前編
プロローグ
一体、どれくらいの月日が経っただろうか――
大河という少女が、走ることの楽しみを知った日から、
大切な親友が、同時に二人もできた日から、
三人が六人になった、あの日から、
そして、その六人が、ばらばらになった、あの敗北の日から――
ある一人は、隠れて泣いていた。
ある一人は、走ることを失った。
それでも……夢を、諦めきれなくて……
思い出を、失いたくなかったから……
――六人は、また一つになれた
「……見ててね、ウカちゃん」
高校生になった大河は、そう呟いてバスケットボールの試合のコートに立った。
ベンチからは、いつも笑顔の龍華で大河を支えてくれた龍華が、今日も声援を送ってくれる。
このコートは、大河たちがやっと手に入れた、五人と一人が、一緒に走れる場所だ。
だからこの時間を簡単に終わらせてはいけない。
敵がどんなに強くとも、絶対に夢をつかんで見せるんだ――
「さ、行くよ――皆」
そして、六人は、走り出す。
勝利に向かって、夢に向かって――
第一章 三人
桜野大河、七才は、本当に落ち着きのない子だった。
男みたいな名前の、髪が短い女の子。
ピカピカで、ピチピチの小学二年生。
足が速くて、徒競走ではいつも一番だった。
大河はとにかく、落ち着きがない。
小学校では男子と一緒に走り回って、先生に落ち着くように注意されている。
そして放課後もまた、家を出て外へ遊びに行く……
「カズエちゃん、あーそぼ!」
大河がこの日、遊び道具を持ってやって来たのは、お隣に住む三浦さん家の和江ちゃんのところ。『三浦』の標識の前に立った大河は、チャイムをおさずに、その自慢の元気な大声で和江に語り掛けた。
「カズエちゃん、あーそぼ!」
「…………」
――はぁ、また『遊びタイガー』がやってきた……
ドアの向こうでため息をついたのは、今まさに大河に呼び出された張本人であった。
三浦和江、七才は、大河と同い年の女の子。
クラスでは目立たない、良く言えばおとなしい感じの女の子。(悪く言うと、ちょっとだけ暗い。)
勉強が少し得意なのが密かな自慢。
大河とは正反対の印象の女の子だった。
そんな大河とは正反対な彼女は……小さく開けられたドアの隙間から、大河のことをじっと見つめる。
「タイガ、ちゃん……」
「あ、カズエちゃんだ。あーそぼ」
大河が声をかけると、ドアがびくっと震えた。
なぜか和江は、大河のことを警戒している様子である。
恐る恐るといった様子で、和江は言葉を返してきた。
「……タイガちゃんは、ガッコウで、みんなとあそんでたじゃん」
「なるほど! 確かに」
和江の言う通り、大河の周りにはたくさんの人がいた。
徒競走で一等賞を取れば、小学校では人気者だ。
だから大河の周りには、いつも多くの人がいた。だけど……
「でもカズエちゃんとはあそんでないもーん」
今の大河には、それはどうでもいいことであった。
「そんなこと言われても、わたしは知らないわよ」
和江は、ドアを少しだけ、閉じる方向に動かした。
「まあまあ、そう言わずにさ、一緒に遊ぼうよ!」
「……勉強があるから、それじゃ」
「あ、しめないでよー」
ドアが占められている、その寸前で大河は足を滑り込ませる。
それは、大河がこの間テレビで勉強したばかりの、必殺技であった。
「へへーん。ひっさつ、くつはさみだ!」
「ちょ、タイガ……ちゃん……」
「さあ、あそぼ。カズエちゃん」
「……うぅ」
ドアを閉めようにも、しめられない。
物理的に退路を断たれた和江は、ついに、あきらめた。
あきらめて、助けを求める。
「おかーさーん! たすけてぇ!」
家の奥にいる母を、和江は懸命に呼びかけた。
しかし……そこにいるはずの母は、決してその声には答えてくれなかった。
「おかあさーん、いるのになんで、きてくれないの?」
「おお、カズエちゃん、おかあさんいるんだ……」
もっともこの行動が――大河に対しては、一番効果的なセリフだった。
「カズエちゃん、やっぱりいいや。むりに来ないでも」
「……え?」
確かに、和江の言う通り、大河の周りには、いつも多くの人がいた。
だけど……そんな大河は、家に帰ったら、独りぼっちだった。
物心がついたころから、大河には父親がいなかった。母親は家を出て働いていて……だからそれは、仕方がないこと。
だけど、——カズエちゃんにはお母さんがいるから、お母さんと遊んだほうが楽しいよね。
「てっきり、和江ちゃんも一人なんじゃないかと、思っちゃったよ……じゃあね!」
大河はドアの間に滑り込ませた足を、ゆっくりと引いた。
それに伴ってドアがゆっくりと占められていく。
――さて、今日は一人で、どこへ行こうかな?
そんなことを考えて、振り返り、歩き出そうとした。
けれど、そのときだった。
大河の視界の中のドアが、閉まる寸前のところで、止まったのだ。
ドアは再び開かれて、今度こそ和江の顔が、全部現れた。
「……あ、あの……」
「どしたの? カズエちゃん?」
「やっぱり……行く」
「おお、そっか! よっしゃ!」
大河が去ろうとする寸前に、和江は気持ちを変えてくれたようだ。
ぎりぎりセーフ。だけど、これはいつも通りのこと。
嫌って言ってるくせに、最後は結局、和江は一緒についてきてくれる。
――でも、だったらなんで最初は嫌っていうだろうな?
大河にはよくわからなかった。だけど、なんだかんだいつも一緒に遊んでくれる和江のことが、大河は大好きだったのだ。
家を出た、すぐ近所にある公園のベンチに座った大河たち。
「……何して遊ぶのよ? タイガちゃん」
「ああ、そうだった……」
そう言われれば、何も考えてなかった大河であった。
「とりあえず、はしろうか?」
「……またそれ?」
保育園のころから、(正確に言うとお母さんのお腹の中にいたころから)、大河はエネルギーにあふれていた。
物心がついたころから、大河は、走るのが楽しくて仕方がなかった。
だけどどうやら、皆が皆、走るのが好きなわけではないみたいである。
和江はふと、大河の膝の上に置かれた『遊び道具』に視線を落とした。
「ところで、なによその茶色いボールは……」
それは大河が、たまたま今日の遊び道具として、持ってきたものである。
大河が去年の夏に食べた、スイカよりも少しだけ大きなそのボール。
茶色い。
そしてなんだか、温かい――その茶色い表面は、なぜか手によくなじむ感じがした。
「これは……わかんない! なんだろうね?」
「……はぁ」
去年の誕生日にもらったのだが、大河はこのボールが何なのか、よく知らなかった。
ただ、たまたま押入れの中にあったのが目について、それを持ってきたものだ。
どうやら、和江もそのボールの正体を知らない様子だった。
「カズエちゃんもよく知らないか……いったいなんなんだろうね、これ……」
「……もしかして、サッカーボール、とか? 色が違うけど」
「うーん……」
ふと、会話が止まったそのタイミングで、——
「ううん、違うよー。それはねー」
大河の元気な声と、和江の落ち着いた声の間に、また一つ、声が割り込んできた。
その声はとてもゆったりとしていて、だけど真っすぐに、大河たちの耳に届いてきたのだ。
「……だ、誰だ!?」
振り返り、声の主の顔を見る。
そこにいたのは、——
まん丸お目目の、とっても可愛らしい女の子だった。
大河や和江と比べたら、ほんの少しだけ背が短い。だけどその代わりに、後ろに伸びる髪は二人よりもずっと長く、春の風を受けて、気持ちよく流れていた。
まるで春の風、そのもののような、そんな穏やかな声が、女の子の口から発せられる。
「それはねー。バスケットボールっていうんだよー」
「ばすけっと……ぼーる?」
それは大河にとっては、まったく聞き覚えことがない単語だった。……最もそれは、今の大河にとっては、半ばどうでもいいことでもあった。
「そ、それよりさ、ここらへんで見ない子だね!」
「この間、転校してきたのでー。よろしくねー」
「おお、転校生ちゃん……」
ここで、今まで驚いたまま黙っていた和江が、恐る恐る声を上げる。
「もしかして……『ワタリさん家の、リュウカちゃん』さん、ですか?」
「なんでしってるのー?」
「お、お母さんが、お友達が引っ越してくるって言ってたから……」
「わー、ものしりさんだー!」
キラキラした眼が、今度は和江の方に向けられる。そんな明るい視線を向けられて、和江は思わず小さくなってしまう。
そして、なぜか得意げなのは、大河だった。
「すごいでしょー、私はタイガ! そっちにいるのものしりさんは、カズエちゃんだよ! ほらカズエちゃんも挨拶して!」
「……よ、よろしく」
「わたしは、カズエちゃんの言う通り、ワタリさん家のリュウカです。よろしくねー」
やった、——また近所に新しい友達ができたよ。
単純な大河は、その事実だけで、とても嬉しかった。
「ねえ、タイガちゃんー、そのボール、かーして!」
「うん! もちろんいいよ!」
大河は、龍華の方へ、ボールを放った。
そのボールは……大きくそれて、龍華の足元に当たってしまう。
「おお、ご、ごめん!」
「うんー、大丈夫だよー」
隣で、和江がぼそりとつぶやく。
「……へたっぴ」
「あ、いまカズエちゃん、ひどいこといったでしょ」
「……言ってない!」
「言ったよ! もう、ひどいなー」
普段はおとなしいのに、和江は時々大河に対しては厳しいときがある。
それは大河に親しみを持ち始めたからだったのだが……大河にはよくわかってなかった。
「ねー、みててー」
龍華に声をかけられて、慌てて大河はそちらを向いた。
「あ、うん! 見てるよリュウカちゃん」
「体育の授業でやったから、ちょっとはできるんだよー」
龍華は手に持ったボールを、下に打ち出した。するとそのボールは地面に跳ねて、再び龍華の手元に戻ってくる。
龍華はその跳ねてきたボールを、再び地面に向けてはじき返した。
そのボールは地面に当たり、また跳ねる。龍華は、はじく。
そうやって茶色いボールが、何度も何度も往復した。
「……おお!」
これはバスケットボールの初歩の初歩である、ドリブルという技だった。
その単純な『ドリブル』という技に、大河は魅せられた。
「す、……す、すごいよリュウカちゃん!」
「えへへー」
「わ、私もやりたい! 次、やらせて!」
「うんー、もちろんー」
龍華はドリブルを中断すると、大河の方へ優しくボールを放った。
少し『お手玉』しつつ、何とかボールを受け取った大河は、さっそく龍華のようにボールを地面に打ち出したのだが……
「あ、あれ?」
大河が打ち出したボールは、地面へ強く打ち付けられ、そのまま大河の手の届かないところへ飛んで行ってしまう。
たまたまそちらにいた和江が、ボールをキャッチした。
「お、ナイスキャッチ、カズエちゃん!」
「…………」
和江は受け取った姿勢のまま、固まってしまった。
「……どうしたの? カズエちゃん」
「あ、あの……」
「そうだ、カズエちゃんも、やってみなよ」
「う、うん!」
和江は、一瞬とても嬉しそうな顔をしたけれど、またすぐに表情を戻した。
「……い、いや、タイガちゃんがそこまでいうなら、一回だけよ」
不思議だな、と思いつつ、大河は和江のことを見守った。
さて、和江の手から放たれたボールは……再び和江の手に戻ってきた。
そのボールを再び地面に打ち出して、打ち出したボールはまた戻ってくる。
見事、ドリブルが成立した。
