夜の彷徨
身体が沈みこむ様な、ひとりがけの肘掛椅子に深く腰かけて、凪いだ夜の海を見つめる。
ランプの灯は全て落としてあるので、部屋の中を照らすのは、丸い月明かりだけだ。
長い足を無造作に組み、サイドテーブルに置かれたマラカ酒を煽った。
荒海に出る漁師達が凍えるような船上で飲むこの酒は、慣れない者なら吐き出すほど強い。もっとも幼い頃からこっそり船に潜り込んでいたイエルトは、船長に怒鳴られながらもいつの間にか船員達に可愛がられ、その酒を軽く飲み干す程鍛えられていた。
そもそも王族が下戸では話にならない。外交も仕事の内である。
マラカの実の強烈な苦味が喉を焼き、胃の腑に落ちていく。
サイドテーブルには、もうひとつ、薄く折り畳まれた紙片も置いてあった。
侍医がエリンを診た後、最後に躊躇いながら言った言葉が耳の奥に蘇る。
『あの少女には、もしかしたら…何らかの魔法がかかっているかもしれません。仮にそうだとしたら、私には管轄外ですが』
この世界に『魔女』は存在する。市井における辻占や薬師から始まって、人にはない能力を持つ者、人目を避けて錬金術に勤しむ者など様々だ。基本的に、表立って世間を騒がせたり人に害をなそうとしない限り、為政者としては不干渉が暗黙の了解となっている。
(魔法ねぇ…)
イエルトは胸の中で独りごちた。
今の時期、国にとって一番不穏なのはやはり王子の結婚だが、エリンが何らかの企みや、例えばイエルトの暗殺を謀って現れたとは考えにくい。もしそうだとしたら、今までいくらでも機会はあった筈だ。
実際、今回の政略結婚を望まぬ者がいないわけではない。鉱山の所有権を独り占めせんと、水面下で蠢くものは多々あった。父の心配も、あながち杞憂とは言いきれまい。
けれど、エリンから政治的なキナ臭さは感じられなかった。
もちろん、うまく演技している可能性もあるだろう。しかし、彼女は刺客にしてはあまりに一途で不安定過ぎる。
巫女の血をひく家系の母親を持つイエルトには、相手の本質を見抜く生まれついての素養があった。決して己を過信する事はないが、その勘は大抵外れない。
イエルトを見上げる、淡い碧の瞳。物言わぬ桜貝の唇。抱き締めた細い肩。すがり付く白い指先。
彼女が全身で語る想いに、気付かぬ訳がない。海を無心に見つめるいたいけな頬や、パッと溢れる無邪気な笑みに、何も感じなかったと言えば嘘になる。
更に琥珀の酒を煽りながら、額に手の甲をあてて目を閉じた。
折りたたまれた紙片の中身はもう分っている。彼の推論を裏付ける情報が、放った密偵より届いていた。
魔女はいても、人魚はいない。賢明なイエルトは、当然その事も知っている。
(エリン、人魚はいないんだ。海に還って二度と戻らない)
最後通牒はイエルトが差し出すべきだろう。
我知らず、自嘲の笑みがこぼれた。
(参ったな。本気になるつもりなんてなかったのに―)
◇ ◇ ◇
秋も深まり、浜辺にどこからか落ち葉が散り始める。
その陰から虹色の貝殻を見つけて、エリンははしゃいでいた。彼女は本当に海が好きで、海原の前に立つ度に頬を上気させるのだ。
朝陽に透かして薄い貝殻に目を細める。
「エリン」
イエルトの優しい声がその動きを遮った。
あどけない顔でエリンは振り返り、イエルトのそばに来てにこにこと笑った。
「もうすぐ冬が来る」
彼女の外套の襟を合せながら、抑えた声でイエルトは囁く。
「その前に―、山道が雪で閉ざされる前に、僕のところに花嫁がやってくるんだ」
彼女の手のひらから、砂の上に音も立てず貝殻が落ちた。
「以前から決まっていた事でね、とても美しい姫君だよ。君もきっと気に入る」
淡々と語るイエルトの言葉に、エリンの体は凍りつく。ずっと聞こえていた筈の波の音がなぜか遠くなり、彼女の耳に聞こえなくなった。
海の青を映したような瞳が、大きく揺れて王子の顔を見つめている。
(ソノヒトヲ、アイシテイルノ-?)
