第5章:病巣(がん)
斎藤は、水上恵那から受け取ったフロアマップを握りしめ、エレベーターホールへと向かった。
(第一営業部が、黒く侵食されている……)
それは、彼が病院で見た、自分の内側にあった小さな「塊」――彼が「恐怖」の比喩だと感じた、あのどす黒い光と酷似していた。
(まさか)
生物学の知識が、最悪の可能性を叩きつける。
がん細胞。
核(経営陣)からの正常なシグナルを無視し、自分勝手な増殖(利益の追求)だけを繰り返す。周囲の正常な細胞(社員)から栄養を奪い尽くし、やがては組織全体を死に至らしめる、悪性の新生物。
斎藤の背筋を、冷たい汗が伝った。
(俺は、アポトーシス担当だ。計画的に細胞を処理する……それだけが仕事のはずだ)
これが、斎藤が抱える最大の「矛盾」だった。
表層的な彼(Want)は、これ以上面倒事に巻き込まれず、ただ冷徹な「掃除屋」としての役割をこなし、安定した生活を望んでいる。
だが、彼の深層(Need)――生物学の徒としての探究心と、佐伯から託された「組織の病理を見抜け」という言葉――が、この異常事態を放置することを許さない。
36階。エレベーターのドアが開く。
途端に、空気が変わった。人事部の澱んだ匂いとは違う。そこは、高価な香水の匂いと、微かな葉巻の残り香、そして……何かが腐ったような甘い匂いが混じり合っていた。
フロアは異様なほど静かだが、活気に満ちている。ただし、それは「健康な活気」ではなかった。
斎藤が、その光景を「目」で捉えたとき、思わず息を呑んだ。
(なんだ、これは……)
営業部員たちは、全員が高級なスーツを身にまとっている。だが、彼らの「細胞」は、おぞましい姿に変貌していた。
一人ひとりが、正常な細胞の何倍にも肥大化している。そして、その身体(細胞質)から、まるで捕食者のように「触手」を伸ばし、互いに絡み合っているのだ。彼らは巨大な一つの「塊」――がんの浸潤――を形成していた。
彼らは、会社のネットワーク(血管)を通じて、財務部から異常な量の**ATP(予算)**を吸い上げ、それを自分たちの肥大化だけに注ぎ込んでいる。
そして、その「がん」の中心。フロアの最も奥にある部長席に、一際巨大な「それ」は鎮座していた。
斎藤の視界に映る「それ」は、もはや人間の形を成していなかった。どす黒いエネルギーの塊が、不気味に脈動している。
斎t藤は、震える唇を噛みしめ、視界が滲むのを堪えた。
(違う。これは『変な家』どころの話じゃない)
佐伯が言っていた「歪んだ転写」の正体。
会社の設計図(DNA)が腐っていたわけではない。
この「がん」が、設計図(理念)を書き換え、会社全体を乗っ取ろうとしている。
「――どなたかな、君は。人事部の人間が、ウチに何の用だ?」
声の主が、ゆっくりと椅子を回転させた。