大河と龍華の二人は、和江に対して称賛の拍手を送る。
「おお、カズエちゃんもうまーい!」
「わー、初めてなのに、うまいよー」
「別に……たまたま、よ」
「うん、よっしゃ、私も二人には負けないよ」
「おー、タイガちゃんも頑張れー」
これは、負けてられないな。
大河は気合を入れ、心の中で頬を二度叩いた。
それから二時間後、
「ごめんなさい……うぅ……ぐすぅ」
大粒の涙を流しながら謝罪の言葉を口にしていたのは、和江だった。
大河と龍華が、和江の肩を叩いて、和江のことを元気づけようとする。
「カズエちゃん、泣くなって! 泣いてたら、かわいいお顔が、だいなしだよ」
「うんー、お願いだから、泣き止んで―」
「でも……タイガちゃんが怒られちゃうよ……」
三人の近くに、先ほどまで遊んでいたバスケットボールはなかった。
少し前、ちょうど和江かドリブルをしているときに、一匹の子猫が現れた。
それに驚いた和江が思わずボールをはじいてしまった結果、はじかれたそのボールは、公園の脇の通路に入ると、そのままコロコロと転がって行ってしまったのだった。
大河が慌てて走りだしたときは既に遅く、もう見える場所にボールはなかった。
モノは、なくしちゃいけません――学校でそう習ったことがある。
このままだと、大河は母親に怒られてしまうかもしれない。
「いや、大丈夫だよ!」
怒られたくない、というのも、もちろんあったが、大河はそれ以上に、和江に泣き止んでほしかった。
「私とリュウカちゃんが探すから、だからカズエちゃんも一緒に探そう!」
「うんー、さがそー」
大河も龍華も、ただ和江に泣き止んでほしい、一心だった。
その必死な思いが伝わったのか、和江は再び、少しだけ元気を取り戻してくれた。
これで、ボールが見つかれば元通りだ。そう思い、大河は再び意気込むのだが、
「でも、どこから探そうか……」
「……うぅ」
「私は、まだ転校してきたばかりでわからないのでー」
正直、ボールがどこへ行ったのか、まったく検討がつかなかった。
このあたりは住宅街で細かい道が続くから、車に当たったりとかする心配はなさそうだが、道が複雑に分かれていて、どこへ行けばいいのかわからない。
「……あの、もしかして……」
ここで、少しだけ元気を取り戻した和江が、控えめな声で発言をした。
「おなじボールをころがせば、どこに、おちるかわかるんじゃないかしら……」
「……おお!」
と叫びながらも、大河には和江の言っていることがよくわからない。
少し考えて、大河は和江の言葉を、大河なりに解釈した。
「そうだ、ボールの気持ちになるってことだね!」
「いや……まあ、そうね」
「だったら、ちょっと待ってて!」
そう言って大河は、ダッシュで一度家に戻った。
そして五分後、再び和江たちのもとへと帰ってくる。
「どう! ちょうどいい大きさでしょ!」
その大河の右手に持たれていたのは、一個のヤカンだった。
「おー! すごーい」
「……うーん」
龍華は喜んでくれたが、和江の反応はあまりよくなかった。
「だってこれ、もっと、おこられちゃうんじゃ……」
「でもカズエちゃん、ボールなくしままなら、おこられちゃうじゃん!」
「そ、そうだけど……」
「あと、ちゃんと、茶色く色を付けないとだよね」
そして大河は、左手に隠していた秘密兵器を披露した。
「これって、まさか……」
「じゃーん、クレヨンだ!」
せっかくなら形や大きさだけではなく、色もそろえた方がいいはずだ。
ちょうど図工の授業で、クレヨンでのお絵かきを習ったばかりの大河は、ひらめいてしまったのだった。
白い画用紙に色を塗っていくように、このやかんに、色を塗ってしまえばいい。
「さ、ぬろう! 二人とも手伝って!」
「わーい」
大河が黄色を塗り始めると、龍華は黒のクレヨンで大河に続いた。
「あの……」
「たのしーねー、タイガちゃん」
「うん! わたし、体育と図工がとってもたのしいんだ!」
「わたしもだよー」
心配する和江をよそに、大河と龍華は色塗りの作業を進めていった。
やがて和江も、
「……わたしも、やる!」
大河や龍華に続いて、茶色いクレヨンで塗り始めてしまう。
唯一冷静な判断をできるはずの和江まで塗り始めて、もはや誰も止める人はいなかった。
それから30分くらいかけて、ようやくその作品が完成した。
勉強全般が得意なのが自慢の和江が、ディテールにまでこだわったため、見事な作品ができた。ただ茶色いだけではなく、本物のバスケットボールのような黒い曲線に、なぜか星型までついている。
これが小学二年生の図工の作品として出されたら、思わず満点をつけたくなってしまいような渾身の作品だったが、これはもともと違う目的のために作られたものだ。
「さ、転がそう! 準備はいいかな?」
「はーい!」
「ああ……もったいない」
ちょっとだけ名残惜しそうな和江をよそに、大河と龍華はやかんをもち、先ほどボールが転がっていった通路へとやってきた。
気分はさながら、作った草舟を川に流すときのよう。3、2、1の合図で、大河たちのやかん号はスタートを切る。
角がとがっていたおかげで、やかんは歩いて追いつけるくらいのちょうどいいスピードで転がっていった。
それに並んでついていく大河たち……
大河たちの期待を受けて、やかんはコロコロコロコロ、道を右へ行ったり左へ行ったりしながらも、着実に進んでいく。
やがて、たどり着いたのは――
「おお! ここは……」
「わぁ、こんな場所もあるんだー!」
「……川、ね」
通路を進んでいった先に、少し大きめの道路を挟んで、一本の川があった。
やかんが道に入ってしまうぎりぎりのところで、大河はやかんを拾い上げる。
「……まさか、川に落ちちゃったのかな?」
「そうかも……」
ここで和江の表情が、また少し暗くなってしまう。
そんな和江の肩を、大河は再び叩いた。
「もしかしたら、引っかかってるかも! ちょっと降りて探してみようよ」
「……うん」
それから川の近くまで降りて行って三人で探したが、茶色いボールは見つからなかった。
本当に川に流されたのかもしれないし、もしかしたらそもそもこのあたりまでボールが転がってきていなかったのかもしれない。
段々と、期待も薄くなっていく。
「もう暗くなっちゃたし……帰ろうか?」
とうとうあきらめること考え始めた大河は、近くにいた和江に話しかけた。これ以上、探しても無駄だろうし、暗くなると危ないだろう。
それでも……和江は首を横に振った。
「だってあれは、タイガちゃんの……」
「あはは、大丈夫、お母さんには私が怒られるよ。それに……」
――どうせ今日も、まだお母さんは帰ってないだろうし
そんなことを、大河は心の中でつぶやいた。そもそも怒る人が、家にはいないのだ。
あのボールは確かプレゼントで母親からもらったものだけど、どうせ言わなければ、ボールがなくなったことくらい、気づかないだろうし……
「あ、あったよー! タイガちゃん、カズエちゃん!」
川上から聞こえてきた、おっとりとしているけれどよく通る声に、大河と和江は振り返る。
「ほら、あっちだよー」
龍華は、川の対岸を指さしてこちらに声をかけてきていた。
その指さす先に、視線を送ると確かに、そこには茶色いボールがあった。
しかし対岸には、土手のような場所がない。ボールは半分だけ水に浸かった状態で、たまたま水草が生えているところに引っかかっていた。
「あれー?」
大河はとりあえず、右手で握っていたボール(やかん)と、対岸にある本物のボールとを見比べてみた。
「あはは、やっぱりちょっと違ったか」
「ほんとだねー」
作ったときには結構よくできたと思ったけれど、やはり想像だけで作ったからか、だいぶ違うものになってしまっていた。
「そ、そうじゃなくて!」
のんきに見比べていた大河と龍華だったが、和江にたしなめられてしまう。
「ボール取らなきゃ……でも、あの位置じゃ届かないわよね……」
「……うーん。そうだね」
確かに和江の言う通りだ。ボールが見つかったとはいえ、状況は変わらず絶望的だった。
しかしここでも、希望をもたらしてくれたのは、龍華の声だった。
「一人なら届かないけど……三人で協力すれば、何とかなるかもよー!」
「三人で……協力?」
「うん、あのねー」
龍華を中心に輪に作った、大河と和江は龍華の作戦に耳を傾けた。
「おお。なるほど、その作戦なら」
「確かに、いけるかもしれない……わね」
「うん、がんばろー!」
こうして三人は、力を合わせてボールを救出することを決めたのだった。
作戦は、こうだ。
まずは和江が、対岸の道路にまで渡る。
その位置からボールに直接手が届くわけではないが、それでもボールの真上の位置まで行ける。
そこから和江が石を落として、上手くボールを水草の一帯の外へと出す。
川を少し下った位置に、大河と龍華が構えている。そこまでボールが来たところで、大河が手を伸ばして何とかボールをキャッチする作戦だ。
大河は龍華と共に、川下で待っていた。
川上の方では、和江が準備をしていた。おそらく、ちょうどいい大きさの石を探しているのだろう。
この配置には、ちょっとだけ納得がいかない大河であった。
「いいなぁ、あっちの方が楽しそうだよ」
「タイガちゃんは、こういうの苦手そうなので―」
「……むぅ」
否定はできなかった。確かに大河は、手先を使った器用な作業は苦手である。先ほども結局、大河だけがうまくドリブルをできなかった。
走ることなら誰にも、男の子にだって負けないのに――
その事実と自信が、小学二年生の大河をちょっとだけワガママな子に成長させていた。
だから、大河には納得がいかないのだ。
「でもでも、タイガちゃんがさいごにボールをキャッチするから、シュヤクだよー」
「シュヤク? ……そっか、ありがとうリュウカちゃん!」
「いいえー」
龍華の一言で、大河の気持ちは180度逆を向いた。
大河はワガママだけれど、それ以上に単純なのだった。
そして、いよいよ作戦決行の時が来た。
手ごろな石を何個か見つけた和江が、大河たちの方へサインを送って来た。
大河が手を振って返すと、和江は下にあるボールの方を向いた。
数回ほど真剣な表情で素振りをしたのち、和江は手に持った石を投げた。
軽い投擲だったが、その石はボールの中央付近にあたると、勢いを受けたボールは引っ掛かりを抜けて動き出す。見事、ボールが川を流れ始め、大河たちの方向へやってきた。
問題が、一つある。
それは、もしボールが大河の手には届かない位置に流れてきた場合、どうしようもないということだ。
だからこそ大河も、龍華も、和江も、祈るような視線をボールに送り続けた。
そして、——
「……来た! 龍華ちゃん、行くよ」
「うん! まかせてー」
ボールが順調にこちらに流れて来たのを確認すると、大河は川の土手から体を乗り出して、ボールの方へ手を伸ばした。
重力に負けて川へ落ちそうになる体は、龍華が、後ろからしっかりと支えてくれている。
龍華は、まだ出会って一日も経ってない女の子だ。
それでも、ずっと笑顔でここまでついてくれた彼女のことを、大河は信じていた。
龍華はもうとっくに、――大河の友達だったのだ。
「た、タイガちゃん、もう……」
「あと、ちょっと……」
もうかなりギリギリまで、手を伸ばしていた。大河の手がボールに届くまで、あと数センチ。
その数センチ分だけ、大河は前に進み……
「届いた!」
と、同時に、
