった。

「勘違いしてないで。心配しているわけじゃないの。ただ、そんな不完全な身体で戦えるわけないのに……」

「すぐ行かなきゃだめだ」

「どうして?」

「猟師に殺される前に会いたいんだ。今会わないと、俺はこの先ずっと後悔するからだ」

 狩猟隊は夜も巨熊(イグナロ)をしとめようと動いている。こうしている間にも、巨熊(イグナロ)は殺されそうになっているのだ。一刻も無駄にできない。先を越されれば、俺はどうしても未練が残る。

 普段はあれだけ嫌だったメアリーに、俺は懇願した。メアリーは、ようやく俺の頼みを受諾した。条件つきで。

「私も行くわ。もちろん、コンが危なくなっても手出しはしない。私は、コンの最期を見たいだけだし、それに……一対一で決着つけないと、気が収まらないんでしょ? 私の能力とコンにかけた呪いを合わせれば、確実に会えるわ」

 俺たちは、夜になるのを待ってから、行動を始めた。俺は病室を抜けだし、メアリーとガルトン山の入り口で合流して、今に至る。

 メアリーが、能力を使った合図として指を鳴らしてから、どれぐらい経ったかわからない。たったの一分一秒が一時間に思えるほど、時間が長く感じる。

 俺は待った。巨熊(イグナロ)が現れるのを、じっと待った。

 枝が動く音がして、葉が騒ぐ。

 音の方を見やると、それは頭を引っこめて静かになる。

 何事もなかったように静寂が統べると、再び、同じ方から枝が折れる音がした。

 緊張が頭を引き締め、俺は気を抜いた身体に、無意識に力をこめる。

 のっそりと現れたのは、月の下でもわかるほど豪華な毛皮の、巨熊(イグナロ)だ。

「ビンゴ」

 巨体が広場の中へと、進み出る。

「……ふー、ふー……マタ、オまえカ」

「こないだは世話になったな」

 荒い息で身振るいをする巨熊(イグナロ)は、夜空に咆哮する。野生の獣の気迫が、俺を好戦的な気分にさせた。

「そうこなくちゃ、な」

 真正面にまっすぐ、俺は巨熊(イグナロ)に向かって走る。

 遅れながらも腰に力を入れて身構える巨熊(イグナロ)の、俺はその大きな股にスライディングでくぐり抜ける。

 それを追いかけようと、巨熊(イグナロ)は無理やり自分の股に頭を通し、体勢を崩してでんぐり返しを打つ。大の字になって地面に背をつけるのを見てから、俺はそのけむくじゃらの左腕に十字固めを決めて、関節を折る。

 獣の悲鳴が上がった。

 反射的に、巨熊(イグナロ)が俺の足をつかんだ。逃げ切れなかった俺は、ぐいっと敵に引き寄せられるが、頭突きを食らわせて怯んだところを逃げ、間合いをとる。

「お、オ、おレだ!」

 頭突きで強打した目の周りを抑え、巨熊(イグナロ)はのそのそ立ち上がる。

「オれは、マケなイ!」

「そうさ、そうだよな」

 俺と巨熊(イグナロ)は、殴って蹴って、突いて投げて、時にはタックルを決める攻防を繰り広げて、必死に戦う。

「俺たちは負けない。そうだろ?」

「お、おれハ、ダれにもまケナイ!」

 今度は巨熊(イグナロ)が俺に向かって走り出す。

 その巨体が近づく。距離が縮まると、俺はその顎を蹴り上げた。

 上を向く、敵の頭。

 ぐっと向きを俺に戻したかと思うと、張り手で俺を吹き飛ばし、まともに受けた俺は木に背中からぶち当たる。

 腹がじんわり熱くなる。こんな時に、傷口が開いたのだろうか。

 少しだけ鈍痛を堪えていると、巨熊(イグナロ)は俺にぐっと距離を埋め、健在な右手で殴りかかる。

木を背に、逃げられない俺は右へ左へ、腹や頭を、一方的に攻撃を受けた。

 悲鳴を上げる暇さえ与えない。

 連打に、連打で、連打を……止めることなく、巨熊(イグナロ)は残酷なほど続ける。



 コンが戦う姿を私は傍観していた。

 私は助ける気なんてない。最悪なことが起こったとしても、私は傍観を決めこむつもりだ。

 でも……私は、自分に嘘をつくなと言うのなら、どうしても考えてしまう。コンには、死んで欲しくない。

 人が武器を使い始めた頃から、私はこの人間界にいる。天帝からの指示で、私は災厄と戦を人間たちにふりまいて存在してきた。

 人間なんてあっけない。すぐ死ぬくせに、義理だ人情だ、武士道だ騎士道だなんてかっこつけて、そして犬死する。惨めで、儚くて、野蛮で、脆くて。今まで戦ってきた人間は、私が手を下す必要もないほど弱者だった。