言葉よりも雄弁な想いを聞いた気がして、イエルトは囁く様な声になった。
「たぶん、かけがえのない人になると思う」
その瞬間こみ上げた激しい感情に、考えるより先に体が動いていた。彼の外套の胸元をつかみ、何度も大きく頭を横に振る。
「エリン!?」
(チガウ、チガウ、チガウ-!!)
「落ち着いて、エリン!」
暴れる勢いで彼の頬を包み込んで引き寄せ、無理やり唇を押し付けた。
唇に伝わる柔かい感触に、おぼれそうになるのを、イエルトは必死で抑え込む。
嵐に-
巻き込まれる。
息をすることさえ苦しくなってしまう。
抗わなくては。
溺れてしまうわけにはいかない。
彼女は違う。イエルトの人魚姫ではない。―人魚姫にしてしまう訳にはいかない。
「-だめだよ、そんな事をしちゃ」
必死にしがみ付く小さな手を、そっと引きはがした。
溺れそうになっているのは彼女も同じだった。海から、水の中から引き揚げなくては…
「不安になるのはわかる。でも安心して。記憶が戻らなかったとしても…君の正体が何だろうと、君の事は僕が守るから」
あくまで優しく諭す口調だった。
「そんな顔をしなくても、大丈夫だよ。君は僕の大切な妹のようなものだ。きっと彼女も大切にしてくれる。だから…エリンも祝福してくれるだろう?」
どこまでも穏やかな、けれど有無を言わせぬイエルトの言葉に、エリンの心の奥は闇に閉ざされていく。
ダメなの?
どうしても、あなたは-
どこまでも冷静なイエルトの姿に、必死に気持ちを立て直した。
一歩後ろに引いてゆっくりと屈みこむと、足元に落ちた虹色の貝を拾い直す。砂を払って、イエルトの手の上に差し出した。
「くれるのかい?」
震える唇で必死に笑みを作ると、エリンはこくんと頷く。
「ありがとう。きっと彼女にあげたら喜んでくれる」
微笑む彼に、もう一度笑ったつもりだった。けれど、いつの間にか血の気が引いて、足に力が入らない。よろめいたエリンを支えて、イエルトはそのまま抱き抱えた。
「寒いのかい? 風邪をひくといけないから、もう帰ろう」
心配そうな彼の声にこくりと首をふる。彼の顔を見る事が出来なくて、城に帰るまでずっと胸に顔をうずめていた。他にどうすればいいのか分からなかった。
分ったのはひとつだけ。
もう、ここにいる事はできないのだ。
◇ ◇ ◇
その夜は珍しく政務もなく、王子は早めに床に就いた。
わざとバルコニーを開けておいたのは、風が入りやすくする為だ。秋の風はまだまだ心地よい。人の気配を感じたくないからと、立哨の衛兵も酒をやって下がらせた。王子の気紛れに慣れている近衛の青年は、心得たように立ち去った。
半ば開け放たれた窓から、波の音だけが子守唄の様に聞こえてくる。
月は細い新月で、秋の星座の方がキラキラと瞬いていた。
やがて、バルコニーの扉がわずかに開き、細い影が寝室に入りこむ。
長い金の髪は、邪魔にならぬよう丁寧に編み込んであった。
片手には細身の短刀が光っている。
いつもの無邪気な少女とは思えぬほど、冷たく凍った顔のエリンが立っていた。
そっと寝台の天蓋をめくり、するりと寝台に潜り込む。
部屋の主は穏やかな寝息を立てて、窓際寄りに横になっていた。
起こさぬ様、その頬にそっと触れる。
息を殺し、しばらくその気品溢れる顔を眺めていたが、こみ上げる何かに押され音もなく口づけた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―)