大河は川の中へと落ちた。
「リュウカちゃん!」
これはまずいと、大河は直感した。
大河は泳げるからまだ大丈夫だ。でも、大河だけじゃない。
大河が落ちるとともに、体重を預けていた龍華も落ちてしまった感覚があった。
「リュウカちゃん、捕まって!」
「た、タイガちゃん……」
大河は龍華の方に手を伸ばして、懸命に龍華の手を握りしめた。
そこから足をばたつかせるが……やはり一人で泳ぐときのようには、バランスが取れなかった。体勢を戻そうとすればするほど、空が遠くなっていった。
空気と水が、交互に肺の中に入ってくる。
このままでは、死ぬ――
そのとき、大河の頭を、小さな手がつかみ上げた。
「……はぁ、はぁ、たく。何溺れてるのよ……」
「……あれ? 生きてる?」
大河の頭をつかんでいるのは、対岸にいたはずの和江だった。
「和江ちゃん、なんでそんなに背が高いの?」
「いや、だってこの川浅いし……」
「……おお!」
「タイガちゃんはそもそも、知ってるでしょ……」
「あ……それよりボールは?」
「はぁ……自分の手の中を見てみなさいよ」
和江に言われて、大河は確認する。
大河は、龍華に伸ばしたのと逆の手で……茶色いボールをつかんでいた。
さっきみんなで作った、偽物のボールじゃない。大河たちがここまで追い求めた本物のボールだ。
「わぁ……よかった、よかったねカズエちゃん!」
「なんで私に言うの……」
そして龍華も、笑顔で和江に声をかけた。
「助けてくれてありがとー。でも、すごいねー。カズエちゃん。足も速いんだー」
「……それはまあ、いつもタイガに、走らされてるから」
強がりながらも、本当のところ和江は、今にも泣きだしそうだった。
和江にとっては――実際に助けられたのは、自分の方だ。だってボールをなくしたのは、和江だったから。もしボールがこのまま見つからなかったら、きっと和江は、自責の念を抱え続けただろう。
だから大河と龍華には、本当に感謝している。
だけど……それとは別に、もし自分がいなければ大河と龍華が、大変なことになっていた、かもしれない。それは、和江自身が大河たちを大切に思う気持ちを確認するとともに、一つの新たな決意を、和江の胸に刻む。
「やっぱり……特にタイガは私がいないと駄目みたいね」
その変化にいち早く気づいたのは、龍華だった。
「あれー? なんだか呼び方が変わっているようなー」
「べ、別にいいでしょ! リ、リュ……」
「りゅ?」
ほんの少しだけためらったあと、和江はその名前を口にした。
「リュウカ! ……それとタイガ! 遅くなったから、早く帰るよ」
そんな和江の姿を見て、大河もまた、首を傾げた。
「お、おお。やっぱりカズエちゃん、なんだかちょっと変わったような?」
「いいから、さっさと帰る!」
簡単に言うと――和江はその日をきっかけに、ちょっとだけ偉そうになった。
その和江を先頭にして、三人は自分たちの家へと帰っていった。
大河たちの家まで、あと少しのところで、三人の女性が並んで立っていた。
そこにいたうちの一人は、和江のお母さん。
「ま、ママ……」
「あ……私の、ママもいるー」
その隣にいるのは、龍華のお母さんだろうか。大河はまだ面識がない人物だ。
そして、三人のうちの最後の一人は――
大河にとっては、絶対ここにはいないはずの人だった。
「なんで、私のお母さんもいるの?」
「それは……あんたが帰って来ないって聞いたから……それにあんた、そんなにびしょびしょにして……」
大河の母親だから、やっぱり一番動くのは早かった。
――あ、ぶたれる
大河は、そう確信した。
「ごめん……ごめんね、大河……ごめん、一人にして」
けれど、——大河の予想はよく外れる。
ぶたれる代わりに、大河は大きな手の中に抱きしめられていた。大河の母親は、やはり大河の母親だったのだ。
そんな母親の姿を見て、大河は、反省した。一生懸命働いていたお母さんを、自分が心配かけてしまったせいで、邪魔をしてしまったのだ。
「ごめんねお母さん。でも、私は……」
―― 一人でも、大丈夫だから
そう、宣言してしまう、直前だった。
大河の視界の中で、龍華が手を挙げているのが見えた。
それはまるで、学校の授業中に何か発言しようとする生徒みたいだった。
「タイガちゃんは、一人じゃないと思いますー」
そこにいる皆に、そして大河に聞こえるしっかりとした声で、龍華は言い切った。
大河には、龍華の言っていること場の意味がわからなかった。
だって大河は間違いなく一人だったと、そして一人でも平気なくらい強くなったと、母に言おうとするのに、なぜ龍華が否定するのかと、そう思った。
それでも龍華は、止まらなかった。
「私知ってるよー、二人がとっても、なかよしだってー。だからタイガちゃんは、一人ではないと思うんですー」
――あ、
和江もまた、龍華に続いた。
「そう、です……だってタイガちゃん……タイガは一人だと何をするかわからないから。だから、私が一緒にいてあげるんです」
――そうだよ
大河は今まで、自分が強くなったのだと思ってた。
小学校に入って足が速くなって、そのおかげで友達が増えたのだと思っていた。
でもそれは、全然違うことで……実際には学校の友達、そして和江の優しさがあったからこそ、大河は一人じゃなかったのだ。
そして――、龍華は、少しだけ恥ずかしそうに、大河と和江に視線を送った。
「私今日、とってもうらやましいって思ったよー。だから……もしよかったら、私も入れてほしいなー」
龍華がそう言ってくれて、大河はとても嬉しかった。
足が速くて元気なだけで――それ以外は何もない大河に、龍華もまた、友達になりたいと言ってくれたんだ。
その優しさに対して、大河は返せるものなんて持ってなかった。
だから、唯一の自分の取り柄である、『元気さ』で返す。
「うん、もちろんだよ! 私たち三人は友達……ううん、とっくに友達だからさ。だから、これからは親友なんだよ!」
加えて、先ほど和江がやったのと同じやり方で、大河はその『変化』を表現する。
「ウカちゃん! カズちゃん! これからよろしくね!」
「うん! よろしくねー」
「カズちゃんって……なんかダサいんだけど」
その瞬間を境に、三人は親友になった――
そして、それが母の懺悔に対する、大河の――大河たちの答えだった。
「さ、帰ろうよお母さん。お母さんも濡れたから、風邪ひいちゃうよ。若くないんだから」
「……もう」
今日はもう遅い時間だ。
明日もまた三人で遊ぶんだから、今日はしっかりと休まないといけないよね。
「大河……でも、あとでしっかり叱るからね!」
「……えぇ!」
その後、大河は帰りが遅くなったこと、川に飛び込むという危険な真似をしたこと、
そして何より、和江と龍華まで危険なことに巻き込んだことを、みっちりしっかりと、母に怒られた。
でもその後の――普段より少しだけ長く母と時間を過ごせたことは、やっぱりちょっとだけ嬉しかった。
そんなことはやっぱり、口にはできなかったけれど。
第二章 敗北
それから、一年が経った。
夕日のさす公園で、三人の少女が、今日も元気に走り回っている。
「カズちゃん、ウカちゃん、おそい―っ」
「……タイガ、あんたが、はやすぎんのよ」
「まってよー、ふたりとも―」
三人の中で一番足が速い少女が、大河だった。
大河は走るのが楽しくてたまらなかった。
運動会の徒競走ではいつも一位。体育の授業では率先して走り回る。放課後には毎日走っていて、たまに小学校に遅刻しそうになって、走ったりもする。そんな少女だった。
そして今日もまた、走っている。
気が合う二人を、巻き込みながら。
大河の少し後ろにいるのが、勉強が得意なのが自慢の和江で。
さらにそのすこし後を追いかけているのは、いつも笑顔の龍華だ。
わがままな大河を先頭にして、三人は毎日、いろいろな場所を走り回っていた。
そんな走ってばかりの毎日を変えたのは、龍華が笑顔で発した、ある一言だった。
「タイガちゃん、足はやいから、スポーツはじめた方がいいかも?」
「おお、私がスポーツ!?」
その日は公園を走り回る代わりに、大河に向いているスポーツを相談する会になった。
「タイガちゃんが、一番走れるスポーツがいいよね?」
「たしかに……それでハッサンしきってくれないと、私たちがつかれるから」
この和江の発言に対して、いつもの大河なら『もうカズちゃん、ひどいよぉ』とか言うのだが、今日の大河は何も言わなかった。
スポーツを始めることに、興味津々だったからだ。
「やっぱり小学生だと陸上のスポーツはないねー」
「うーん、だったらやっぱり、これじゃないかしら? 調べたんだけど、これが、スポーツの中で一番はげしいスポーツらしいし」
和江はそう言って、龍華が家から持ってきたスポーツ雑誌の一ページを開いた。
「バスケ……」
そのページには、バスケットボールをプレイしているシーンの写真が載せられている。特に大河の目を惹きつけたのは、写真の中央でドリブルをしながら指示を送っている選手……の、少し後ろで走っている選手だった。
写真は複数あった。その中心にいるのはいつも、指示を送っているリーダーっぽいお姉さんだったけれど、中には大河の目を引いた選手が、パスを受け取ってシュートを決めているシーンもあった。
そのころには既に、大河は、龍華と出会った日のことなどは忘れていた。
それは、大河がただ薄情な人間だからではなく、毎日が楽しすぎたおかげで、記憶がどんどん上書きされていったからである。あの日、必死に川から救出したボールは、今はもう押入れの奥の方にしまわれてしまっている……
だけど、大河は思ったのだ。
――この綺麗なコートの上を、雑誌の中の選手のように走ってみたいな
「バスケか……うん、バスケ、いいよ! カズちゃんも、ウカちゃんもやるよね?」
「なんで私たちも……」
「うん、やりたいー」
「あ、ちょっとリュウカまで!」
「よっしゃ、今からお母さんに言ってくる! カズちゃんとウカちゃんのお母さんにも、私が言ってあげるよ」
「うん、ありがとー」
「もう……勝手にやって」
こんなに楽しいことはないと、大河は思った。
毎日走り回るのも楽しいけれど、スポーツでなら、三人で同じ目標をもって頑張れる。
だから、きっとこれからもっと楽しい日々が続くと、大河は確信した。
けれど――タイガの予想は、昔からよく外れる……
それからさらに数年が立って……実際にコートの上で走っていたのは、三人の幼馴染のうちの、二人だけだった。
和江と龍華の、二人だけ……
六年生の最後の大会のコートでも、和江と龍華は輝いていた。
大河はその二人を、ベンチで応援していた。
(カズちゃんもウカちゃんも、バスケが上手くて羨ましいな)
バスケが上手くないと、コートに立てない。そんな簡単なことを大河は忘れていた。おそらく和江と龍華も、忘れていた。だから今、一番走りたかった人が、走れないという状況になってしまっている。
ミニバス特有の一〇人ルールのおかげで、大河も一クウォーターだけは出ることができるが、それ以外の時間、大河は基本的にベンチ要員だ。
計算違いだったのは、大河は足が速いけれどそれほどバスケが上手くなかったことと、もう一つ、——和江も龍華も、非凡な才能を持っていたことだ。
結局その試合も、二人の活躍のおかげで勝利をおさめた。
そしてそれは、ミニバスの全国大会の、準決勝の試合だった――
(いけない、皆がコートから帰ってくるよ)