 でも、コンは違う。

 卑怯な手を使わず、正々堂々と戦って、美しいほど強い。その強さは、どれだけ汚い手段を用いても崩せないほどの――――例えるのならば、彼は一枚の透明なガラスだ。何色の液体をかけても決して色に染まることなく、確固たる自分の

色(強さ)を持っているのが、コンという男なのだ。

 張り合いのない生活に、私は胸が躍ったのを覚えている。自分よりも強い人間がいることで、私は初めて人間という生き物に興味を持った。

 だから、私はコンに呪いをかけた。私は見てみたかった。神の呪いを受けてなおも生き抜く彼を。あっけなく散らずに、懸命に、自分の生を全うするコンという男を。何にも類を見ない、百獣の王として君臨する様を。

 私はコンに、首を得るためと銘を打って戦う姿を見ようとした。巨熊(イグナロ)に会わせるためにと言いながらも、本心はただ、必死に戦う彼を見たかっただけ。

 常に戦場を用意して、危険な目に遭わせておきながら、彼には生きて欲しいというのは完全な矛盾だ。わかってる。それでも見たいのだ。どんな敵をも凌駕する瞬間の、コン・ドラグードを。



「シんダか?」

 俺は、熱くて熱くてたまらない身体で、その台詞を聞いていた。

 幹を背に首をつかんで押し当てられ、首から下はろくに動けずぐったりとしていたが、それでも意識はあった。息切れが止まらない。足元に力が入らないので首に体重がかかって、苦しい。倦怠感が意識を丸のみにして、くらくら目眩がする。

「……な……」

「ナンだ……なんダ?」

「……げほっ……お前、名前は?」

 聞こえるように、俺は声の音量を上げた。それでようやく聞こえたらしい。

「ナまエ?」

「そう、だ」

「ナい。そんナモノは」

「……そうだよな」

ふっと、俺は口元を緩める。

「川遊びでも溺れるし、山に行けば、山で迷うし」

「なにがイイたイ?」

「なあ、リエル?」

 うっと、その時になって初めて、巨熊(イグナロ)は動揺したように頭を後ろにのけ反らせた。

「リエルなんだろ? 俺にはわかるよ」

「ちがウ!」

 ぐっと巨熊(イグナロ)の手に力がこもり、俺の首が圧迫されて血のめぐりが悪くなり、ぐらっと頭が痛くなる。

「おレハ、リエるデハない!」

「俺にはわかる。お前は」

じっと、怯えを隠す巨熊(イグナロ)の目を見据える。

「リエルだ‼」

「チガう! チがう、ちガウ!」

 喉を鳴らして否定し、取り乱し、巨熊(イグナロ)は俺の横腹に噛みついた!

