第七話 名前忘れたんだけど
「張飛殿、言っても分からないかもしれないけど、ここで一番ありがちなパターンは『俺は劉備劉玄徳』という自己紹介だ。しかし、言わせてもらおう、俺はちゃんと自分の名前がある」
で? で? と言わんばかりに、彼女は催促の眼差しを送ってくる。
「俺の名はっ」
……。
えっ? ちょっとタンマ、俺の名前は何だっけ?
「だから、劉備だろ?」
その間のせいで、彼女はまたあの短絡的な思考回路で勝手に結論を出しやがった。彼女は両腕を胸元に組み、満足げに頷く。
「うん。『劉備』。いい名前だな」
「いやっ! 俺の名は……」
どういうことだ!?
焦れば焦るほど自分の名前が思い出せなくなった。名前以外の情報なら何でも覚えているのに、そこだけが誰かに切り取られたように全然記憶にない。
俺は劉備じゃないのに!? 大人しく劉備を演じろってのか!?
「劉備? 劉玄徳? どっちがいい??」
もう、いくら考えても、名前を思い出すことはできなかった。
「……もう、すきのように呼んでくれ」
俺はふてくされたように、あっさり自分の身分に関してのあがきを諦めた。少なくとも、何の手がかりもない今じゃこうするしかないんだ。
「うーん、じゃあ、玄徳だね。あたしのことも翼徳でいい」
張飛は八重歯を見せながら俺をどこかに引っ張ろうとする。
「行こう! 酒の飲めるところで、これからのドでかい事業のためにゆっくり話そう!」
あんな事業、俺には無理。
そう思うものの、彼女を止めなかった。
翼徳は嬉しそうに俺の袖を引っ張りながら酒場に入った。
今更気づいたが、彼女の後ろ髪は一部が束ねられている。歩く度に上下跳ねて、生物みたいに、ちょっと可愛らしかった。
ふと思った。
張飛の性別の問題はほっといて、もし俺が劉備になったら、この時代のもとの劉備はどうなる?
考えても無駄だから、すぐに諦めた。