大河は心の中で、頬を二度叩いた。そしていつもの、自称『百点満点、ただしウカちゃんには敵わない』笑顔で皆を出迎える。
「よっしゃ、ここまで来れたんだから、この皆で全国一位を取るよ! 何年かかっても、絶対に!」
「……意味わかりません。私達が小学生なの、今年最後なのですが?」
「ふふ、この中で一番下手なのに、僕たちの中では、大河が一番強気だね」
「大河は、応援要員だし!」
輪の対面にいた三人から、遠慮のない言葉が浴びせられた。
彼女たちは、バスケを初めて新しくできた友達だ。背が高くて礼儀正しい希林に、兄が二人いるおかげか女の子なのにカッコいい景。そしてお団子頭の小さな自信家、小豆の三人である。
「あひゃひゃ、手厳しい……」
だけどこの遠慮のない言葉は、新たな三人の仲間とも打ち解けられた証。
そして、幼なじみの二人もまた、大河に声を掛けてくる。
「大丈夫! 明日の試合で大河ちゃんの分も、私が頑張るから!」
「……ま、大船に乗ったつもりで見てていいわよ」
二人とも昔と変わらず、優しかった。優しくて涙が出そうだ。それをごまかすように、大河は再び声を張った。
「よっしゃ、明日は気張れよ、皆! 私はベンチで応援してる!」
……だけど結局、五人と一人の努力は、決勝のコートにおいて報われることはなかった。
一番になるとはすなわち、たくさんの努力する人がいる中で、頂点に立つことだ。それは本来、奇跡的な出来事のはず。だからほとんど努力は、報われないのだ。
それなのに人は、人々は、自分の努力を報われなかったことを悲しむ。
三人はコートに立ったまま、動けずにいた。
「すいません。私がもっと、ちゃんとしていればよかったんです」
「いや、勝負は時の運……誰のせいでもないさ」
「なんでケイは……そんなに冷静なのよぉ……」
そして二人は、ベンチにいた幼なじみの元へ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「うぅ、み、皆で、勝ちたかったのにぃ……」
「もう、泣かないでよ龍華、私だって……悔しいんだから」
一人は、コートで健闘した幼馴染二人の肩を優しく叩いた。
「そうだね、悔しいね……」
だけど、大河が悔しいって言うのは、きっと、負けたのが悔しいというだけじゃない。コートに立てなかったことが悔しくて、負けたことを心から悔しく思えないのが、悔しい。
もっとも、そんなことを口に出せるはずもなかった……
その後、大河は皆にばれないように一人だけ裏で、皆とは違う涙を流していた。
そして―― その涙の分だけ離れた心の距離を埋めることができず、中学校に入学するのを境に、三人の心は、ばらばらになったのだった。
第三章 挫折
それから、三年の月日が経った。中学生になってそれぞれ違った道を進みだした三人は、ほんの少しだけ成長していた。
大河は結局、走ることを選んだ。
「目標、一五分以内にゴールすること……」
陸上部に入って、本格的に鍛え始めた大河は、昔からの夢を叶えて、毎日走りまわっている。
ある朝は校庭の外周を、放課後にはグラウンドを――、
そして今日みたいな休みの日には、町内を――、
大河は一年中休むことなく走り続けた。
「スタートまであと、五、四、三……よっしゃ」
分針がちょうど八を指すタイミングで、大河はスタートを切った。みるみる加速した大河は、五秒以内にはベストスピードにたどり着く。
角を曲がったところで、近所のおばさんに出くわした。
「おはようございます!」
「おはよう大河ちゃん、今日も速――」
「すいませんまた今度で!」
挨拶をしながら、それでもスピードを緩めない。
並木道の下を抜け、せせらぐ川のスピードを追い越して、また人とすれ違う。
昔から暮らしている町の自然と、人々の優しさを感じながら、大河はゴールを目指した。
「……ふぅ、ゴール!」
ゴール地点と決めている、排水溝の上を駆け抜けた大河は、手に付けた腕時計を見る。
大河が見た時には、分針は十一を指すところだった。スタート地点で八だったので、経過した時間は五×文字盤三つ分で、一五分。
「よっしゃ、目標クリア!」
大河は人目をはばからずに、大きくポーズをする。喜びをかみしめながら、同時に何かを忘れていることに気付く。
「……いけない、待ち合わせの時間だ!」
そう、大河はその休みの日、待ち合わせをしていたのだった。
集合時間は九時ちょうど、今時針の短針は九の少し前まで来ているので、あと五分しかないことになる。
制服に着替えた大河は――、ゴールしたばかりだけど、再び走りだしたのだった。
大河が待ち合わせ場所に着いたのは九時ちょうど――、になってから五分が立った時刻だった。昔は毎日通っていた大きな公園のベンチで、メガネをかけた少女が一人待っている。
「カズちゃん、お待たせ!」
そのメガネの幼馴染、和江に向かって、大河は元気に声をかけた。
和江は中学入学と同時にメガネをかけ始めた。初めは大河には違和感だらけに思えたメガネも、今では結構さまになって見える。「おはよう」と挨拶をしながら、大河は和江の元へ駆け寄ろうとしたのだが……その和江に、手で静止されてしまった。
「今話しかけないで! 覚えてた単語が消えてくから!」
「え……う、うん」
近くでよく見てみれば、和江の手元では、凄まじいスピードで英単語のカードがめくられていた。
「お、おお。これがスピードラーニング……」
言いながら、多分違うな、と大河は思った。
でも和江曰く、このスピード感が重要らしい。
中学生になって部活には入らず、すぐに塾に通い始めた和江は、瞬く間にその才能を開花させ、今では学校トップの成績を取り続けている。最もこのスピード感に、元スポーツ少女らしさが現れているようだった。
単語カードが一周したところで、ようやくその手が止まった。
そしてそのタイミングで、メガネの奥の瞳が、キッと大河を睨みつける。
「ていうか、来るのが遅いわよ! 何分待ったと思ってるの!?」
「ご、ごめん! ていうか、さっきから怖いよカズちゃん……」
和江は受験を控えているからか、少しだけヒステリックになっていた。
「じゃあ行くわよ大河、タイムイズマネー、いや、タイムイズ志望校合格なんだから」
などとよくわからないことを言って、和江はスタスタと歩いていってしまう。その後姿は、昔見たよりもちょっとだけ大きくなっていた。
そのちょっとの差が、大河に、時間の経過と成長を感じさせる。
「あ、そうだ大河」
不意に、和江が立ち止まった。
「ん、なにー?」
このチャンスに大河は、和江の横にまで歩み寄ってみる。
ちょうど真横の位置で、目があった。和江の瞳は、先ほどのように角を帯びてはいなかった。
「長距離走で中学生の一位になったんでしょ? おめでとう」
和江は大河を見て、笑っていた。その優しい笑みは、昔と変わっていなかった。大河もまた、昔とは変わらない、満面の笑みを返す。
「うん、ありがと!」
近くだけど、なぜか遠くも感じる。そんな距離で、二人は並んで歩き出した。
電車に揺られること一五分ほど、駅から降りてさらに五分ほど歩いたところで、二人は目的の場所へたどり着く。市民体育館の周りには、たくさんの人があふれていた。これが中に入ると、さらに人の密度を増す。二階席を歩き回って、大河と和江は空いている席を探した。
「まだアップ中なのに、すごい人だ!」
「決勝は地元の神奈川と、東京の代表校通しの戦いだし、その前の三位決定戦にも関東県内のチームが残ってるからね……あ、あそこ、二席空いてるわよ」
「おお、ほんとだ。よっしゃ、とってくるよ」
大河は一人、身軽な動きで人の間を抜けながら先行し、目的の席を確保した。
少し遅れて、和江もその席までやってくる。腰を下ろすなり、和江は単語帳をめくりはじめようとするのだが、大河は構わず話しかけた。
「この体育館で、ウカちゃんが戦うんだね」
「そうね……また龍華が、全国のトップを目指して、このコートを走り回る」
大河の言葉に、和江も一度顔を上げた。そのメガネの奥の瞳が、懐かしそうに体育館を覗いている。
龍華だけは――大河も和江もコートを離れてしまった後も、バスケを続けていた。
あれは確か先月のことだ。クラスの違う大河のもとへ、龍華が訪れてきたのだ。――ああ、そういえばウカちゃんの顔、久しぶりに見るよ――そんなことを思っている大河に向かって、龍華は興奮気味に話しかけてきたのだった。
『やった! 勝ったんだよ私たち! 大河ちゃんと同じ、神奈川の代表だよ!』
龍華の言葉自体はあまり意味をなしていなかったものの、大河は頭の中で補完をしつつ意味を理解した。つまりこういうことだろう。龍華が所属するバスケ部は神奈川の県大会で優勝した。そして、神奈川の代表として全国の舞台に進むことを決めたのだ。
『小学校のころ、叶えられなかった皆の夢。私が叶えるよ! だからだから、決勝まで進んだら、絶対に見に来てね! 和江ちゃんも呼んである!』
――夢、か……
大河は、ほんの少しだけ昔のことを思い出していた。
小学生最後の年、大河たち最高学年の六人が掲げた目標は、日本一だった。そんなことを言い出したのは、他でもない大河自身だった気がする。どうせ目指すなら、高い方がいいと思ったのだ。そんなの叶うわけがないって、大河自身も思っていたけれど。
だけどそのあと、幸運がどんどん重なって、また、大河以外の五人が急成長こともあって、トーナメント表を順調に登って行った大河たちは、いよいよそのチャンスを手に入れた。
結局その夢は、決勝戦で負けて潰えてしまったけれど……実力は互角で、どちらが優勝しておかしくないと言われていたが、大河たちはその二分の一の確率を手に入れることできなかった。
そして今、六人の中で龍華だけが、再びその二分の一の機会を手に入れた。龍華は全国大会の名だたるチームを倒して、決勝戦へと駒を進めたのだ。
「ああもう、カッコいいなー、ウカちゃん。夢を諦めない女って、感じ?」
大河は、素直にうれしいと思った。それは、小学生のころとはちょっと違った感情だった。その違いが何なのか、大河にはよくわからないけれど、それでも今では、仲間の活躍を心から喜べる。
和江は、視線こそ単語帳に向いているけれど、すでにそこに意識は向かっていない様子だ。
大河は言葉を続けた。
「私はさ、バスケから、逃げちゃったからさ」
「……それは私もそう。でもほら大河は、全国一位を取ったじゃん?」
「陸上で、だけどね」
確かに大河はつい先日、陸上の長距離走の種目で、日本一を取った。
それはとても嬉しいことで、そのために全身全霊をかけたのも事実だ。だけどここに来ると、どうしても思い出してしまう。幼い日に龍華が持ってきてくれた雑誌の中で、真剣にコートを走っていた、一人のプレイヤーの姿を。自分もあのコートの中で、皆のために駆け回りたかったという、その思いを。
「カズちゃん、三人で買ったあのリストバンドさ、まだ持ってる? ウカちゃんが今日つけてくれるって」
「うん、持ってるよ。家にだけど、引き出しの中に、ちゃんとしまってる」
「そっか……あ、もう最初の試合が始まるみたいだよ」
決勝の前には、三位決定戦がある。本来は決勝が始まる時間に来ればよかったかもしれないが、せっかくなので三位決定戦の試合も見ようということで、この時間にやってきている。