 肉を裂き、肋骨の端の骨を折る。口が開いているのにもかかわらず、俺は、声すら絞り出せない。

「まケヲミとメロ!」

 巨熊(イグナロ)はそう言って、俺を乱暴に投げ捨てた。地面に叩きつけられて、俺は、力いっぱい精いっぱい息をして、意識を保つ。

「オレのかちダ!」

「……どうして、そんなに、はあ、勝ち負けにこだわるんだ!」

 息をして、息をして、大きく息をして――――俺は叫んだ。ちゃんと聞こえるように。ちゃんと聞いてて欲しいから。俺のことを、思い出して欲しいから。

「そうだよなっ? 俺たちは、負けたらだめだって師範に教わったよな? 意地ばっか張って、お互い負けず嫌いで、夜まで勝負して」

「シらなイ」

「俺が道場を遅刻した時、お前は俺を庇ってくれたよな? 優しいもんな、お前は」

「ちがウ」

「俺が風邪で熱出た時も、お前は見舞いにきてくれたよな? でも持ってきてくれた花は椿と菊だったな。不吉だって、みんなに笑われたよな?」

「イうな」

 巨熊(イグナロ)は……息が増して荒くなり、頭を抱える。

「ちガウ!」

それでもなお、乱れた声音ではっきりと言い張る。

「ダまレ! おれハ!」

「なあ!」

 俺は、言ってやった。思い出せるように。俺が誰だかわかるように。

「俺が……誰だかわかるか?」

 最後に、俺は質した。

 一人と一匹の息づかいだけが山に広がる。のそ、のそと巨熊(イグナロ)が動いた。月空を遮るように、巨体が俺をのぞきこむ。じっと、藍色の双眸に俺の顔が映る。

「……コン?」

 確かめるように、巨熊(イグナロ)は言った。

「……そうだ……」

「こン……コん」

 雨が降る。俺の頬に滴が垂れ落ちた。

 だが、雨ではなかった。

 巨熊(イグナロ)は……違う、リエルは、泣いていた。立派な毛皮の間から、涙を落していた。

 どうして泣いているのかは、俺にはわからない。俺は、届かないことを知りながら、ふらっと手を伸ばして彼の涙を拭おうとした。ただ、泣かないでと言いたくて。

 銃声。

 突然、悲鳴を上げるリエル。

 俺の顔に、生温かい液体が飛び散った。

 友の涙を拭うはずの手でそれを拭き、見れば、鮮血だった。

 銃声。

 悶え苦しみ、身体を前後に揺すって、とうとうリエルは近くに倒れる。

 アルージの喜ぶ声が、はっきりと耳に滑りこんだ。

 俺は、気づいた。俺には、災厄と戦の女神の呪いがかかっている。その呪いが今、友を失うという災いに変わったのだ。

 アルージの声が遠ざかり、足音が聞こえなくなると俺は痛みを我慢して起き上がり、身体を引きずって、リエルに近寄る。

「リエル……リエル、しっかり」

 こみ上げる思いが喉まできていたが、俺はそれを押し殺し、四つん這いになって動く。

 身体は苦しそうな悲鳴を上げつつ火照(ほて)っていて、動いてはいけないことはわかっていた。でも、寿命が縮んだっていい。俺は親友のそばに、身体に鞭を打って寄った。

 撃たれた傷口は、最悪なことに心臓のあたりだ。

 傷口に手を当てるが、どうにもならない。血があふれて、彼の命が流れ出すのを俺は止められなかった。

「リエル」

喉までこみ上げていた思いが、涙となって、頬を伝う。

「どうして、こんなことに……」

 代わってやりたかった。何が、拳のコンだ。例えどれだけ強くても、俺は親友を助けることさえできない。せめて、代わってやれればどれだけいいか。

「コン」

 リエルは、リエルの声で俺の名を呼ぶ。

「ごめんな、リエル」

涙が無意味に頬を流れる。拭うことを忘れ、俺は無力に友の名を呼んだ。

「俺……お前を、助けられないよ」

「コン、あのね」

リエルは、リエルの言葉で言う。もう巨熊(イグナロ)ではない。彼は自分を取り戻したのだ。

「僕、もう、玩具(おもちゃ)とられないぐらい、強くなったかな?」

「……なったさ」

 俺は毛皮に顔をうずめた。まだ温かい。ずっと、温かければいいのにと、俺はそう思った。

 風が吹く。肌を撫でる風が、俺たちを包む。

 俺はふと、顔を上げた。

 風が吹く。すると、血で汚れた獣の毛が風で飛ばされていき、本来の姿が現れる。そこにいたのは、俺たちの故郷の民族衣装を着た、肩まである黒い髪に、藍色の瞳をした青年。

「なあ、リエル」

 俺は、手を握ってやる。

「聞こえるか?」

 涙が、顎から垂れた。

「話したいことが、たくさんあるんだ」

 答えは返らない。

