第2章:歪んだ転写
その通知を見たとき、斎藤は初めて、貼り付けた無表情の仮面に隠せないほどの動揺を覚えた。
『早期退職優遇プログラム対象者リスト(勧奨)』
そのリストの筆頭に、斎藤が社内で唯一「恩師」と呼べる人物の名前があったからだ。
――佐伯管理部長。
斎藤が生物学の道を諦めてオウロHDに入社した際、彼を人事部に引き入れ、「組織も生物だ。その構造を理解することがお前の武器になる」と教えてくれた男。
「……なぜ、あの人が」
斎藤は、リストの承認者欄にあるサインに目をやった。『黒岩』。人事担当取締役、黒岩。会社の利益のためなら「ネクローシス(組織の壊死)」――すなわち、強引で炎症を伴うような解雇すら厭わないと噂の男だ。
気づいた時、斎藤は佐伯のいる管理部長室のドアをノックしていた。
「やあ、新。お前がそんな顔をして来るとは珍しい。さては、リストを見たな」
佐伯は、窓の外に広がる灰色のビル群を見ながら、穏やかに笑っていた。
「なぜ、受け入れたんですか。あなたほどの人が、黒岩取締役の言いなりになるなんて」
「言いなり、か。まあ、そう見えるだろうな」佐伯はゆっくりと斎藤に向き直った。「新。お前は、この会社がなぜダメになったと思う?」
「それは……経営陣(核)の判断ミスです」
「違うな」佐伯は首を振った。「いや、半分正解で、半分間違いだ」
彼は、壁に飾られた、古びた社是の額を指差した。そこには、創業者の言葉で『社会という生命体に対し、誠実なタンパク質を供給し続ける』と書かれている。
「オウロ・ホールディングスの**DNA(企業理念)は、今も昔も間違っていない。世界最高の、誠実なタンパク質(商品やサービス)**を作ろうという設計図だ。創業者の魂そのものだよ」
「……では、何が」
「転写だよ、新」
転写。核の中にあるDNAの情報を、RNAというコピーに写し取ること。設計図を、実行部隊であるリボソームに運ぶための、最初のステップだ。
「DNA(理念)が正しくても、それを**転写(伝達)**する過程で情報が歪められたらどうなる? 現場は、歪んだ設計図(コピーされたRNA)通りに、不誠実で歪んだタンパク質(成果)を作るしかない。今のオウロHDが、まさにそれだ」
佐伯の目は、黒岩のいる役員フロアを射抜いているようだった。
「誰かが、設計図の読み取りを意図的に歪めている。私は、それに気づくのが遅すぎた。そして、抵抗するには力が無さすぎた」
「佐伯さん……」
「新。お前はその『目』を失うな。組織の病理を見抜く目を」
それが、斎藤が恩師と交わした最後の会話になった。




