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沈黙の少女

 暗がりに、老婆の愉快そうな声が響く。

 目深に被ったフードに漆黒のローブ、皺だらけの口元と折れ曲がった鷲鼻。水晶玉をさする小枝のようにひび割れた指には、大きな石の指輪がいくつも嵌っている。

 彼女は魔女だった。

「―まったく、あんたみたいな賢い娘が私のところに来るとはねえ?」

 魔女は娘の正体を知っていた。高貴な生まれである。魔女のようにいかがわしい存在の元に来るような立場ではないはずだ。しかし、客を選ぶ気はない。寧ろ舞い込んできた珍事は、彼女の退屈な生活を紛らわすには絶好のネタだった。

 揶揄する口調に、それでも水晶の向こうにいた若い娘は固い口調を崩さなかった。

「どうしても…あの方に会って確かめたい事があるの」

「ほっほっほ、なかなか健気で結構。恋する娘はそうじゃないとね」

 そんなんじゃ、と言いかけて、喉の奥で飲み込む。

 魔女の言う事は当たっている。

 娘は恋をしていた。

 娘の声とは裏腹に、魔女はおかしくて仕方がないと言った風情だ。まったく、恋情ほど人を愚かな方向に突き動かす感情はないだろう。若い娘となれば尚更である。

「ただし、…解っているね? この薬を飲めば、あんたは口が利けなくなる」

「ええ」

「そして、もしあんたの正体が誰かに―、彼の王子にばれる様な事があれば…」

「解っているわ」

 魔女に最後まで言わせることなく、悲壮な覚悟を胸に秘め、娘は肯いた。

「まったくねえ、長生きはしてみるもんだ。こんな愉快な事はそうそうないよ。姫、あんたの幸運を祈ってるよ」

 もちろん、幸運なんてありえない。娘の賢い頭では、分かりきった事だった。

 それでも―彼女は彼に会いたかった。

 老婆は懐から小瓶を差し出すと、娘に手渡した。

 魔法の薬が入った小瓶を握り締めると、娘は音もなく魔女の住処を後にした。


   ◇   ◇   ◇


 浜辺の散歩は、イエルト王子の毎朝の日課である。

 断崖絶壁に立つ古式勇壮な城から、人に知られぬ細い自然の階段を下りると、緩やかな浜辺に続く小道があった。この浜辺は王地領なので、漁師達も来ない。見晴らしがよく刺客の潜む場所もないので、一人で過ごすにはいい場所だった。

 美女として名高かった母親似の王子は、どちらかと言えば女顔で繊細な印象を見る者に与えるが、実はそれなりに腕も立つ。

 浜辺の散歩も、足腰の鍛錬と言う建前に基づいていた。

 もちろん言い訳である。

 世継ぎの王子としての多忙な日々や、様々なストレスをクリアしリセットするには、一人になる時間が必要だった。

 そして、遠い思い出に想いを馳せる事も。

 彼は人魚の夢を見る。

 その昔、この国の王子を助けて去っていった人魚が、戻ってくる日を夢見ている。

 御伽噺だと、痛いほど認識していながら、心の奥底だけでそんな夢を見るのを自分に許していた。

 なぜなら、その夢にタイムリミットがあることも分かっていたからだ。

 夢が終わる日は近付いている。悲しくはないし、辛くもなかった。

 浜辺をゆっくり歩きながら、穏やかな水平線に視線を投げる。昨夜の嵐が嘘の様に海は凪いでいた。いつもなら、その海に異変がないことに、軽い失望を覚えるところだ。

 しかし、その朝はいつもと違っていた。

 まぶしい朝日が反射する浜辺に目を凝らすと、見慣れぬものが打ち上げられている。

 初めは魚かと思ったが、それにしては大きかった。

 海からの漂着物は珍しくはない。特に嵐の後は色んなものが流れ着く。

 だから、近付いたのは単純に好奇心だった。

 そして、その固まりが波打つ金の髪と一糸纏わぬ白い裸身だと認識できたのは、その直後の事だった。

 

 (エリン―)