 リエルは安らかな顔をして、横たわっている。

 寝ているようで……でも、俺は起こしてやれなかった。

「聞いて欲しいんだ。俺、俺……」

 目の前が真っ暗になっていく。

 痛みが嘘のように感じなくなる。

 それが、俺の最後の記憶……



 僕は、いつも非力だった。

 いつもいつも、泣かされていたばかりで、仕返しすらできない。

 そんな時に僕を助けてくれたのは、コンだった。

 近所のがき大将たちに玩具(おもちゃ)をとられても、コンはいつも身体を張って助けて、取り返してくれた。

 テレビのヒーローみたいにかっこよくて、いつも勇ましく、僕の憧れはコンだった。

 コンに誘われて道場に通うと、僕はいじめられなくなった。

 来る日も、来る日も、来る日も……僕たちは技を競い合って、武道を突き進んだ。

 僕はコンみたいに強くなりたかった。強くて、誰にも泣かされない男らしい男になりたくて、師範の許しを得て旅に出た。

 いろんな人間と戦って、僕は勝ってきた。でもだめだ。僕はもっと強くなりたいんだ。僕は満たされない思いを抱えた。

 ある時、僕は山で休んでいると、大きな熊と出会った。熊は腹を空かしていたのか、僕に襲いかかってきた。

 戦ったけど、僕は熊に負けた。命からがらに逃げて、それでも負けたことが悔しくて同じ場所に戻ると、食糧だけ奪われて荷物だけが残っていた。

 次の日に、その山の川で魚を捕まえて焼いていると、またあの熊に会った。

 僕は負けたことを認めることができずに、好戦的な熊ともう一度手合わせをしたけど、また負けてしまったんだ。

 熊は、焼けた魚を持って行った。

 僕はその川辺に泊まって、また次の日も魚を焼いて、熊を待った。熊は味を覚えて、何度も川にやってきた。どうしても勝ちたくて、僕はそのたびに魚を焼いて、戦い、負けた。

 悔しくて、もどかして……でも、負けを認められない。

 思いつめた僕は、焼き魚を渡して背中を向けた熊に、大きな石を使って頭を打ちつけ、殺してしまった。

 残ったのは、卑怯で薄汚い手段を使ったことに対しての、嫌悪感だけ。

 それでも、僕は熊の強さを手に入れたくて、熊の皮を剥ぐとそれをまとって熊のように生活をした。そうすれば、この熊の強さを理解できると思って、強くなれると信じて。

 どのくらい時間が経ったのかはわからない。

 水を飲もうと川をのぞきこんで、僕は、毛皮が肌にはりついてけむくじゃらの身体になり、熊になったことを知った。

 僕は、熊になったんだ。

 僕は、自分がどれだけ強くなったのかが知りたくて、山道で旅人に勝負を挑むようにした。

 みんな、僕を見て逃げ出した。強くなった僕は、次々に人に勝負を挑んだ。

 そしてある時、君に出会ったよ。

 無我夢中に戦って、戦って。傷を負った君を見て、君の言葉を聞いて、僕は自分の愚かさに気づいたんだ。

 僕が初心に欲したのは爪でも牙でもないのに、こんな格好になって、それでも君は僕が誰でもあるのかがわかった。

 コン。

 ありがとうね。

 僕は、やり直してみせるよ。次は、君と肩を並べられるような男になって、君に会いに行くよ。

だから、待っててね。僕はまた、一から出直すから。



 誰かに話しかけられる、そんな夢を、俺は見た。

 あの晩、メアリーが俺を病院に運んでくれたおかげで、俺は重傷を負ったもののなんとか一命を取り留めた。

 不思議なことに、仕留めた巨熊(イグナロ)を回収しに来たアルージの話によると、撃ったはずの巨熊(イグナロ)は、血の跡を残して忽然と姿を消したという。

 俺は「ほかに青年がいなかったか」と訊ねたが、彼は首を横に振っただけだった。

 傷が回復すると、俺はメアリーを連れて町を出た。

 こつんと、女神は俺の頭を叩く。

「……んだよ?」

「元気じゃない。あれだけのことあったから、元気づけてやろうと思ったのに」

 相変わらず上から目線のメアリーに、俺は強気に笑いかえしてやった。

「気持ちで負けたら、そこまでなんだ」

 あの夢は、きっとリエルが見せたものだ。

 だとしたら。

 リエル、俺は待つよ。

 お前と会える日まで。

「だから俺は、気持ちでは負けない」

 また会おう――――

                                  完


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