波打ち際
「あそこが、君を見つけた場所だよ、エリン」
イエルト王子は浜辺の先、流木が溜まっている一角を指差した。まだ夏の名残があるとは言え、朝の浜辺は潮風で肌寒い。
エリンは侍女の手に寄って長い金髪を結い上げられ、髪の色に合わせて琥珀色のドレスを着せられていた。焦茶地に金糸の抜いとりのある帯で締められたウエストは、大男ならば両手で掴めそうなほど細い。
(彼女も…これくらいだったかな?)
横目でちらりと覗き、つい、以前一度だけ会った少女と比べてしまうのは、男としての性だろうか。
浜辺を歩く彼女の足は歩き慣れぬかの様に覚束ず、それでも何とか一人で歩こうとしていたが、三度躓きかけた後に諦めてイエルトの腕にすがりついた。
イエルトの肩に届くか届かぬかの背もあの少女と同じくらいだ。
岩場の階段を降りる時だけは、さすがに勾配が急で危なかったので縦抱きに抱き上げたのだが、彼のちょうど頭に当たるふくよかな胸のあたりから早足の鼓動が感じられて戸惑う。首に軽く巻き付けた腕も微かに震えている。彼女の緊張感が伝染りそうになって、手に力が入りそうになるのを堪えた。
見た目どおり華奢で軽い身体だ。
目が合って微笑みかける度に頬を染めて俯いている。
咲きかけのバラの蕾の様に可憐だった。
「どう? 何か思い出せそうかい?」
指差す先に視線を送ったが、エリンは眉根を寄せて考え込んだまま、ゆっくり首を横にふる。
「そう…」
相槌を打ちながら考え込む。
一応近隣の村にも調べの手を入れたが、彼女の傷ひとつない手や侍女に世話される事に慣れた様子を見れば、労働階級の生まれでない事は一目瞭然だった。ある程度富裕の商人や貴族となると、探すのは難しくなってくる。そもそも良家の子女が行方不明ならば、とっくに耳に入っているだろう。あとは訳ありの娘の筋。地位あるものの隠し子や、売られた没落貴族の娘と言ったような。そうなると彼女の存在自体を隠している場合もあるので、おいそれとはつつけない。
イエルトの言葉に肯いたり否定の意を表したりするあたり、耳は聴こえている筈だが、それでも長文になると、言葉を読み取ろうとじっと彼の顔を伺う節がある。この辺りでは珍しい金の髪は、異国のものと思えなくもない。しかし、例えば異国奴隷なら、違法ではあるが持ち主の焼印を入れるのが普通である。イエルトに向ける無邪気で純真な表情を見る限り、奴隷として逃げてきたとも考えにくかった。
沈思黙考するイエルトの様子に不安を覚えたのか、エリンがそっと彼の袖口を掴む。
「ああ、ごめん。大丈夫だよ。きっと君の家を見つけてあげるから」
子供をあやすように、その頭をそっと撫でた。
エリンは何故か、少し悲しげな瞳を見せて、イエルトの言葉にそっと肯いた。
◇ ◇ ◇
それ以来、イエルトの日課だった朝の散歩には、彼女が必ず同行するようになった。
毎朝食事の前に顔を出すと、イエルトの手を取り、必ず海の方を指差すのだ。
「いいよ、行こうか」とイエルトが答えると、ぱっと顔を輝かせて笑う。
生まれたばかりの雛が初めて観たものを親だと思い込むかのように、彼女はイエルトが許す限り後を付いて歩いた。
「彼女の倒れていた海を見る」と言う事が事の解決に繋がるとは、いまひとつ言い難い。そもそも彼女が本当に記憶を失っているのか、もしくは帰りたい場所があるかも謎である。
しかし彼女といるのは単純に楽しかった。
口が利けない分、表情や仕草で感情を丁寧に読み取る。彼女もイエルトが話す時は、一生懸命彼が発する全てを見ようとしていた。外見からすると、せいぜい成人したばかりのイエルトより2,3歳下と言ったところだろうが、表情はそれより更にあどけない。
混じりけのない単純で純粋なやり取りは、普段、修辞や建前にまみれた王子と言う立場にあって、新鮮で心地いいものだったのだ。
「この海にはね、人魚の伝説があるんだ」
語るともなく王子は淡々と語りだす。
「昔々、ある王子が海で溺れかけた。誕生日の夜に客船で祝宴を開いていたら、急に嵐が来たんだ。王子は荒れ狂う海に投げ出され、船の甲板だった板に必死にしがみついて数刻助けを待ったが、とうとう力尽きて沈みそうになった」
遠く、水平線を眺めながら、イエルトは遠い過去を瞳の中に再現しようとする。
エリンはただじっと、王子の声に耳を傾けた。
「その時、一人の美しい人魚が現れて、王子を救ってくれました。おしまい」
唐突な終わり方にエリンはぽかんと首をかしげる。
「おとぎ噺だよ。人魚は海へ帰って二度と現れなかったっていう、それだけの。ただの他愛ないおとぎ噺」
悪戯っぽくイエルトが笑う。
エリンはどこか不満げな顔をしてイエルトの顔を覗き込んだ。
彼の言葉には、おとぎ噺を語る以上の何かが宿っている。例えるなら深い情愛の様な。エリンは敏感にそれを感じ取っていた。
「…ああ、エリンには敵わないな」
彼女の雄弁な瞳は、言葉よりも激しく真実を求めている。
イエルトは苦笑しながら、ぽつぽつと言葉をつないだ。
「うん、本当はね、人魚はいたんだと思う。…そして僕は待っていたんだ。ここでもう一度彼女に会えるのを。だから…君があの浜辺で倒れているのを見た時、彼女が戻ってきたのかと思った」
潮風に目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
「そんな筈ないのにね。…こんな事、皆には内緒だよ? 『一国の王子が何てバカな事を』って、父上あたりカンカンだ」
振り返り、冗談めかして笑って見せるが、その笑みが不意に固まった。彼女もイエルトの言葉に口元が綻んでいる。それなのに―
「…エリン?」
手を伸ばして白い頬に触れる。
「どうして泣いてるんだ?」
問われて初めて気付いた様に、彼女は自分の指で濡れた頬の跡を辿った。
どうして自分は泣いているんだろう?