彼が悪いわけではないと分っている。
自分が愚かなだけなのだ。
望むべきでないものを望み、多くを振り切ってここまで来た。
生国で心配そうな顔をした皆の顔が、遠くいくつも浮かぶ。幼い頃の無邪気な彼女を知り、愛してくれたひとたち。彼らがこの事を知ったらどんなに嘆くだろう。
それでも-
ただ彼に会いたかった。
会って、確かめたかった。
彼の望み、彼の想い、彼がいとおしむ全てを知り、その対象に自分がなりたかった。
そして、仮の姿でありながら、彼と過ごした時間の甘さに、胸が痛くて堪らなくなる。
愛されていると錯覚する程に、彼は優しかった。
それは彼女が望む形ではなかったけれど。
――妹に、なれれば良かったのだろうか。無邪気に、彼の幸せの望むだけの存在になれれば…
しかし、もう時間がない。できる筈もない。
彼の花嫁と並び立つ事は、エリンには許されていなかった。
このまま姿を消せばよいのかもしれない。
元々彼にとってはどこの馬の骨ともわからぬ娘だったのだ。束の間の妹の様な存在など、いずれ遠からず忘れるだろう。
だけど-
心に潜む暗闇が、彼女の中で殺意となって膨れ上がる。
(決して自分のものにならないのなら…、ずっと、他の人を愛する姿をみるくらいなら…)
胸が引き千切れるように痛かった。
(せめて、もう少し違う形で出会えたら…)
有り得ぬ可能性に、自虐の笑みが零れ落ちる。この嵐のような恋が、信じられぬほど彼女を変えてしまった。もう、後戻りはできない。
(さようなら。イエルト王子…)
短刀の柄を逆刃に持ち、両手で握り込んで頭上に持ち上げると、心臓めがけて振り下ろす。
思わず目を瞑ってしまったのがいけなかったのかもしれない。
振り下ろされた手は、眠っていた筈の彼の大きな手に寄って、その動きを遮られていた。
短刀を握る両の手首を片手で掴み、思いのほか強靭な力で彼女の動きを封じながら、彼は寝台の上に身を起こす。
醒めた目、押し殺した声が、彼女の存在を静かに暴きだした。
「そんなに…望まぬ結婚でしたか? ―アデリエル姫」
彼が発した言葉より数秒の差を置いて、彼女にかけられた魔法が激しい明滅とともに解錠される。
そこにいたのは、エリンと全く違う姿の少女だった。
◇ ◇ ◇
「本当に? 本当に人魚はいるの?」
幼い瞳が彼を見上げ、無邪気に問いかける。
「…ああ。確かに彼女はいたよ。厳密に人魚というのとは違うかもしれないが…海神信仰というのがあってね、海に深く深く潜る事が祈りに通じると信じられていたんだ。彼女は誰よりも深く潜れる巫女だった。つまりそれは即ち誰よりも信仰に厚かったと言う事だ」
そこで彼は遠い水平線を見つめる。彼女の愛した海はもっと紺碧に近い色だった。
船から海に投げ出された彼は、潮の流れに乗ってかなり南の海に運ばれたのだ。
「彼女のその力によって、海に投げ出された私の一命は取り留められた。同時に-私たちは恋に落ちたんだ…」
「おたがいを大好きになったっていう事?」
「そうだな」
叶わぬ想いだった。いや、叶う事は叶ったが、長くは続かなかった。
恐らくは誰も悪くはなかったのだけど。
「この事は国王陛下には内緒だぞ? こんな御伽噺を話したと聞いたら、呆れてバカにされるからな」
彼は真剣な顔で、立てた人差し指を唇に当てた。
「わかった。ふたりだけのないしょだね」
額を突き合わせ、二人は共犯者の顔で笑った。
サブタイトルはZABNADKの同名曲より。洋名が『mermaid』なのです。