第3章:新しい視界
佐伯が会社を去った日、斎藤は初めて無断欠勤をした。
彼を突き動かしていた何かが、プツリと切れた。恩師一人救えない自分が、「組織の病理」などと口にする資格があるのか。生物学から逃げたあの日から、自分は何も変わっていない。
安酒を煽り、泥のように眠った。
次に目覚めたのは、真っ白な天井の下だった。腕には点滴の針が刺さり、ピッ、ピッ、という電子音が規則的に響いている。
「……病院、か」
激しい頭痛と倦怠感。過労と急性アルコール中毒で倒れ、救急搬送されたらしい。
「あ、斎藤さん、目が覚めましたか」
看護師が慌てたように入室してきた。だが、斎藤は言葉を失った。
(なんだ……あれは)
看護師の姿が、奇妙に二重に見えた。いや、違う。彼女の「輪郭」の内側で、何か半透明の、無数の粒状のものがうごめいている。
「斎藤さん? 気分はいかがですか」
彼女が近づくと、その「粒」の一つ一つが、ぼんやりとした光を放っているのが分かった。活発に動き回り、互いに何かをやり取りしている。
(ミトコンドリア……?)
かつて顕微鏡の下で見た、あのエネルギーを生み出す細胞小器官によく似ていた。彼女の身体は、無数の「元気な細胞」で満ち満ちている。
混乱する斎藤の前に、次に現れたのは初老の男性医師だった。
「斎藤さん、あなたね、もう少しで……」
医師の言葉は、斎藤の耳に入らなかった。彼の目は、医師の姿に釘付けになっていた。
(この人は……)
看護師とは全く違った。医師の輪郭の内側にある「粒」は、どれも動きが鈍く、淀んでいる。特に彼の腹部あたり――おそらくは「肝臓」や「胃」に対応する部分だろう――の細胞群は、まるで光を失い、黒ずんでさえ見えた。
(……細胞が、疲弊している?)
「……先生こそ、少しお休みになった方がいいのでは」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
斎藤は、激しく脈打つ心臓を押さえながら、点滴が刺さった自分の腕を見た。
自分の「細胞」もまた、見えた。いくつかの活発な群れと、多くの疲弊しきった群れ。そして――その中に、明らかに異質な、どす黒い光を放つ小さな「塊」が見えた。
(がん細胞……? いや、違う。これは……)
それは恐怖の表れか、それとも。斎藤の脳裏に、黒岩取締役の顔が浮かんだ。
「……退院します」
「何を言ってるんですか! あなたは絶対安静で――」
斎藤は、医師の制止を振り切り、ベッドから身を起こした。
世界が変わってしまった。恩師を失った絶望の果てに、自分はとんでもないものを手に入れてしまったのかもしれない。
会社に戻らなくてはならない。
この新しい「視界」で、あの巨大な組織を、もう一度「検診」しなくてはならない。




