Never been とチョコレート
チョコレートの色は自分の髪の色と同じだ。日米のハーフであるジーン=柏原=マッコイは時折そう考える。それは季節を問わないが、二月上旬のこの季節は特にだった。
「ジーンはやっぱり今年も手作りするの?」
左に並んだイザベラの声に一つ頷く。二人で訪れている高級デパートの棚には、色とりどりの包装紙に包まれたチョコレートが並んでいた。二月十四日--バレンタインデー--を前にしたデパートのお菓子売り場は、女性の購買意欲をそそるべく商品自体もディスプレイも魅惑的な構成だ。財布の紐を自ら軽くする為の言い訳にはもってこい......そんな考えがジーンの頭に浮かび、すぐに消えた。
可愛いげのない考えは捨てておこう。例えそれが真実だとしても。
「一年に数回くらいしかお菓子作りなんてしないけどね。たまにやらないと忘れそうだから」
「偉いわねー、ジーンは。私はとても手作りなんか無理」
黒縁メガネのフレームを触りながら、イザベラはチョコレートを物色している。既に彼女のバスケットには数個のチョコレートが入っているが、今選んでいるのは本命用らしい。目が真剣だから分かる。
「偉いのはあなたでしょ。付き合って長い彼にもきちんとチョコレートあげるんだから」
ジーンの言葉にイザベラは小さく笑った。その間にも彼女の指は幾つかのチョコレートの箱を行き来する。トリュフかウィスキーボンボンかで迷っているらしい。
「長い付き合いだからこそ、よ。馴れ合いになっちゃうと手を抜きがちだけど、それって破局への一歩だからね」
「のろけ?」
「恋の真理」
「ごちそうさま」
チクリと胸が痛む。それに目を反らしながら、ジーンは自分のお目当てに手を伸ばした。上質ではあるがシンプルな板チョコだ。ビタースイートが好みの大人にはいいかもしれないが、そのまま渡すにはいかにもシンプル過ぎてアピールには欠けそうな印象がある。
(でもこれでいいのよ)
誰に言うでもないexcuseと共に、ジーンはついでにもう一つ選ぶことにした。自分用のおまけを買うのもいつものことだ。
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アパートメントのキッチンは料理に向いているとは言いがたい。単身者用のアパートメントだからそれも無理は無い。精々が小型のコンロが一つか、多くて二つ、それに電子レンジを置くスペースがあるだけだ。包丁などの調理器具を使うスペースは正直ほとんど無い。
(実家と比べること自体が無粋とは分かっているけどね)
部屋着のスウェットに着替えながら、ジーンはその狭いキッチンに向かう。チョコレートの香りが鼻腔をくすぐるのは気のせいではない。昨日買ったチョコレートがキッチンの隅に置きっぱなしになっているからだ。冷蔵庫に入れると溶けづらくなるので、敢えて放置している。こうした小さな技術は小さな時に母が教えてくれた。
しかし朝からチョコレートの香りが立ち込めているのは、不思議なものだ。普段通りのパンとコーヒーとヨーグルトの朝食を準備しつつ、ジーンはバレンタインデーとは何ぞやと自問した。
ここアメリカでは男性から女性へチョコを渡すことも多い。ジーンの第二の故郷である日本では、女性から男性へチョコを渡すイベントデーがバレンタインデーだが最近は女性同士でチョコを交換することもあるとか。"友チョコ"と呼ぶとニュースで聞いたことを思い出す。
チョコの交換をキーとした愛の告白というのも今は昔らしい。もっとも男性の草食化が叫ばれる今、バレンタインデーの意味も多様化するのはある意味自然かもしれないが。
(自分にとっては何だろう?)