三位決定戦とはいえ、中学バスケはミニバスよりもずっとスピードもパワーも技術もレベルが上がっていて、楽しんでみることができた。一ピリが終わり、二ピリが終わったところで、試合はハーフタイムの休憩に入った。
このハーフタイムの時間を使って決勝のアップが行われる。すなわち、いよいよ龍華が、このコートに現れるはずだ。
しかし、である。どんなに探しても、視力二.〇の大河の目に、龍華の姿が見当たらない。
「あれ? カズちゃん、ウカちゃんいた?」
「いや……やっぱりいない、わよね?」
「うん。どうしたのかな……」
「大河じゃあるまいし、迷子、とかはないわよね?」
「そうだね……てか、私も別に迷子キャラではないから!」
それからしばらく様子を眺めていたけれど、やはり龍華の姿は見つからなかった。龍華がいないままアップだけが進んでいき、そのアップが進むにつれて、なんだか不安も募ってくる。
「あ、待って。電話……お母さんから」
和江はバッグから携帯電話を取り出し出る。「こんなときに何よ」と、反抗期真っ只中の和江の一言目から始まった通話は、時間が進むにつれて、みるみる和江の顔を曇らせていく。
和江は電話を切ると、約一分の会話を、たった五秒のセリフにまとめて教えてくれた。
「龍華が、事故に巻き込まれたって……」
「嘘、だ……」
気づいたときには大河は、目的地も知らないまま、走りだしていた。
会場を出て百メートルほど走り――、信号で静止したところで後ろから息を切らしながら追いかけてきた和江にシャツをつかまれ――、目的地を教えられ――、再び並んで走ること、十分ほど。大河と和江は、龍華が運ばれたという病院にたどり着いた。
受付で教えられた場所に向かうと、部屋の前には、龍華のお母さんと、和江のお母さんがいた。大河の両親が共働きの関係で、昔はよくお世話になった人たちだ。
龍華のお母さんは動揺が顔に現れていてまだ話せない様子だった。和江のお母さんが二人を迎え入れる。
和江のお母さんから聞かされた話によると――龍華は今、手術中だそうだ。
龍華は集合場所へ向かう途中、暴走してきた車に、轢かれてしまったらしい……
両足とも怪我をして、試合どころではなかったそうだ。幸い命に別状はなさそうだが、それでも手術が必要な状況だとのこと。和江の母が、教えてくれた。
ここまで来たものの、大河と和江には、結局何もできなかった。
医者の代わりに、手術ができるわけでもあるまいし、和江の母のように、龍華の母を落ち着かせて、方々に連絡したりすることもできない。
じっと座って、待つほかなかった。中学では合間を見つけては勉強し、朝会中にでも単語帳をめくっている和江も、この時ばかりは、ただ座って沈黙しているだけだった。
事が動いたのは、それから三時間ほど経った後だった。
手術室の扉が開かれる。その扉から眠っている龍華が出てきて、病室へと運ばれていく。
それはまるでテレビドラマを見ているような光景だった。だけどその登場人物は、どこかの女優さんではなく、大河の友達で幼なじみで、いつも笑顔ばかり浮かべている龍華だった。
龍華は一瞬で運ばれて行って、廊下は静かになった。
それからまた、一時間ほど待たされた。
「ん……ごめん、ちょっと行ってくる」
そう言って、和江が立ち上がる。お手洗いだろうか? ……思い返してみれば、大河も長い間トイレに行ってなかった。一緒に行こうかと思ったのだが、そう思ったときには既に和江はいなかった。それに……朝から食べ物も飲み物も、何も口にしていないから、それほど近くは感じなかった。
五分ほど待つと、和江は、和江の母とともに帰って来た。そういえばしばらく前に、和江の母も龍華の母も、どこかに呼ばれて消えていたっけ。そんなことに気付けないくらい、大河の精神は消耗していた。
「ごめん、お母さん。今の、大河には私が言うから」
「うん……じゃあ、私は何か飲み物買ってくるわね」
言うことって、何だろう? ――そういえば昔は『ママ』って呼んでたはずなのに、いつの間にか『お母さんに』変わっているな。和江のお母さんのことだから、飲み物は、大河が昔好きだったオレンジジュースを買ってきてくれるんだろうな……
和江のお母さんが、廊下を歩いていく。そしてまた、少女たちは二人きりになった。
大河は、和江の言葉を待った。
「…………」
「…………カズ、ちゃん?」
だけど和江が言葉を発するまで、また少し時間が必要だった。
「……悪い話と、最悪な話が二つあるのよね。どっちから聞きたい?」
そう言って、和江は笑う。昔からそうだった。悲しいときに和江は変に笑おうとする。
大河は知っている。この笑いは、和江が和江自身をごまかしているような、そんな表情だということを。果たしてごまかしているのは、何の感情か――
「……どっちでも、いいよ。カズちゃんの好きな方で」
「じゃあ、悪い話からね。結局試合、負けちゃったって。クラスの子から今電話がかかってきた」
「……そっか」
負けちゃったか。まあ、龍華はチームのエースだったから、そのエースが抜けては勝ち目が少なかったのか。悔しいけど……今はもっと、気になることがある。
「……で、最悪な話の方は?」
「うん。本当に本当に最悪で、どこの三流ドラマかって思うんだけどね……」
和江の乾いた笑いが、段々崩れていく。和江も、もう限界だった。
「龍華、もう二度と、自分の足で走れないんだって……」
「…………」
何を言っているんだろう、和江は。
ああ、そういえば、さっき手術室から出てきた龍華を見たっけ? そういえば龍華は、事故にあったんだった。龍華は事故にあって、足を怪我して、手術をして、大会には出れなくって、それで、それで……
「…………嘘だ!」
やっと言葉が出た、その言葉で、大河は、和江の言葉を否定した。
「カズちゃん、そんなつまんない嘘、つくなよ!」
「……嘘じゃないんだよ。本当……本当なんだよ、大河」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ! カズちゃん勉強のしすぎで、おかしくなったんだよ」
「……いや、本当だよ。誰もそんな冗談言わないし、私もおかしくなったりしてない」
どれだけ強い言葉で否定しても、和江は認めてはくれなかった。
和江はいつも、大河よりも少しだけ大人だった。
大河よりも早く真実を受け入れられたからこそ――大河より早く泣き出してしまう。和江は大河よりも少しだけ大人なだけで、まだ子供だ。
その涙を見て、大河の目からも涙が流れ始める。その涙が、真実なんだと認めてしまうことだとしても、涙は止まらなかった。それから二人で、ずっと泣いていた。そこにいない幼馴染のために、一生分泣いた。
しばらくして、抱き合って泣いていた二人の顔に、ハンカチと、ジュースが手渡された。
「……龍華ちゃんがね、二人に会いたいって言ってるらしいの」
気付いたら和江の母が、二本の缶ジュースを買って、戻ってきていた。オレンジジュースと、コーラだ。
「いっぱい泣いたから、喉が渇いたでしょう。だからこれを飲んで、会いに行きましょう」
正直、今の大河には、龍華と会える自信がなかった。だけどひとしきり泣いたから、涙は流さなくて済みそう。自分なんかが、力になれるかわからないけど、それでも――龍華が会いたがってくれているなら、会いたい。
それは和江も同じ気持ちだったようで、一緒に缶ジュースを飲みこんだ。水分はまだ全然足りなかったけど、一刻も早く龍華に会いに行かないと。
病室の前でノックすると、龍華のお母さんが扉を開けてくれた。促されるままに奥へ進んでいき、そして、対面する。
「あ、二人ともひどい顔してるー」
初めに龍華が口にしたのは、昔と変わらない、楽しそうな口調でのセリフだった。
「久しぶりだねー、三人で会うの」
「そうね……」
「う、うん確かに、なんだかんだ、久しぶりだ」
だけど龍華は、やっぱり変わってしまった。下の方に目を向けるとどうしても、事故の後が見えてしまう。和江も同じ方向を見ていたようで、それを一番悟られてはいけない人悟られてしまう。
「あはは、やっぱり気になっちゃうよね。それ」
「い、いや……」
「……ごめん、ウカちゃん」
「別に、謝らなくてもいいんだー。ただ、さ……」
龍華がほんの少しだけ、視線を逸らした。
「どうしてだろうねー? ……神様はどうして、期待させるんだろう? どうしてあと……あと一歩のところで、私の夢を叶えさせてくれないんだろう? 小学生の頃は、実力がなかったって諦められた。だけど今回は、期待だけさせておいて、そのチャンスすらくれなかった。私だって、頑張ってたつもりなんだけどなー。頑張ってれば、神様はきっと応援してくれるって、皆そう教えてくれたはずなのに……私だってそう信じてたのに……だからね、だから私には、とってもとっても、とっても不思議なんだよー、あはは」
その龍華の笑顔だけは、まるっきりいつも通りに見えて、だからより一層、言葉に込められた思いを大河たちに感じさせる。
「りゅ、龍華……」
「ウカちゃん……」
――嘘、だよ……
大河は、気づいてしまった。
龍華は怪我をしたことだけを、悲しんでるんじゃないんだ。
それと同じくらい……いや、もしかしたらそれよりも、日本一になれなかったことを悲しんでいる。これから続いていく長い未来よりも、今の、一瞬の夢に輝けなかったことを悔やんでいる。
これだけ夢に真っ直ぐでいられる人がいるなんて、大河は思ったこともなかった。
夢なんて、大抵は叶わないものだと大河は思ってた。世の中、向いてないことはいくらでもある。好きな事が得意なことなんて、そんな保証はどこにもない。それがもし得意な事でも、ずっと続けるのはやっぱり難しいことで。だからどこかで妥協しなきゃいけないんだって、いつかは絶対諦めなきゃいけないんだって、大河は今日まで、ずっとそう思ってた。なのに……龍華は……
「大河ちゃんに和江ちゃん。今日は、本当にありがとね。二人の顔が見れて、私は本当に嬉しかったよ。良かったらまた、二人で会いに来てね。これからしばらく入院しなきゃいけないから、暇なんだー」
そのタイミングで、後ろから大河と和江の頭を撫でたのは、龍華のお母さんの手だった。
「ありがとうね二人とも。龍華のために、こんなに待っていてくれて。良かったら、また会いに来て」
そうだ。考えてみれば、昔からずっと、三人の中で一番大人なのは龍華だったんだ。
大人だけど、何事に対しても一番真剣だった。
だからこそ中学でもバスケを続けられたし、夢に真っ直ぐでいられた。
もし神様が平等なら、龍華の願いを叶えてくれればよかったのだ。そうしたら、中学で日本一になれたのは、大河ではなくきっと龍華だった。
足につけられていたよくわからない機械も、机の上に置かれた、本来龍華の腕についていたはずの緑のリストバンドも、いつも笑顔を浮かべていた龍華が、やっぱりこの時も笑っていたことも、すべて、すべて――
すべてが、悲しい思い出に変わっていく。
病室を出て、大河と和江は、並んで歩いた。少し後ろには、和江の母が付いてきている。
「私が代わりに、怪我をしてればよかったのに……」
そう漏らしたら、隣から思いっきり頬を叩かれた。
「痛いな、何するんだよ!」
「龍華は、そんなこと言ってほしいなんて、望んでない!」
「じゃあ私は……どうすればいいんだよ!」
「そんなの、私が知るわけないじゃないの!」
こうやって言い争いになってしまうのは、大河も和江も、子どもだからだろうか?