何かを吐き出そうとしても声は出ず、唇を噛んで、もどかしげに首を横に振る。
「何で泣いてるのか、分からないの?」
彼の的を射た言葉に反応して、見上げた瞳が迷子の子供のようにいとけなく透きとおる。溢れる涙で、海を映したような瞳が見る見る滲んで溺れた。混乱する感情の波をうまく制御できず、ただ涙と言う形で吐き出す事しか出来ない様に、次々涙は溢れてくる。
(ワタシヲミナイデ―)
そんなつもりで彼から遠ざかろうとした身体は、腕を引かれて抱きしめられていた。
突然の抱擁にエリンの身体は一瞬強張ったが、抗う事ができずされるがままになってしまう。
「ごめん、変な話をして」
首の斜め後ろのほうから、くぐもった声が聞こえる。
なぜ彼が謝るのか、エリンには分からない。けれど彼の胸は大きく、その腕は暖かかった。
胸の奥が痛む理由はわかっている。自分はその為にここに来たのだから。
決して告げることの出来ない秘密を胸に抱いて、今この刹那だけの幸福をエリンは噛み締める。
どうしても身体が震えてしまうのは…たぶん、朝の空気が冷たいからに違いない。
「もう戻らないと…」
どれだけの間そうしていたのか、王子の抱きしめる手に力が抜けていくのを感じて、思わずエリンは彼を見上げる。
普段はかき上げている彼の前髪が、風に嬲られて乱れ落ちていた。
その砂色の髪に魅入られたように指を伸ばす。
彼の額に触れるかどうかの距離で指が止まった。
イエルトが、じっとエリンを見つめていた。
そのまま、彼女の指に先を促すように長い睫毛を伏せて目を閉じる。白い指先が、恐る恐る白皙の肌に触れた。
まっすぐな額を滑り落ち、まぶたを経て頬に落ちる。
イエルトは微動だにしないまま、彼女の指先を感じていた。
やがて顎の先でその指が離れると、彼はゆっくりと目を開く。
エリンの大きな瞳が、何かを恐れるように、けれど逸らされることなく彼を見つめていた。
その時不意にこみ上げた衝動に、どんな名がつくのかはわからない。しかし考えるより先に体は動いてしまう。
彼の手のひらがそっとエリンの頬を包み込むと、その額にそっと口付けた。
イエルトの唇の下で、彼女がかすかに震えるのがわかる。
その震えに誘われるように、彼の唇は閉じられたまぶたへ、柔かい頬へと落ちていく。
やがて、ふっくらとした唇にたどり着こうとするその直前、彼は意識を取り戻した。
(ダメだ、今はまだ-)
彼の微妙な変化を肌で感じ取り、エリンはそっと目蓋を開く。
いつもの優しい笑みを浮かべたイエルトが、エリンを見つめていた。
「もう、帰ろう」
彼の囁く様な言葉に、エリンはなす術もなく小さく肯くしかできなかった。
◇ ◇ ◇
「大体お前は今の状況が分かっているのか!?」
相変わらずの父王の大音声に、自室の椅子に長い足を組んで座りながら、就寝前だったイエルトは顔を思い切りしかめた。
そろそろ雷の落ちる頃だと予想はしていたが、解っていたからと言ってうんざりする事にはかわりない。これだけよく響く声の持ち主なら、いっそオペラ歌手にでもなれば良かったのに、と心の中で悪態を付く。
とは言えエリンを拾ってから数週間、短気な王にしてはよく保った方だろう。
父は決して暗愚の王ではない。むしろ歴代の王に比べれば、名君の一人と言っても良いだろう。軍備を強化し、民の識字率を上げ、産業を奨励して国力を豊かにした。半ば強引だとの批判もないではないが、精力的且つ的を射た執政能力は、内外を問わず評価が高い。
当然ながら、その世継ぎであるイエルトに対しても、民の期待と要求は大きかった。
それ自体は決して苦痛ではない。しかし―
「婚礼を控えている事は重々承知していますよ」
天気の話でもする様に淡々と答えた。
「ならばもう少し軽率な振る舞いは避けて然るべきだろう! 供もつけずに若い娘をつれてふらふらと!」
「ふらふらとなんてしてません。歩くのは人目につかない裏の浜辺だけだし、彼女の世話も口の堅い侍女と侍従を厳選してあります」