トーストにマーマレードを塗りながら、ジーンは考える。学生の時は由緒正しいバレンタインデーらしく、好きな男子に手作りチョコを渡したこともあった。恥ずかしいので本命とはとても言えなかったが......同窓会で再会した時に実は相手も自分に気があったと知った時は多少ショックではあった。
社会人になってからは、もっぱら人間関係の円滑化の為のツールだ。同僚、上司、取引先の男性に義理チョコを渡すといういかにも日本的な儀式--敢えて儀式と言い切る--をまめに続けてきた。意外にこれが喜ばれるのだ。男というのは幾つになっても女を意識する生き物なんだな、とその度に思う。
(こっちも喜んでくれた方がいいけどね)
トーストの最後の一口をコーヒーで流し込む。マーマレードの最後の甘酸っぱさが、いつか作ったオランジェリーを思い出させた。そう、確か手が込んでいると好評だったのだ。別に同僚にフェミニンと思われたいわけではないが、がさつな女とは思われたくはない。この感覚が無くなったら中年化だな、とジーンは自分を納得させる。
今年で三十歳のアラサー真っ最中のジーン=柏原=マッコイにとって、年相応の大人らしさと可愛らしさの両立は常に悩みの種であった。
温暖なカリフォルニア州にあるロスアンジェルスとはいえ、二月の土曜日はそれなりに寒い。海を望むジーンのアパートメントもその例外ではなく、密閉性の高い窓と床暖房をもってしても肌寒さは残る。さて、こんな季節にスウェットの上にパーカーを羽織ってチョコ作りに精を出す自分はどんな女だろうか。
義理チョコ作りだけなら、ちょっと寂しいだろうか。
パキン、と昨日買ってきた高級板チョコを割る。香り高いカカオの芳香がふわりと舞った。
いや、毎年本命チョコも作っているから。そう思うと乙女チックよね。
適度に割れた板チョコを湯煎にかける。少量ずつ湯を足し、更に慎重にミルクを足していく。あくまでチョコは素材に過ぎない。これを別の形で活かすのが手作りの醍醐味だ。i-tuneに手を伸ばし、昔流行ったジャパニーズポップスをかける。アメリカ帰りの日本人の少女が歌う伸びやかなvoiceに身を浸しつつ、チョコのダークブラウンとミルクの白をくるくると大きなスプーンでかき回す。
「You have never been......」
歌詞に合わせてハミングしつつ、スプーンの回転は止めない。あなたはけして行ったことがない......いや、歌詞の流れから考えると行かないで、という願いなのかもしれない。
一年前のバレンタインデーの事をジーンは思い出す。自分はYou have never beenとはあの時言わなかった。空港、人のざわめきが絶えないあの空間、次のフライトのアナウンスの響き、それらが多層的に記憶の底から浮かび上がる。
"じゃあね、ジーン。行ってくるよ"
"I'll be backとは言わないの?"
冗談めかした自分の声がどこか作り物めいていて。相手の笑顔を曇らせたことに謝りたくなり、同時に何故行くのかと詰めよりたくなった。
"僕はハリウッドのスターじゃないからなあ。でもそうだなあ、代わりに--"
はにかむように男は笑った。先ほどジーンがあげたチョコレートの包みは彼の左手にある。それを大事そうにポケットにしまいながら--
"一年後に戻ってくるよう頑張るよ。I"ll try my best"
"All right"
それはあの時の彼の最大限の誠実さだったのだろう。戦場カメラマンという職業柄、いつ命を落とすか分からないのだ。
"必ず帰ってくるさ。じゃな、ジーン"
"See you again "
交わしたのはそんなありふれた別れの挨拶と軽いハグ。恋人同士の別れにしては、あっさりしたものだと思うけど。それでもセキュリティゲートの方に歩く彼の背中は誇らしげで。ジーンはそんな背中を止めることなど出来ず、ただ見送るだけしか出来なかった。
「パトリックのバカ」
恋人の名前を呟きながら、ジーンは鍋の中のチョコをかき回す。ミルクと混じりカフェオレ色になったチョコは、トロリと揺らいですぐに元に戻った。いつのまにか曲はまたサビの部分に戻っている。
"You have never been ......"と伸びのあるvoiceがジーンの背中を叩き、彼女の視線を落とさせた。
私はあの時、何が何でも止めるべきだったんじゃないか?
You have never been でも何でもいいから、行かないでと訴えて。
みっともなくても、相手を困惑させてでもいいから。
チョコレートの甘い香りも、度々己の中に沸く悔恨の念を癒してはくれない。危険な戦場に赴く彼に渡せたのは、チョコレート一つだけ。もう少し気の利いた物は渡せなかったのかと自問する日が増えたのは最近だ。そう、パトリックからのメールが途絶えた頃からの話だ。
火を止める。チョコを一匙すくい指に取る。舌に乗せたそれは甘く、そしてほろ苦かった。
******
週が明けたバレンタインデー当日、ジーンは義理チョコを配る人と化した。と言い切ると語弊があるが、それくらい仕事の合間にチョコを配っていた気がする。可愛らしくラッピングされたチョコをもらうと、男性は笑顔になるものだ。
「こういうの日本では何て言うんだっけ......ジョシリョク?」
「よく知ってるわね、そんな単語」
女子力なんて一般的には知らないはずの日本語だ。