 王子は心の中で、彼の人魚の名前を呼んでいた。


  ◇   ◇   ◇


 「イエルト! イエルトはおらぬか!!!」

 尖塔が並び立つ堅牢な城いっぱいに、王の怒鳴り声が響き渡っていた。

 同時に石床を叩く激しい靴音も響く。後ろからおろおろと侍従も小走りでついてきていた。しかし、王を止めるには及ばない。

「裸体の娘を連れ込んだと言うのはまことかぁ!!!!」

 怒声を上げながら、王子の私室に踏み込む。

 部屋の主は、柳に風と言った風情でにっこり父親を迎え入れた。

「これはこれは、父上。ご機嫌麗しゅう」

「麗しゅうないわ! 聞いたぞ! 若い娘を城に連れ込んだと言うのはまことか!!」

「人聞きの悪い。浜辺で気を失っていたから、介抱する為に連れてきただけですよ」

「む! 本当か!?」

「それともなんですか? 傷つき倒れていたものを見過ごせと?」

「む! いや、それは…!!」

「大体、父上のように大声で触れ回る方が、よほど外聞に悪いと存じますが」

「いや、しかし!」

 反駁しようとする父王の声を遮るタイミングで、奥の寝室から恰幅の良い侍医が顔を覗かせた。

「殿下、娘が目を覚ましました」

「あ、そう。今行くよ」

「おい! イエルト! 話はまだ…」

 王を無視してイエルトは視線で侍医に先を促す。恐れながらと、医者は今診た患者の様子を告げた。

「しかし、彼女、どうも口と記憶が…」

 侍医の潜めた言葉にイエルトは形のいい眉を顰める。

「―分かった。ご苦労でした」

 王子は思慮深く目を細めると、首を振って侍医を退室させた。

「おい! イエルト!」

「だから大声は控えてください。病人に響きます」

 あっさり無視され続け、尚且つ問答無用で押し返されて、王は顔色を失う。しかし、王子の方が一枚上手だった。

「お話はまた後で。彼女を見舞ってきます。身元を確かめねばなりませんし」

「お前がやる必要はないだろう」

「私が拾ったんです。責任上、ちゃんと私が面倒を見ます」

「しかし!」

「解った事はすべて報告いたします。では、父上、後ほど」

 王の目の前で寝室の扉が閉ざされる。

「む~~~~!!」

 腹立たしい事に、王子の言い分はいちいちもっともだった。しかもこの王子は、言い出したら決して聞かないのだ。優しげな顔をして、実は相当頑固者だった。血は争えないと言う事だ。

 無理を通そうとすれば拗れるのは必至だろう。

 とりあえず、現状は把握した。あとは報告を待つしかあるまい。

 そこまで思考すると、王は悔し紛れに舌打ちを打ちながら、踵を返して王子の部屋を退室する。従者が慌てて後を追いかけていった。


   ◇   ◇   ◇


 海に面した寝室のバルコニーは窓が開け放たれており、寝台を覆う天蓋のレースを揺らしていた。

 大人が5人は寝れそうな広いベッドの真ん中で、少女はいくつもの枕を背に、寝間着姿の半身を起こして身体を預けていた。

 美しい少女だ。長い豊かな金髪。きめ細かい透き通るような肌。白い首は水鳥の様に細く、手足も細い。けれど、娘らしい丸みも充分にある。抱き上げて運ぶ時は裸体を慮り、騎士道として自分の上着をかけたが、それでも布の下のしなやかな皮膚が形作るものは感じられた。

 まっすぐ通った鼻梁とふっくらとした唇が、上品さを醸し出していた。

 金の睫毛に縁取られた、大きなマリンブルーの瞳が、不安げに揺れている。

「大丈夫? どこも痛くない?」

 イエルトは優しい表情で問いかける。

 少女は声もなく肯いた。

「そう、良かった」

 王子の柔らかい笑顔に、少女の頬がほんのり赤く染まる。

「何故あそこに倒れていたか、覚えているかい?」

 彼の問いに、少女は悲しげに首を横に振った。

「じゃあ、自分が誰かは分かる?」

 どこまでも優しい声に、少女は必死に考え込んだが、やはり答えは出ない。

「いいよ、無理しなくて。少しゆっくりしたら思い出すかもしれないしね。それまでここにいればいい」

「………」

 萎縮するような見上げる瞳は、いいのか、と問うているのだろう。

「大丈夫。ちゃんと僕が守ってあげるから」

 腰を落とし、目線の高さを合わせて約束を口にする王子に、ますます少女の頬は赤くなる。

「そうだね、でもとりあえず、呼び名は決めた方がいいかな。名前がないと不便だし…」

 王子はそう言いながら、窓の外に眼をやった。潮風が波の音を運んでくる。

「僕が適当に決めて構わないかい?」

 少女は眩しそうに彼を見つめると、こっくりと肯いた。

「そうだね、じゃあ…エリンって言うのはどうかな」

 少女は不可思議な瞳で逡巡すると、再度肯く。

「じゃあ、エリン、よろしくね」

 差し出された王子の手をそっととると、少女は初めて零れる様な笑みを浮かべて彼の手を握り締めた。


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