「当たり前だ! こんな事が先方の耳に入ってみろ、あっという間に破談だわ! 遊ぶなとは言わんが、タイミングを考えろ!」
「考えてますよ。今だからあのこが必要なんです」
どこまでも敢然としたイエルトの態度に、王のこめかみがピクピク震え始める。大体、昔から何を考えているのかよく分からない息子だった。腹芸は王家のたしなみとはいえ、父親としては苛立たしい事この上ない。
「お前が…今回の縁談を嫌がってるとは聞いておらんがな」
意外な事を聞かれて、イエルトは目を瞠った。なぜそういう話になるのだろう。
そもそも今回の婚姻に関して、意向を聞かれた覚えはないが、拒否する権利がない事も知っている。
「嫌がってなんかいません。隣国のアデリエル姫は、才女と名高くおまけに美姫でもある。政略結婚にしては望むべくもない良縁でしょう」
実際一度だけ婚約式で顔を合わせた際、美しくも聡明な姫である事は、二言三言交わしただけでも充分に分かった。
肩先で切りそろえた真っ直ぐな黒髪と、勝気な印象を与える口元。
微妙に発音の異なるイエルトの母国語で流暢に口上を述べたのは、それなりに一生懸命練習したのだろう。努力家でもあると言う事だ。正直、かなり好感を抱いてた。
「ならば、なぜ訳の分からぬ行動ばかりとるのだ。そもそもあの娘の正体は分かったのか!?」
「いえ。まだです」
睨み付ける王の視線を、ひらりと交わして窓の外に眼をやる。夜の海は黒いビロウドの様にうねっていたが、水平線だけが星や月を映してきらめいている。
あの日、このバルコニーで、あの姫は海を初めて見たと言って、微かに頬を紅潮させていた。
その表情だけが、落ち着いた少女を年相応の若さに見せて愛らしさが混じる。
イエルトにとっては毎日そこにあるのが当たり前の風景だったので、驚いた自分に苦笑を浮かべた。なるほど、山と森に囲まれた隣国には海がない。見た事がないのは当たり前だ。
隣国と言っても、かの国と隣接する国境はかなり高い山脈で、親密な国交が始まったのはつい最近の事である。お互いその存在を知っていても、特にその山脈を越えてまで行き来する利益もなく、時折り時候の挨拶の手紙を交わす程度のものだった。
しかし、近年その山脈に鉱脈が発見され、所有権を巡って両国間に緊張が走った。
一寸の手違いでも戦争が勃発しかねない緊張を孕んだ中、回避のために持ち上がったのが今回の政略結婚である。幸いにも年齢も釣り合いが取れている。今までに例を見ないほどの親書を携えた早馬が行き来した結果、この策はもろ手を挙げて両国に支持された。もちろん、鉱脈の細かい所有取り決めを忍ばせての婚姻だ。
「…御安心ください、父上。私とて王族に生まれた者としての使命は心得ております。今回の縁談を台無しにしたりは決してしません」
力強い口調で言い切る王子の言葉に、それでも王は疑わしげな目を向けた。
「お前が決して愚かではない事は知っておる。しかしあの娘はいかん。さっさと片をつけろ。良いな!」
最後通牒を突きつけた王の目は本気だった。イエルトが何もしないのなら、自分が手を下すつもりだと言外に語っている。
(まあ、父上としては当然そうくるよな)
ふと、戸口に人の気配を感じて、次の間に通じる扉をそっと開く。イエルトの私室は奥の間に当たり、次の間は人払いしてあって、誰もいない筈だった。
「おい! 聞いてるのか!?」
而して次の間に人影はない。甘い花の香りが漂うだけだ。
「聞いてますよ。大丈夫、もう少しであの娘は然るべき場所に帰します」
扉を閉じて、王を振り返る。
「その言葉、努々忘れるでないぞ。…いい加減、過去の事は忘れろ」
「…御意」
にっこり笑うイエルトの顔をねめつけ、王は大股に退室する。
一人になって、イエルトは軽く嘆息した。
次の間に花は生けていない。
今朝方、エリンの髪に挿した花の香りだと気づき、イエルトは自虐的な笑みを浮かべる。
(過去は忘れろ、か…。僕達にはもうあまり時間がないね。どうしようか、エリン―?)
去来する様々な思いを胸に、イエルトは再び椅子に深く腰掛けると、夜の海をずっと眺め続けていた。