「娘が教えてくれたんだよ。最近、日本のサブカルチャーが高校で流行っているらしくて」
「あー、なるほど。じゃあバレンタインデーのチョコにも区別があるのは知ってる?」
「ホンメイ、ギリ、あとfriend choco」
「正解」
答えつつ、ジーンは鞄にしまった本命チョコのことを考える。作りはしたが、実のところ処分に困っている。渡す相手は三ヶ月前にメールが途絶えたきり、消息が知れない。祈りにも似た想いで作りはしたが、食べてくれる相手もいないのに作った自分が馬鹿に思えてきた。
そのもやもやした気分が晴れないまま、ジーンのバレンタインデーは過ぎていく。
顔のうわべに笑顔を浮かべ、何でもないようにしながら仕事をして。週末の予定を無理矢理考え、気を紛らわそうとして。
"ちっともバレンタインデーなんて楽しくない"
けれども自分を誤魔化すには、少々抱えている物が大きすぎた。退社する頃、ジーンは自分の顔に貼り付いている憂鬱にうんざりせざるを得なかった。
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夜八時の都会の喧騒をくぐり抜け、ジーンはある部屋の前にいた。古ぼけた木製のドアはペンキで白く塗られて誤魔化されてはいるが、金具の錆びまでは隠せてはいない。
ここにくる勇気も理由もなく、一年が過ぎていた。特に理由も無いまま、ジーンはコートのポケットの鍵をもてあそぶ。この部屋--パトリックの部屋の鍵だ。ずっと持ってはいるが、この一年使ったことはない。勝手に恋人の部屋に入るのは気が引けたし、何より自分が惨めになりそうで嫌だった。
自分は何をしているんだろう。
フウ、とため息を漏らす。右手の紙袋がかさりと揺れた。当ての無い本命チョコを持ってきたものの、目の前の扉は固く閉ざされたままだ。
「嘘つき」
一年後に帰ってくるって言ったのに。
いや、彼を責めても仕方がない。パトリックはきっとベストを尽くしたのだろう。空港で別れ際に交わした約束を守ろうとしたはずだ。彼は義理固い男だから。
ただ......それが実を結ばなかっただけだ。
急に途絶えたメールが意味することが分からないほど、ジーンは世間知らずではない。ウクライナか中東か分からないが、戦場カメラマンとして赴く。それが抱えるリスクは承知して、それでも納得して付き合っていたはずだった。
You have never beenなんて言わずに物わかりのいい女を演じて。ただ信じて、見送って......少しは慣れていたはずなのに、今日は何故か酷く辛い。
もう帰ってはこないのだろうか。
冷静に考えれば、帰ってくる見込みは薄いだろう。無事ならばメールの一つも寄越すはずだ。それすら無いということは嫌でも最悪の事態を想像させる。
涙が滲みそうになるのを堪える。長くはここにはいられそうもない。
紙袋をドアの前に置き、ジーンは身を翻した。ここに来るのは多分、これが最後だ。
「Good evening 」
ジーンの足を止めさせたのは、聞き覚えのある声だった。立ち去りかけたアパートメントの玄関のすぐ外に、一人の男が立っている。年季の入ったミリタリージャケットに身を包み、その足元には大きなトランクが転がっていた。
「あ......」
「あって何だよ。ちゃんと一年ぶりに帰ってきたぜ?」
男は無精髭を撫でながら片眉を上げる。ジーンの口から「何で寒いのに中に入らないのよ?」と自分でも訳の分からない質問が飛び出し、男は「聞くとこそこなの?」と笑った。
「久し振りに戻ってきた我が家を外から見てたんだ。寒いからボチボチ入ろうとしたら、君がいたってわけ」
「っ......戻るなら戻るって連絡くらいくれればいいのに」
つい恨みがましい口調になるジーンに、パトリック=ライナーハルトは両手を挙げた。降参のつもりらしい。
「いやあ、数ヶ月前にさ。銃撃戦に巻き込まれてね」
え、と言うようにジーンの目が見開かれた。
「まあ怪我は掠り傷で済んだんだけど、スマホが木っ端微塵になってさ。やー、危なかったな」
「ご、ごめん。まさかそんな事態になってるなんて思わなくて......というか、連絡もないし、私......」
それ以上ジーンは何も言えなかった。気がついた時には、彼女の視界にはミリタリージャケットしか無かった。ああ、抱き締められてるんだなという実感が背中に回された手の感触に追い付く。
自分もパトリックの背中に手を回す。おずおずと、でも少しずつしっかりと。
「I'm back」
「うん」
「一年前の約束、守れたろ?」
「......うん」
張り詰めていた糸が切れたのか、ジーンは急に疲れを覚えた。そっと目を閉じ、戻ってきた恋人の胸に頬を寄せる。夢なら醒めないで欲しいと願い、けれどこれは夢ではないと嬉しくなる。
「ねえ、パトリック。今日、チョコレート作ってきたのよ。あなたの部屋の前に置いてるんだ」
ジーンの言葉にパトリックは目を丸くした。驚かされっぱなしだったジーンにとっては、少し痛快でそしてとても満足な瞬間だった。
そう、行かないでと言えなかった彼女が出来たことは一つだけ。帰りを信じて待つことだけだった--けれど、それは無駄では無かった。
「食べながら話してほしいな。あなたが見てきた世界を」
「--ああ。ありがとうな、ジーン」
バレンタインデーの夜は更けていく。チョコレート色のビタースイートな想いを溶け込ませながら。




