崩壊のバレンタイン
二月の空気は、やけに澄んでいて、やけに冷たい。
俺、真壁悠の高校生活は――
冬休みが明けてからというもの、まるで風間大我の手のひらの上を転がされるかのように、ずっと落ち着かない。
そして、ついに来てしまった。
一大イベントの、その日が。
「さあ、生徒諸君! 明日はバレンタインデーだ!」
風間がいつものように教壇に立ち、演説を始めた。
この時点で嫌な予感しかしない。
「今年は『義理でもいいからチョコを渡す会』を開催するぞ! 男女問わず、感謝や好意を自由に表現せよ!」
「自由って言いながら強制じゃねえか……」
「自由とは、選択肢の提示に過ぎんよ、真壁くん。やるか、やられるか。それが青春だ」
どんな理屈だ。
だが、こいつの言葉には、なぜかクラス全体が乗せられてしまう。
詩音は黙って下を向き、理子は「めんどくさ」と言いながらも、どこかそわそわしているようだった。
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放課後。屋上。
俺はぼんやりと空を見上げていた。
「……悠」
声をかけてきたのは、天野理子だった。
夕日を背にしたその顔は、いつになく真剣だった。
「ほら。……先渡し、ってことで」
彼女は、制服のポケットから小さな包みを取り出して、俺に押し付けてきた。
「え、あ……ありがとう?」
「別に深い意味はないから。義理。完全な義理! 勘違いすんなよな!」
「いや、してないけど」
「……だよね」
理子は、わずかに寂しそうに笑った。
「でも、あたしってさ、やっぱ雑なのかなって思う。あんた見てると」
「どういう意味?」
「詩音ちゃんとか、ちゃんと悩んで、ちゃんと考えて、ちゃんと……選んでる感じ、するじゃん。あたし、いつも衝動で動いてばっかで」
「……そんなことないと思うけどな」
「……ありがと。じゃ、先帰るわ」
理子はそう言って、背を向けた。
その後ろ姿が、やけに遠く感じた。
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翌日の昼休み。
俺は廊下で偶然、詩音を見かけた。
彼女は何かを大事そうに胸に抱えていて、俺に気づくと立ち止まった。
「……ちょっと、来てくれる?」
詩音に連れられて行ったのは――
いつもの、図書室の一番奥の席だった。
「……はい。これ」
差し出されたのは、白くて小さな箱だった。
ラッピングは控えめ。でも、それが逆に彼女らしかった。
「……これは?」
「その……義理、とか、友チョコ、とか、そういうのじゃ……たぶん、ない。……と思う」
詩音は言いながら、顔を赤くした。
俺の目を見ないようにしている。
「……なんで俺に?」
「わからない。でも……あなたといると、私、自分の気持ちに嘘つけなくなる。だから……これは、自分用の整理でもあるの」
「……うん」
受け取ったチョコは、思ったよりもずっしりと重かった。
中身の話じゃない。多分、詩音の気持ちの重みだ。
「ありがとう。大事にする」
俺はそう言うのが精一杯だった。
詩音はうっすら微笑んだあと、小さく頷いた。
「……よかった」
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廊下に出ると、待ち構えていたかのように、如月千夜が立っていた。
「……確認しました。個人的贈答物のやりとり。規則第37条に抵触の疑いがあります」
「今そんなこと言ってる場合かよ」
「……本当に、恋愛……だったんですか?」
「え?」
「彼女の顔。あなたの表情。あれは……秩序では説明できない感情です」
「……そりゃ、そうだろ。人の気持ちは、理屈じゃないからな」
千夜はしばらく黙ってから、記録ノートを閉じた。
「……わかりました。今後は観察を続けます。風紀委員として、でなく、私個人の関心として」
「お、おう……?」
その横顔はいつになく真剣で、でも、ほんの少しだけ――赤くなっていた。
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その夜、風間からメッセージが届いた。
『バレンタインイベント、観測完了。次の一手、打つ準備は整った』
……嫌な予感しかしない。