表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒ノキ書  作者: I-pur
1/5

小説家

 部屋の中の灯りは机に置かれたちっぽけなスタンドライトと私の前に置かれた古いワープロが放つそれだけであった。私の左側の壁に掛けられた円状の時計はコツコツと、ひどく規則的なリズムを持って自らに与えられた職務を全うしている。そんな部屋の中、私は独り机に向かい黙々とキーボードの上に指先を走らせている。

 ワープロの隣に置かれたマグカップ、その中に注がれたブラックコーヒーを一飲み、……不味い、とてつもなく不味い。妻にコーヒー豆を変えるように云っておいたはずだが……、後ろで眠っている女性にしかめつらを向ける。

 結婚して今年で六年になる妻と私……、二人の間に未だ子供はいない。お互い、確かに子供を欲する感情はあるのだが経済的な問題故にまだその願望は叶っていないというのが現状だ。

 二人で寝るには小さすぎるシングルベッドの上、彼女はそこで驚くほど無防備な顔で眠っていた。

 私はその無防備加減に思わず感心する。というのも私は眠るのが嫌いなのだ。別に昔からそうであったわけではない。私が眠らなくなったのはつい、ここ最近、一年ほど前からだろうか?

 目を閉じて眠りにつくと次の瞬間には驚くほどに膨大な時間が経過している、私にはそれが与えられた限られた時間を一瞬にして消費しているような気がして、たまらなく恐ろしかった。もちろん全く眠らない、というわけではない。それでも、数日に一度、二、三時間程度の仮眠を取るくらいで、当然そんな生活が平気というわけでもなく、時折意識が朦朧として倒れそうになることもあるが、それすらも耐えることができるほどに私は眠るという行為を嫌悪していた。

 時刻は深夜二時、私はこの眠らない時間を利用して仕事である小説の執筆に勤しんでいる。仕事である小説の執筆……、とは云ったものの、小説家としての仕事は決して普段から充実しているわけではない。今回はたまたま知人の編集者のツテで、雑誌に掲載する短編の仕事をお情けで恵んでもらったに過ぎない。私の小説家としての稼ぎは本当に侘しいものである。

「お前の書く小説は全く面白くない」

 それは私が書いた作品を編集者の知人に見せる度に決まり文句のように云われる言葉だった。名前を佐野健一という彼は大学時代からの友人で、いつも銀縁眼鏡を掛けている、歳は私と同じ三十のやや肥満気味の男だ。

「お前の書く小説はただ、だらだらと自分の心情を投影したような抽象的な描写を書き連ねているだけだ。書いている本人はそれが楽しいのかも知らんが読者側にしてみればそんなもの読まされても退屈なだけなんだよ。何度か物語を書いて見せてくれたことがあっただろう?ああいうのをもっと中心的に書けばお前ももう少しは売れるのに」

 そう云ってつまらなさそうに原稿をペラペラと捲る彼の姿を何度見ただろう。

 ふと、キーボードを叩く手を止める。現在書いている小説の内容、それは眠ることなく小説を書き続ける小説家の話という、ほとんど自嘲のようなものだった。こんなものばかり書いているから売れないんだと自分でも思う。そろそろ知人も呆れて仕事を寄こさなくなるかもしれない。しかし私は再び、そのなんの面白みもない小説を書くことを続ける。

 眠ることなく小説を書き続ける男……、ではその男が書いている小説の内容はどうしようか?私は暫く頭を悩ませた後、少々冗談めいたことを思いつく。小説の中で男が書き続けている小説、さらにその中でも眠らない男が小説を書き続けている。では、その男が書いているのは?もちろんそれも同じだ。

 その生産行為は際限を知ることなく続き、次々に私の分身が生まれ続ける。やがて、一時間も経った頃にはワープロの画面にとても小説とは呼び難い単調な文章が羅列されていた。同じ文ばかりを何度も繰り返したおぞましい、そしてどこか美しい、そんな文章の羅列……

 そのとき、酷い吐き気と眩暈に襲われるのを感じる。ずっと眠っていないせいだろうか?いや違う、これは恐らく私自身がこの現象に酔ってしまったのだ。私の指先によって新たな命を得た”私達”が、果てしない奥行きを持って無数に存在している……、まるで合わせ鏡のようだ。その最果てを覗こうとすると気が狂いそうにもなる。

 静かだ……、気がつくと部屋の中は恐ろしく静かだった。妻の寝息すら聞こえないことを不審に思い、彼女の方を振り返る。

 二人で寝るには小さすぎるシングルベッドの上、そこには誰もいない。……当然だ。何を寝ぼけていたんだ、私はずっと独身じゃないか。いったい、いつから自分に妻がいるなどと錯覚していたのだろう?眠るのをやめたあの日から?それとも、この小説を書き始めた……

 そもそも、私に佐野健一などという知人はいただろうか?短編の依頼など本当にあっただろうか?ならばなぜ、私はこんな小説を書いているのだろうか?

 苦痛と快楽、異常と正常が混ざり合った曖昧な思考の中で、私は自らが造り上げた分身達を静かに見つめていた。彼ら……いや、私達はひたすらに、機械的に文章を書き続けることに真摯であった。この行為に終わりはあるのか、もし終わるとするならばどのような終焉を迎えるのか、それは私自身にもわからない。

 思い立ってふと、天井を見上げる。するとそこにはやはり、眠ることなく、眠らない小説家の話を書き続ける一人の男の姿があった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