子どもっていうのは、本当に力がないのだと、言い争いながらも大河は実感した。こういうとき大きな声を出すだけで、何もできないのだ。大河は昔からずっと、子どものままだった。
小学校低学年の頃は、毎日走り回っていた。
ミニバスを始めてからは、ちょっとだけ悔しい思いをした。
中学では、陸上で日本一になった。
結局大河にできることは、声を出すこと、そして走ることだけだ。
いつもわがままを言ってばかりで、子どもで、走ることにしか能がない、そんな少女だった。
「そうだよね……うん。そうだ」
「え、大河?」
「私には結局、これしかないから、だから……」
気付いたときには大河は、また走り出していた。いつでもどこでも、走ってばかりだった昔のように。ここが病院であるということも忘れて。
「大河待てこら! お母さん、ちょっと行ってくる」
「う、うん……頑張って、二人とも」
不意に頭に浮かんだその考えが、間違ったことなのかどうか、大河にはわからない。
自己満足のわがままではないか、――うん、そうかもしれない
龍華が苦しむんじゃないか、――その可能性もあるかも
だけど、だけど――ウカちゃんにまた笑ってほしい
それだけじゃない――皆で一緒に、笑いたいんだ
一緒に過ごした時間が全部悲しい思い出に変わっていくなんて、そんなの許せないから。
だから、だから、だから――
「私がウカちゃんの代わりに、走るよ!」
病室にいた龍華に向かって、大きな声でその夢を宣言する。
「大河……あんたちょっと、何言って……」
後ろから追いついてきた幼馴染に、腕を掴まれた。
それでもかまわずに、大河は言葉を続ける。
「またみんなで、バスケをやる! それで今度こそ一番になろう! 三度目の、正直だよ!」
――この自分勝手な夢が、どうか届きますように
――いつもの自分のわがままを、かけがえのない友達が、また笑ってくれますように
龍華は、昔のあの日と同じように、笑顔で頷いた。
「うん……やりたい」
それはあの日と、同じセリフだったんだ――
龍華は笑顔で、そして泣いていた。後から聞いた話によると、これが龍華が事故の後に流した、初めての涙だったらしい。
結局三人で、その夜は、ずっと泣き続けた。
第四章 再開
怪我のこととか、家族のこととか、学校のこととか。
色々なことが落ち着いたのは、一週間が経った頃だった。
大河も和江も、学校が終わったら龍華がいる病院に訪れるようになっていた。
龍華が寝ている隣へ図々しくも座り込んだ大河は、今日も元気な声で龍華に話しかける。
「私は多分、レギュラーになるのには時間がかかっちゃうけど、でも今度こそ絶対にレギュラーを取るから! そして、日本一になるんだ!」
「そうしたら、私はマネージャーだねー。後は、バスケがへたっぴな大河ちゃんのコーチかなー」
「うん、ウカちゃんは、専属コーチでお願い!」
「専属かー、うん。いいよー」
そう考えると、大河はワクワクしてきた。一度は逃げたバスケだけど、不思議と怖さはなかった。
お互いに笑顔で話している大河と龍華の元へ、一枚の皿が差し出される。
「ほんっと、仲が良いことで……はい、リンゴ切ったわ」
「わーい、ありがとうカズちゃん!」
「いや大河のためじゃないし、ていうかあんたも手伝えっての」
和江に頭を叩かれたが、この感じも懐かしかった。龍華も同じ思いだったのか、視線が合った。そしてまた、二人して笑うのだ。和江は昔みたいに呆れ顔だった。
リンゴは八ピースに切られていたが、三等分できなかったため、龍華と和江が二ピースで、大河が四ピース食べた。
だけどまだ足りない――三人だけじゃ、足りないんだ。
小学六年生のときに一緒に同じ目標を目指した、他の三人の仲間たちとも、できればまた一緒にバスケがしたい。
だから――
「というわけで、今日の放課後は、他のメンバーに会いに行ってくるよ! 病室にはその後で行くから!」
次の日、大河は、会いに行くことにした。
「え、うそ……本気なんだ大河」
「本気に決まってるよ! また全国目指すんだから、できればミニバスのころと同じメンバーがいいじゃん。じゃ、また後でね」
「あ、うん……」
六限目の授業が終わるなり、大河は校門を出て駆け出した。
ミニバスの同期のうち、大河と同じ中学に通っているのは和江と龍華の二人だけ。つまり他の三人に会うには、彼女たちが通っている中学まで訪れなければならないのだ。
まずやって来たのは、数キロ先にある鴨沢中学である。
この中学には、違う中学になってしまった三人のうち、小豆と景の二人がいる。
「こんにちは!」
職員室で元気に挨拶をし、友達に会いに来たと告げると、先生は大河が学校に入るのを許してくれた。
小豆と景は、同じ三年B組ということで、まずはそのクラスを訪れてみる。
しかしもう最終授業が終わってから、一五分は経ってしまっているらしい。小豆も景も、クラスにはいなかった。手前でおしゃべりをしていた女子の一団に、聞いてみる。
「小豆ちゃんは知らないけど……景ならきっと、あそこだよね?」
「うん、多分そうだよね! 三階の廊下の、南側の奥の教室に行ってみて」
「そっか! ありがと!」
階段を登って三階へ上がり、大河は目的の教室の前までたどり着く。
ノックをすると、『どうぞ』と、落ち着いた女性の声が返ってくる。その懐かしい声に興奮した大河は、勢いよく扉を開ける。
「やっぱり、ケイくんだ!」
「お……久しぶりに騒がしい声がした思ったら、大河か。久しぶりだね」
「うん、久しぶり!」
窓際の席で本を読んでいたのは、まぎれもなく、かつての仲間、景だった。実際に顔を見て、ますます興奮した大河は、用件を簡潔に述べた。
「ケイくん、またバスケをやろうよ!」
「いや、バスケより将棋かな?」
「なるほど将棋か……て、なんで!」
わけがわからない大河に対して、景は冷静に、上の方向を指で示す。示された方向に視線を向かわせると、そこには『将棋部』という文字が見えた。
「あ……もしかしてケイくんも、バスケ続けてなかったんだ?」
「まあね。そういう大河は、陸上で全国大会優勝おめでとう、新聞で見たよ」
「ありがとう! ……じゃなくて、高校ではまたバスケをやるつもりだから、ケイくんも一緒にバスケやろうよ!」
「いや、それは無理な相談だね。ここは将棋部だから」
さっきから、景の言っていることの意味がわからなかった。
「ここは将棋部だ、だから……将棋で決めるというのはどうかな?」
「え、それってどういうこと?」
「僕と大河が将棋をして、もし大河が僕に一度でも勝てたら、バスケをやってあげよう」
なるほど、さっきから言いたかったのはそういうことか、すべてを理解した大河は、
「わかった!」
元気に頷いた。元気に頷いて、また走りだす。
「ケイくん、ちょっと待ってて! 明日また来る!」
「お……はは、相変わらずせわしないね。いってらっしゃい」
思い立ったら、走らずにはいられない。それが大河だった。
上って来た坂を下って、駆けてきた道を戻り、たどり着いたのはいつもの病室。
ここには龍華と、勉強がとっても得意な和江がいる。
「はや、もう鴨中に行って帰って来たの? さすが陸上部のエース……」
「将棋を教えて、カズちゃん!」
「……なんで!?」
やっぱり、いきなり将棋とか言われたら、普通その反応になるよな……ほっと安心しつつ大河は詳細を説明した。
説明を受けた和江は、渋い顔をする。
「確かに私、将棋は多少わかるけど、だからって、なぜ私が……ていうか、今から練習したって、景に将棋で勝てるわけないわよ」
「そ、そんなぁ……」
「和江ちゃん、お願いだよぉ……」
「大河はともかく、なぜ龍華までそんな顔をするのよ……」
昔から、大河だけの頼みはあまり聞いてくれない和江だったが、龍華にお願いされると弱い和江でもある。
最終的に和江が折れた。
「……ルールだけよ。後は自力で頑張って」
「……やった、ありがと!」
最初は向き合って将棋を教わっていたのだが、時間が経つにつれ大河が少しずつ飽きてきたのもあり、結局龍華も加わって、三人で将棋崩しをして帰った。
そして翌日、ルールをなんとなく理解した大河は、満を持して鴨井中将棋部の扉を叩いた。
「たのもーっ、の掛け声でいいのかな?」
「お、また来たね大河。昨日はすぐ帰ったけど」
「うん! カズちゃんにルールを教えてもらってた」
「なるほど、だったらさっそく、一戦交えようか」
「よっしゃ、負けないよ!」
まずは一戦。思いっきりぶつかってみた。最も、結果は目に見えていたのだが……
「うぅ、負けた……」
「……弱いね、大河。想像以上だよ」
大河の圧倒的惨敗を目の当たりにして、景は珍しくも少しだけ顔を引きつらせる。いつもクールでカッコいい女の子である景らしからぬ表情であった。
「初心者の、十倍下手だね。猿とやった方がよっぽど楽しいだろう」
「あひゃひゃ、相変わらず手厳しいなー、ケイ君は」
その手厳しい物言いも、とても懐かしく感じる。でも大河は、そんな言葉じゃ諦めない。
「でも、一度でも勝てたらってことは、何回挑戦してもいいんだよね? 再戦お願いします!」
「なるほど、大河、そういう作戦かい」
「な、なんのことかな?」
「相変わらずだね……何度も挑戦してれば、僕もつかれるし、ミスをするかもしれない。大河の方も段々上手くなって、奇跡的に一度くらい勝てるかもしれない」
「あひゃ、ばれてましたか」
景の言う通り、流石の大河も一戦で勝てるとは思っていなかった。
だけど景が、一度でも勝てれば、と言っていたのだ。
何回でも挑戦できるなら、百回でも千回でもやってやるつもりだ。
「もっともね大河、高校生でいられる時間は三年しかないから。それまでに勝てるかな?」
「それは……うーん、確かに難しそう……」
「僕も楽しくないのは嫌いなんだ。一度までならいいけど、何度も弱い人と闘うのは流石に飽きてくる。だから別の勝負にしよう」
「別の?」
そして、場所が変わる。連れてこられた場所は、階段を下りた場所にある中庭だった。
その中庭の中央にはバスケットゴールが一つあった。そして景は、どこからか持ってきたバスケットボールをその胸に持っている。
「もしかして、今度はバスケなの?」
「うん。将棋だと、大河が下手すぎてつまらないからね……バスケなら、もう少しいい勝負になるだろう。七点先取の一対一だ。こちらも、一度でも勝てたらいいよ」
なるほど、そういうことなら大歓迎だ。
正直、将棋で勝てる気がしなかった。でもバスケなら……
「言っとくけど、私だってだてに陸上部で鍛えてたわけじゃない……よっしゃ、気張っていくよ!」
気合全開、準備万端。大河は景に真正面から向かって行った。
そして――
「……これでまた、僕の勝ちだね」
「……つ、強い」
真正面から向かって行った結果……日が暮れる時間になっても、大河は一勝もできなかった。
全部で一七戦して、一七敗。わかっていたつもりだったが、やはりミニバスで全国二位のチームのスタメンの実力は半端じゃなかった。
「大河、もうやめておこうか。もうすぐ、下校時間だ……」
「あ、ケイくん待って! も、もう一回! 次は絶対勝つから!」
「……ふふっ」
そのタイミングで景が、前触れもなく急に笑いだした。
「ふふふ、大河。僕、久しぶりに大河と遊べて楽しかったよ」
「あ、うん! それは私も、楽しかった!」
「……楽しかったから、君の提案も受けることにした」
「え、それって……」
「バスケをやるというのも、悪くない気がしてきた……ふふ、また、楽しくなりそうだね」
「で、でも私勝てなかったし……」
「僕としても、一回くらい大河が勝ってくれる予定だったんだが……まあ、これから勝てばいいさ、後払いでね。三年もやってれば、一回くらい勝てるかもしれない」
ということは、また三年間、一緒にバスケをやってくれるということか……一対一では勝てなかったけれど、景がそう言ってくれて大河は嬉しかった。
「やった、また一緒にできるんだね、ケイくん!」
「ああ。それから、もう一人いるよ。可愛いストーカーさんがね」
景が自然な仕草で指さす方向に、視線が吸い寄せられる。
「はぅ……ばれてた」
そこにいたのは、大河がこの校舎で探していたもう一人――小豆だった。
「おお、ストーカーさんがいたんだ」
「す、ストーカーじゃないわよぉ!」
景が言葉を付け加える。
「できれば、小豆も誘ってやってくれないか? 昔からずっと、僕についてくるばかりで、中学では将棋部に入って来たけど、向いてなくてすぐ辞めてしまった。それから暇そうにしていたんだよ。今日だってほら、大河が来ると僕が伝えたら、予想通り、こっそりついてきてた。小豆もきっと、一緒に遊びたいと思うよ」
「なるほど……そういうことなら、もちろんだよケイくん!」
大河は小豆の元へ駆け寄っていく。小豆は一瞬逃げ出すようなしぐさを見せたが、すぐに諦めた。
「た、大河……その、久しぶりじゃない」
「うん、久しぶり! オマメちゃんも、また一緒にバスケをやろうよ!」
三年ぶりに会う小豆も、あまり変わっていなかった。むしろ相対的に背が小さくなったように見えるけれど、基本的に、頭の上に大きなお団子を作った可愛らしい女の子のままだ。小豆は、その小さな口をゆっくりと開いた。
「あのね大河。私は……私はね……」
「うん、うん」
「……オマメじゃなくて、アズキだぁあああ!」
小豆の怒りの絶叫が、中庭にこだまする。ものすごく元気そうで、大河はまた安心した。
こうして景と小豆の二人が加わって、大河たちは五人になった。
(よっしゃ、後一人!)
