青い窓の反省
4割が冷凍食品の愛の薄れた母特製弁当で腹を満たした五限目。腹の上部分から消化酵素かなにかが分泌されている気配がする。(微かにきゅるるると消化の音もする。)
心地よい。これが休日だったらどんなにいいか。
私は今朝、名残惜しく手放した愛しい羽毛布団の温もりを思い出す。
そして、不運にも、五限目は眠くなる声として定評がある、小五郎氏の授業であった。
「南ヨーロッパではね、シエスタといって昼食後にお昼寝する文化があるんだ。」
小五郎氏は風船のように膨らんだワガママボディをぽよぽよと揺らしながら我々生徒にご教授した。
シエスタ…しえすた。
羨ましい。おのれヨーロッパめ。素晴らしいじゃないか。ブラボーブラボー。
是非とも我が島国でも実施してほしいが、眠らぬ国という肩書きを持つこの国ではまず出来ないだろう。
あー、それにしても眠い。眠りの国が見えてくる。羊が一匹、また一匹と増え、私ににらめっこを挑む。
『…ダメだダメだ。ウールの布団はダメだ。私は羽毛がいいんだ。』
もうほとんど回らなくなった脳ミソが私に警告する。しかし、その脳ミソですら考えていることは滅茶苦茶であった。
…気分転換に窓の外でも眺めよう。
幸い今日は天気がいい。これでもかというほどに広がる青空が人類を俯瞰している。
青空は眠気にいいと、テレビで髭の親父が偉そうに言っていたのを思い出した。
窓の外で桜のつぼみがふくらみ始めているのが見えた。
窓の外で先生が慌ただしく走るのを見た。
窓の外で鳥が羽休めをしているのを見た。
窓の外で親子が仲つむまじく歩くのを見た。
窓の外で鯨が浮かんでいるのを見た。
「…え?!」
私は自分の目を疑う。そして目を2、3回こすりもう一度確かめる。
間違いない、鯨だ、青空に白い鯨が浮かんでいた。
私は立ち上がり窓に駆け寄る。
「大変だ!!空に鯨が浮かんでる!!」
私は近くの席の友人Aに叫んだ。しかし、その席には友人Aはいなかった。友人Aだけではない。友人BもCもDもいなかった。教室には私だけしかいなくなっていた。
私が驚愕の渦中にいることなどお構い無しに白い鯨は悠々と青空を泳いでいた。
どうしよう、どうしよう、どうしようどうしよう!!
「か、神隠し!?神隠しなのか??!」
やはり、私の脳ミソは狂ったままだったようだ。私は混乱と恐怖に堪えられず、その場にしゃがみこんだ。唇を噛みしめ、震える手を握りしめる。
これは夢だ、これは夢だ。私は自分に言い聞かせる。もはや、私の脳ミソは何の情報も入れようとしなかった。しかし、ガラリと開く教室のドアの音だけは聞き逃さなかった。
「おや?誰かと思えば君ですか。」
聞き覚えのある眠たくなる声、ぽよぽよとした腹。間違いない。
「こ、小五郎氏…」
「いかにも。」
二、三回深呼吸をして、落ち着きを取り戻そうとする。知った顔がいる。その事実が私の混乱を鎮めていった。
「小五郎氏、ここはどこでしょうか?」
私が尋ねると小五郎氏は腹をぽよぽよと揺らしながら
「ここは夢の中ですよ、君の夢の中です。」
やんわりと答えた。
「夢…でございますか。では、わたくしめは眠っているのですね。」
「そうです。君は私のありがたい授業で眠
っているのです。」
小五郎氏のひどく穏やかな嫌味を受け止めた私はきっと苦虫を噛み潰したような顔をしていることだろう。
「その節はすみません。しかしながら小五郎氏、貴方の声は眠いのです。眠りの国にいざなう声でございます。」
私が小さな反論をすると、小五郎氏は少し髭の生えた顎に手をあてながら
「私も自分の声で眠る自信がありますよ。」
と言うので、私はがっくりと肩を落とした。
すっかり平静を取り戻した私はもう一度窓の外を確かめる。白い鯨は相も変わらず悠々と青空を泳いでいる。しかし、落ち着いてから見てみると空に浮かんでいるのは鯨だけではなかった。猫や犬をはじめとした小動物に、魚やライオンや象、キリンや牛や馬…エトセトラ、エトセトラ。まあとにかく数えきれないほどの動物がその身を真っ白に染めて空を歩き、走り、泳いでいた訳である。
「小五郎氏、彼等は何故空に浮かんでいるのですか?」
私が質問をすると小五郎氏は、窓枠に肘をついてぼんやりと空を眺める。
