第6章:転移(メタスタシス)の核
ゆっくりと回転した椅子が、斎藤の正面で止まった。
そこに座っていたのは、第一営業部長、真壁という男だった。完璧に仕立てられたアルマーニのスーツ。隙なく固められた銀髪。雑誌の表紙から抜け出てきたような、成功者の見本だ。
だが、斎藤の「目」には、それが人間として映らなかった。
(……原発巣)
フロアに広がっていた「がん細胞」たちの、中心。彼らに栄養(ATP)を供給し、増殖のシグナルを送り続けている、巨大などす黒い脈動。それが真壁の正体だった。
フロアに充満していた、高価な香水と葉巻と、そして「何かが腐った甘い匂い」。その発生源は、間違いなくこの男だ。腐敗を、高価な香りで覆い隠している。
「……人事部の、斎藤だ」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。斎藤は、無意識に、震えそうになる指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。歪んでもいない眼鏡の位置を直すのは、彼が極度の緊張に陥った時の「癖」だった。
(逃げろ)
表層的な彼(Want)が、警鐘を鳴らす。
これは「アポトーシス(計画的細胞死)」で処理できるレベルの異常ではない。組織全体を殺す「がん」そのものだ。冷徹な掃除屋として、安定した給料を得て、静かに生きたい。それがお前の望みだったはずだ。
「ああ、知っているよ。『アポトーシス担当』の斎藤君だろう? ウチの部には、君のお世話になるような『役立たず』は一人もいないがね」
真壁は、爬虫類を思わせる唇で、完璧な笑みを作った。
その声が、斎藤の目には「シグナル」として見えた。どす黒い波紋が真壁から放たれ、フロア全体の「がん細胞(部員たち)」に伝播し、彼らの増殖をさらに促していく。
(これが……佐伯さんの言っていた「歪んだ転写」……)
違う。これは転写(伝達)が歪んでいるのではない。
こいつが、核(経営陣)からのDNA(理念)を「上書き」しているのだ。
『誠実なタンパク質(商品)』を作れという本来の設計図を、『俺(真壁)の利益になるタンパク質(成果)』を作れという、悪性の設計図に書き換えている。
斎藤の視線は、真壁のデスクの上にある、一つのファイルに吸い寄せられた。他とは毛色の違う、簡素なバインダー。「第二開発部・共同プロジェクト」とある。
そのファイルから、細く、黒い「触手」が伸びていくのが見えた。
人事部(34階)や、財務部(30階)とは違う、全く別のフロアへ。
(……転移)
斎藤の生物学の知識が、最悪の単語を告げた。
がんは、原発巣に留まらない。血流やリンパに乗り、遠くの臓器に移動し、そこで新たなコロニー(がんの巣)を作る。それが「転移」だ。
真壁は、第一営業部という「原発巣」を拠点に、会社の他の部署へ、その腐敗を「転移」させようとしている。
(止めなければ)
心の深層(Need)が、恐怖に凍りつく「Want」を抑え込んだ。
ここで逃げたら、佐伯の死が無駄になる。ここで目を背けたら、自分は生物学からも、自分の人生からも、再び逃げることになる。
斎藤は、震える指先を固く握りしめた。
そして、貼り付けた無表情の仮面の下で、持てる限りの冷徹さを声に込めた。
「真壁部長。あなたの部署は、確かに『活発』のようですね」
「……何が言いたい」
真壁の笑みが、わずかに消えた。
「いえ。ただ、生物学的に言えば、ですが」
斎藤は、眼鏡をもう一度、カチリと押し上げた。
「制御不能なほど急速な『成長』は、多くの場合、破綻を意味します。それが自己増殖のためだけのものであれば、なおさら」
「……」
「組織全体の栄養を食い荒らし、最終的に宿主(会社)そのものを殺す。――私は、その『プロセス』を観察し、記録するのも仕事なもので。定期監査(検診)に伺いました」
真壁の「細胞」が、不気味に脈動するのが見えた。怒りか、あるいは驚きか。
斎藤は、一礼すると、足早にフロアを後にした。
背中に、原発巣からの強烈な「殺意」のシグナルが突き刺さるのを感じながら。
(第二開発部……)
エレベーターの中で、斎藤は震える手でメモ帳を開いた。
真壁(原発巣)を直接叩くのは不可能だ。だが、「転移」の先なら。
(まずは、あの「転移」の芽を摘む)
プロットの「小さな成功(チートの試運転)」への、第一歩だった。