次の日に大河がやってきたのは、一駅離れた場所にある、池川中学。
この校舎にはミニバスチームの元センター、希林が通っているはずである。
「――お断りです」
「あの、キリンちゃんも一緒にバスケ……あれ?」
だけど、希林には断られてしまった。それも、お願いをする前にであった。
「小豆さんに、メールで聞いてます。バスケをやるんですよね? だけど私はやりませんよ。大河さんは、私のことを裏切りましたから……」
「え、キリンちゃん、私が裏切ったって……」
「……さ、練習が始まるので帰ってください」
「れ、練習?」
ここで大河の視界を、白いボールが一つ、横切った。
「もしかして、バレー部?」
「はい、中学ではバレー部でした。私は高校でも、バレーをするつもりです!」
「ま、またこのパターンか……」
「何が『また』なんです? ま、いいですが……とうっ!」
ちょうどこっちに飛んできたボールに反応した希林は、細かなステップを刻んで地面を思いっきり蹴った。その勢いで希林は空へと跳びあがる。最高打点から、弓がしなるような綺麗なフォームで、白い弾丸が地面に打ち付けられる。
それを見て、大河が気付いたことは二つ。
一つ目は、希林は身長もジャンプ力も、さらに伸びていたこと。ミニバスのころから希林の高さはかなりのものであったが、バレー部でトレーニングしてきたおかげが、さらに強力なものになっている。
そしてもう一つ、体の特定の部位もまた、成長していたことだ……成長した希林の胸についた二つのボールが、大河の視界の中で大きく揺れていた。
病院に戻った大河は、さっそく和江と龍華に報告をする。
「大きくなってたよ……」
「は?」
「あ、じゃなくって、断られちゃった。キリンちゃんには会えたんだけど」
「……そう。で、理由は聞いた?」
「うん、私が裏切ったから、だから嫌だって……」
そこまで言ったところで、和江がすごい顔で大河へと迫ってきた。
「た、大河あんた、何やったのよ! あんな無垢だった少女に、何を!」
「か、カズちゃん、何想像してるんだよー」
迫ってくる和江のことを両手で抑えつつ、大河は胸の内を告げる。
「ていうか、私もわからないから、困ってるんだ!」
「……え、わからないの?」
「そうなんだよ。中学になってからキリンちゃんに会ってもないし、心当たりがないんだ」
「それは……確かにそうね」
和江はやっと納得してくれたようだ。しかし、一方で希林が起こっている理由は疑問のまま残る。頭のいい和江でもわからないのか……
ベッドの上で、この年齢にもなって絵本を読んでいた龍華が、手を挙げた。
「はーい、私なんとなく、わかりまーす」
「え、ウカちゃんわかるの?」
「うん。希林ちゃんはね、私と同じくらいに、大河ちゃんのことが好きだったのー。裏切られたって思うのはねー、それだけ信じる気持ちがったからじゃないかな? 今も、大河ちゃんのことを信じたいからじゃないかな?」
「……うん、なるほど」
うなずきつつ、大河はあまり理解していなかった。
「つまりねー、もう一度話してみたらいいんじゃないかなー? わからないなら、直接聞くほかないんじゃない? 人間話せばわかりあえるとは限らないけど、逆に言えば、話さないと一生わからないかもだよ??」
「そ、そうか……」
それは、確かにそうだと思う。龍華の本当の気持ちがわかったのも、龍華が話す機会を作ってくれたからだ。わからないからこそ、話し合わなければいけないのだ……そう思ったら、落ち着いてなどいられない大河であった。
「す、すぐに行ってくるよ。キリンちゃんが帰っちゃう」
「あ、待って大河……ここからもう日が暮れるわ。ここから池中までどれだけ距離があると思ってるのよ」
「それはもち、全力疾走で!」
「はぁ……行ってらっしゃい、頑張って」
「うん、行ってきます! 龍華ちゃんも、行ってきます」
「いってらー」
病室では呆れ顔の和江と、いつも通りにっこり笑顔の龍華が残された。
「ホントにせわしないわね、あの子」
「うん。小さいころ、蝉を探すって言いだして、山を走り回ってた大河ちゃんのままだねー」
「そういえばそんなこともあったわね……あれ、秋だったけど」
「うん、結局一日中探して見つからなかったけど、夕暮れ時に蝉の抜け殻を見つけて、それで泣きながら『セミさん、死んじゃったんだ……』って言って、納得したんだよねー」
「……ほんと、せわしないうえにバカなよねあの子は」
「でも、一度決めちゃうと、足が止まらないんだねー」
「はぁ……私もそろそろ覚悟を決めないと、なのかな?」
「え、和江ちゃん、今なんてー?」
「……何でもないわよ」
池川中の校門のところで、大河は希林を見つけた。小学生のころよりますます大きくなっていた希林は、すぐに見つけることができた。
希林の前に立った大河は、場所をわきまえず頭を下げた。
「キリンちゃん、ごめん!」
まずは、思い出せなかった自分のふがいなさを謝った。
「あのね、私バカだから、何を怒ってるかわからない……」
「え、大河さん……それは、私が……」
「だ、だからね。キリンちゃんが何で怒ってるか、教えてください!」
大河はどうしても、わかりあいたいのだ。だってみんなのことが好きだから、だって――
「私はキリンちゃんが好きだから、何があってもキリンちゃんと……皆と、バスケがしたいんだよ! だから話して! そして謝らせて!」
「…………」
謝るために下げた頭を、長くて細い指が優しくなでた。
「遅いんですよ、大河さんは……」
「……遅い?」
「はい、皆で、全国一位になるって約束したじゃないですか……何年かかっても」
大河は思い出した。あの全国の決勝の日、自分が言った言葉を。大河は、何年かかっても、皆で日本一になるといったのだ。それが最後の年だと、わかっていながら。
そんな自分の無責任な言葉を、希林は信じてくれていたのだ。
信じているからこそ、裏切られる――龍華の言った通りだった。
「そうだったんだ……キリンちゃん、本当にごめん!」
「……大河さん」
「三年空いちゃったけど……その夢叶えたいって、また思うことができたんだ。あのころの私は、バスケが下手だから、悔しかったんだ。だけど逃げ出してしまった今の私は……もっと悔しいって思った。だからもう、夢から逃げない。だから――」
「私も同じです……逃げ出して、悔しかったです。中学では新しいことを初めてみましたが、やっぱりその思いは消えなかった……なんでまたやりたいって自分から言わなかったのか、後悔することばかりでした。結局また、大河さんがこうやって言い出してくれるのを待っていたんです……だから――」
「「――ごめんなさい」」
別に嫌いになったわけじゃない、ただすれ違っていただけ――
同じくらい思いっきり頭を下げて、二人はまた同じ方向を向く――
「……ていうか、もう既に他の四人は集まってるって言ってましたよね……なんで私が最後だったんですか」
「ああ、それもごめんねキリンちゃん。キリンちゃんの学校だけ、ちょっと遠かったもので」
「そ、そういう問題じゃありません! ていうか、別に気にしてません!」
「あ、そうだ。来週の月曜日に、六人でまた集まることにしたの。場所は――」
「え、――ですか? ……はい、わかりました」
そして次の月曜日、かつて一緒に夢を追った六人が、とうとう再開した。
集合したのは、龍華が入院している、真っ白な病室だった。
今日初めてこの場所に来た三人が、それぞれ驚きの表情を浮かべる。
「いったいこれは……」
「た、ただの怪我よね! 龍華」
「……だったら入院したり、しませんよ」
その三人分の戸惑いに対する答えを、笑顔の龍華が口にした。
「えっと、実は私、先日の事故で怪我しちゃいましてー。もう、私自分の足では走れないの。それに、もしかしたら歩くこともできないかもしれないんだよねー」
「そ……そんなに明るくいうことじゃないでしょうがぁ!」
龍華の言葉に食ってかかったのは、小豆だった。景に肩を抑えられ、今にも泣きそうな表情で、こぶしを握っている。
「……落ち着こう、小豆」
「でもなんで、どうして龍華さんが……」
景も希林も、小豆よりも冷静だが、表情だけは小豆と同じだった。
「驚かせて、ごめん。大河に怪我のことは言わないでって頼んだの、私なの」
和江が、三人に向かって頭を下げた。言わなかったのは――和江が決めたことだ。もし違う道に進むのなら、言わないままの方が良いと、和江はそう言った。だから今日まで、大河も龍華の怪我のことを隠していた。
だけどやっぱり、三人にとっても突然目の前で目撃した龍華の怪我は、悲しすぎる出来事だったようだ。なんだか病室が、暗くなってしまった。
龍華が大河の服の裾を、軽く握った。大河は『大丈夫』と、その手を握り返した。
「ケイくんが、ポイントガードでさ」
大河は明るい声で話し始めた。その言葉に、景が少し遅れて反応した。
「……ああ、そうだね」
「オマメちゃんはシュートが上手いから、シューティングガード。キリンちゃんは、一番背が高いから、高校でも、センターかな?」
「オマメじゃないし……」
「はい、そのつもり、でした」
龍華の手を握った逆の手で、大河は和江の肩をたたいた。
「それで、カズちゃんがパワーフォワードで」
「わ、私はまだ……」
「私は下手だけど、一応、ミニバスのときと同じように、スモールフォワード希望です!」
これで龍華以外の、全員の名前を挙げた。大河は龍華の顔を見る。
「それで、ウカちゃんは、マネージャー兼、私の専属コーチなんだ」
「……うん、そうなの!」
大河の手を握る龍華の手が、少し強くなった。大河もまた強く龍華の手を握る。
「足のことは関係ないんだ。私は夢を叶えたいの! そのためにマネージャーでもコーチでも、与えられた役割で全力を尽くすだけ。だからまた皆であえて、私、とってもとっても嬉しいの!」
龍華の思いと、そして笑顔は、怪我をする前と後とで変わってない。
だからこそ、大河も決意を決められたんだ。そしてこの三人なら、きっと――
「そうだね、僕たちは同じ夢を目指す。その気持ちだけは、変わらない」
「……そんなのわかってるわよ、私が加わったからには、百人力よ!」