それからゆっくりまったり子守唄のような声で答えてくださった。
「それは、彼等が眠りを愛していないからです。」
「眠りを…ですか?」
「ええ、彼等は本能の赴くままに眠っていますよね?」
「はい、確かに彼等は眠りたいときに眠っています。羨ましい限りです。」
私が戯れ言をほざくと小五郎は高らかに声をあげて笑った。そして
「居眠りさんも彼等とあまり変わらないじゃないですか。」
と本日二回目の嫌味を言った。それを受け止めた私もまた、本日二回目の苦虫を噛んだのであった。
「小五郎氏、眠りを愛するとはどういうことですか?眠るのが好きだということですか?」
また私が質問すると、小五郎氏はゆっくりと首を振った。
「いいえ、眠りを愛するというのは人生を真っ当することです。…彼等も確かに人生を真っ当して生きています。が、」
小五郎氏の言葉は続く。
「そこには感情がない。本能の赴くままに生きて、子を残しているだけです。」
「それの何が悪いのですか、大変動物らしいと思いますが。」
私がそう反論すると小五郎氏はにっこり笑った。
「では、言い方を変えますね、人間は動物ですか?」
あまりに本題とかけ離れた質問に私は首を傾げる。小五郎氏はそんな私の心を見抜き、
「もっと極端に言うと、人間と鯨は同じですか?」
と言い直しくださった。しかし、私にはもっと本題とかけ離れていったように思えた。
しかし、答えない訳にもいかないので、
「違います。」と答えてみた。
すると小五郎氏はまたぼんやりと空を眺めた。
「そういうことですよ。」
「どういうことですか、小五郎氏。」
「人間もかつて、彼等と同じだった。食欲、性欲、睡眠欲だけをもって生きていました。しかし、人間はいつしかそれだけでは無くなりました。我々は知識欲、名誉力、金銭欲などさまざまな欲を持ち始めました。」
私はあまりにも長く大きい言葉に、欠伸を投げつけてやった。
「小五郎氏、夢の中でも眠ってしまいそうです。馬と鹿にもわかるように説明していただきたい。」
小五郎氏は、そんな私の言葉に渇いた笑いを落とした。
「君が会社員だとします。」
「はい。」
「君には家族がいて、家族を養うために必死に働きます。毎日いろんな人にどやされて、走り回って、くたくたになって家にかえります。本当に嫌な毎日です。」
「確かに嫌な毎日です。」
「でも、伴侶と子の幸せそうな笑顔を見て笑いあって幸せな気分になる。そして今日あった嫌なこと幸せなこと、全て噛みしめて眠りにつく。…それが眠りを愛することです。人生を真っ当することです。わかりましたか?」
「はい。」
―よろしい。小五郎氏はまたにっこり笑った。しかし、すっと真剣な顔になって空に浮かぶ動物たちを眺めた。
「彼等にはそれがない。だから彼等は白くなり夢の中に足が着かなくなったのです。…君の足元をご覧なさい。」
私は言われた通り足元を見た。そして私は全てを納得したのだ。
「どうですか?」
「浮いています。全く気付きませんでした。」
私は地に足をつけていなかった。空に浮かぶ白い彼等のように。ふらふらと浮いていたのだ。
「君は眠りを愛していますか?」
「…私はきっといいえと言うべきなんでしょうね。」
幼い頃から両親による罵詈雑言の日々を過ごしてきた。家に帰り、罵りあう両親を見て、一人で食事をする。そして、眠りにつく前に幸せそうに笑いあうかつての彼等の写真を見て、悲しくなる。いつしか私は、現実から逃げるために眠りを利用していたのだ。
心に空いた穴を塞ぐ方法を見つけようともしないで。
「今、我々人間は、多くが彼等と同じになろうとしている。そして、現に君は浮かんでいる。いつか、この夢の空に人間が加わる日も近いでしょう。」
小五郎氏は…先生は、私の頭を優しく撫でた。そして、風船のような腹をぽよぽよと揺らした。
「君よ、眠りを愛せ。」
―キーンコーンカーンコーン
耳に馴染んだ音に目が覚める。
「ほら、授業終わっちゃったよ。」
友人Aがゆさゆさと私の体を揺らした。だが、彼女はぎょっと目を見開き、素早くハンカチを取り出した。
「ねえ、なんで泣いているの?」
「…いい夢をみたんだよ。」
頬に伝う雫に触れたとき、私は初めて地面に足をつけたのだ。
授業は眠いっすよね。