「はい……この六人の力を、また見せてやりましょう!」
龍華の笑顔が移ったのだろう。三人は、笑顔でうなずいた。
これで確認できた。六人の思いは間違いなく一つだ。後は、バスケで全国を目指すだけ――
「あのさ、盛り上がってるところ悪いけど……」
そのタイミングで言葉を割り込ませてきたのは、和江だった。
「まだ私、一緒にバスケをやるって言ってないから」
一瞬にして、和江以外の五人の時が止まった。共通して浮かべているのは、意味がわからない、何言ってるんだこの子は、といった冷めた表情。五人が動き出したのも、同じタイミングだった。
「いや和江、さすがに今の流れでそれは……」
「和江の人でなし!」
「ここまで来ておいて、その発言は最低です」
「カズちゃん、反抗期か……」
「えーっ、一緒にやろーよー」
「予想以上の非難ね……言われる側になってわかったけど、あんたたち手厳しいわ。ていうか、話を最後まで聞きなさい。あと大河、決して反抗期ではないから」
和江はバックに手を入れると、何かを取り出して皆に見せた。
「どうしてもこの六人でバスケをやるっていうなら、私から一つ条件があるわ」
「おお、これは……高校の入学案内?」
「ええ。そもそも皆で同じ高校に行かないと、一緒にバスケできないじゃない」
「あ、忘れてた!」
「忘れてたんかい! ……まあいいわ、ともかく、同じ高校に入らないと、一緒に部活はできないわけ。で、私は勉強においては、妥協したくないから……」
何だか嫌な予感……大河は顔をひきつらせる。小豆も、同じ表情をしていた。
「だから、私の志望校、緑葉高校に入学してもらうわよ!」
「「……え、えええ!」」
六人で集まって、初めの戦い。
それは受験という、壮絶な戦いだった。
第五章 受験
某日、駅前のとある地区センターで、六人の女子中学生たちが、ペンを走らせていた。
「つ、つらい……」
「みんなで、バスケをやるんじゃないのぉ? 聞いてた話と違うじゃない!」
勉強開始から一時間。大河が嘆き声を上げたのをきっかけに、小豆も文句を言い始める。この二人にとって勉強は、苦行に近かった。走るのは好きでも、ペンを走らせるのは好きじゃないのだ。だというのに……
『なるほど、和江さんの言い分は……一理ある気がします』
『ふふ、受験も楽しそうだ。いいんじゃないか?』
『勉強も、大切だよねー』
和江の提案を聞いた直後、賛成の意思を示したのは希林と景と龍華の三人。これに発案者の和江も加わって、四人に主張されてしまえば、少数派の勉強嫌い勢二人に、勝ち目などなかったのだ。
「大河ちゃん、わからないことがあったら遠慮せず聞いていいのよー」
隣に座っていた龍華に、たしなめられてしまう。
あれからしばらくして、龍華は退院できた。もっとも龍華の生活において、車椅子は必需品になってしまった。
だけどなるべく負担にならないように、大河も和江も、ずっと龍華の傍にいるようにしている。今日も、地区センターまでは大河と和江で車椅子を押してきた。『別に私に構わなくても、自分でこぐからいいのよー』と言われたこともあったが、結局は大河も和江も、また一緒になれた幼馴染と、できるだけ一緒にいたいのだ。
向かい側の席では、景が小豆をたしなめていた。
「まあいいじゃないか小豆。普段サボってる分、たまには取り戻さないと」
「だからってなにも、県で一番の公立を目指さなくていいじゃないのよぉ!」
「大丈夫、小豆は昔から才能はあるから、半年頑張れば行けるよ。小豆の伸びしろは僕が保証する」
「そ、そう……? なら頑張ろうかな」
「ま、昔から身長だけはあまり伸びなかったけどね」
「やる気出してるのに、一言余計なのよ!」
同学年だが頼れるお兄さん(?)とかわいいストーカーさんの二人もまた、互いに幼馴染である。彼女たち通しも中学時代はあまり接点がなかったらしいが、愛称ピッタリであった。
「た、大河さんっ。龍華さんでなく、私に聞いてもいいんですよ」
左隣に座っている希林も、主張してくる。希林は最近、結構近くによって来ることが多いけれど、大河にはその理由がよくわからなかった。
「よ、四時半よ! さあ、行くわよみんな!」
「小豆……そんなに勉強したくないのかい、まったく……」
「龍華ちゃん、行くよ! 超特急で押してあげる!」
「うん、ありがとー」
「わ、私も一緒に行きます!」
「こら大河、地区センターでは走らないの!」
いったん勉強を中断して、大河たちは体育館を目指した。
地区センターでは、予約すれば体育館を使わせてもらえる。最も受験生なので一日三〇分と決めているが、それでも毎日皆で練習できる時間を持てるのは大きかった。半面しか使えないので、個人練習が中心ではあるが。
「ふぅ、やっぱりなまってるな……」
シュート練習をしていた景が、そんなことを漏らした。
「え。ケイくん、この前一対一したとき、全然なまってなかったじゃん!」
「まあ、おそらく大河のレベルだと違いがわからないんだろうがね」
「う……それは流石に傷つくかも」
落ち込む大河のもとへ、小さな小豆がやってきた。
「大河、一対一やるわよ!」
「お、いいねやろうやろう!」
「自信を取り戻すには、雑魚を倒すのが一番!」
「さっきから皆、私に対してひどくない!?」
さらに落ち込む大河のもとへ、大きな希林がやってくる。
「なるほど、確かにそうですね。小豆さん、それじゃあ私の相手もお願いします。私もチームで一番小さい人をつぶして、自信を取り戻す必要が……」
「き、希林……顔怖いわよ! ていうか今つぶすって言ったわよね!」
「え、そんなことは……言いましたけど?」
「あ、小豆はつぶしてもおいしくならないわよぉ!」
遠くでは、和江と龍華の二人が、何か話していた。
「相変わらずね、希林は……昔からそうだったけど、最近は特に、大河への愛が深すぎる」
「むぅ、大河ちゃんへの愛なら、私も負けてないよー」
「いや、そういうことを言ってほしいんでなく……それよりチェックしてくれる? 私のフォーム、変わってないか」
「あはは、いいよー。でも特別だよー、私本当は、大河ちゃんの専属なんだからー」
「まだその設定が続いてるのね……」
楽しい練習の時間はあっという間に終わり、そしてまた、六人は勉強へと戻る。
「もうダメだ―、平城京と平安京の違いがわからない!」
「分数と小数の違いがわからない!」
「あははー。大河ちゃんのはともかく、小豆ちゃんのは、やばいのでは??」
「わ、笑い事じゃありません! これでは見た目だけじゃなく、中身も小学生じゃないですか!」
「中身はともかく、見た目のことは言うなぁ!」
「中身はいいんだね、オマメちゃん……」
バスケはもちろん楽しいけれど、皆でやる勉強もまた、結構楽しかった。
「……ときに和江、君なら、ほんとはもっといい高校を目指せたんじゃないのかい?」
「別に、そんなことないわよ。私はもう覚悟を決めちゃったかしらさ」
「……へぇ?」
「残念だけど、優等生の私はこれまで。大河たちに、勉強教えなきゃいけないし、それに私、緑葉には、ギリギリで合格の予定だから……さ、おバカさん二人を受からせないといけないから、まずはそっちを頑張らないと」
「ああ、僕も手伝うよ……小豆は大変そうだな」
そんな感じで、毎日顔を合わせて勉強すること、半年間。
いよいよ受験、すなわち戦いの季節がやってきた。
ちょうど筆記試験の日、県内では大雪が降った。これほどまでの雪が降るのは、三年ぶりだったらしい。身に染みるような寒さの中で、六人はそれぞれ問題に向き合って戦った。
ある人はいつも通り全力で、ある人は笑顔で、ある人は自分より人の心配をしながら、
ある人はなぜか自信満々で、ある人は楽しんで、ある人は緊張で手を震えさせながら、
それぞれの思いを抱きながら、彼女たちは、半年間の成果を存分にぶつけた。
そして――
筆記試験も終わり、二週間がたった。いよいよ結果発表だ。
大河たち六人は、一緒に緑葉高校の校門の前までやってきていた。それぞれが自分自身の受験票を持って、結果が書かれた掲示板へと進んでいく。
人だかりを前にして、ふと希林が、足を止めた。
「みんな、受かってるといいのですが……」
「倍率二倍だから、六人が受かる確率は、二×六で、一二分の一ね!」
「いや小豆、二の六乗で、六十四分の一なんだが……」
「……こんな計算もできないなんて、小豆さん、落ちましたね」
「こら希林、不吉なこというな! 国語で取り返したわよ! でも……そんな低い確率なのね」
六四分の一、確かにものすごく低い確率だ。六四回チャレンジして、六三回失敗してしまう。そんなことに挑んでいる。だからみんな、不安なのだ――
「……大丈夫だよ!」
だけど大河は、自信満々な声で宣言した。
「だって、だってさ、これから、私たちはトーナメントを勝ち上がっていかなきゃならないんだから。全国で一番を目指すんだから、その確率に比べたら、どうってことないよ」
その言葉に、和江と龍華が、大きくうなずいた。
「ま、大河の言う通りね。それに、サイコロを振るわけじゃないわ。皆頑張ったから、その結果はちゃんとついてくるはず」
「私、お正月に神様にお願いしたの。皆の努力が報われますようにって。だから、大丈夫―」
「……うん、そうだね、行こうよ皆」
六人は、再び並んで歩き始める。不安はいっぱいだけど、それが努力の結果なら、後悔はない。
そして、その結果は――
「良かったよぉ……不安だったよぉ……」
大河の大粒の涙と、幸せそうな笑顔が、すべてを語っていた。
「よしよし大河ちゃん、勉強苦手なのに、よく頑張ったねー」
「さっきあんなに強気なことを皆に言っておいて、こいつは……」
「……あれ?」
涙でぼやける目をこすりつつ、大河は和江の顔を見た。
「カズちゃんメガネは?」
「今それに気づくか……」
「もしかして、コンタクト?」
「うん、高校からはコンタクトにするつもり。メガネだと運動しにくいから。今日はその練習」
そうだ――いよいよ、始まるのだ。
二週間前に積もった雪は、今ではすっかりと溶け、その代わりに春の温かさと、土の中に眠っていた植物が顔をのぞかせていた。
厳しい冬が終わった。とうとう春が、やってきた。