その誘いに、どう答えるべきだったのか
分厚い雲に覆われた灰色の空は、春の陽気が今日は見る影もなく。
雨は降らないと予報は言うけれど、折りたたみ傘くらいは常備したいなってくらいの、要はあまり外で用を足したくない。そんな空模様の中で、俺は指定した目的地へと歩いていた。
呼ばれたはいいものの、現在朝の十時五分。言い換えれば、集合時間五分遅れ。
そう、遅刻である。
例えそう見えない態度であったとしても、完全に、言い訳の余地も無く、これ以上ないほどしっかりとした遅刻を俺はしてしまっている。
……もう遅刻確定だというのに、時間を止めさえしないのだから我ながら薄情なものだ。
最近は時間を止める気分じゃないというのはあるが、それでも人に迷惑掛けているのだから、相手が夕葉先輩や他の人だったらもうちょっと必死に走っているだろうにこの有様。
まあ、前回三十分以上炎天下で待たせてくれた火村さんのことだ。
どうせ五分程度遅れた所で、集合場所に辿り着けばもぬけの殻。そこからこのどんよりとした空の下で十分も二十分も待たされるのだろう。そういう意味じゃ、今日の天は俺の味方……って、あれ?
早足にさえならず、ダラダラと歩いて辿り着いた先。
道端には既に人目を引く、持ち主の名を象徴しているみたいな赤色のスーパーカー。
そしてその車に寄りかかっていた茶髪の美女──火村さんは偶然か、スマホを気怠そうな瞳を上げた。
「……ん、遅いぞ。少し心配になっちまった……って、どうした?」
こちらに気付いた火村さんが訝しげに首を傾げてくるが、反射では濁すことさえ出来ず。
まさか見惚れてしまったなどと、そういうのもどこか照れくさく。
服装も確かに違う。けれどそれ以上に、雰囲気が異なる。
いつもの火村さんが少しがさつで荒っぽくとも頼れる姉御肌だとすれば、今日はどう見たってその真逆。
まるで絢爛豪華な社交界から降りてきたものの、佇まいから上品さが浮いてしまっているご令嬢のよう。
奥ゆかしくもどこか憂いのある、お淑やかな深窓の麗人。月夜であっても存在感を醸す一輪の白華。
そんな月並みな言葉で形容せざるを得ない、少なくとも探索者などという野蛮な人種と縁もゆかりもなさそうで、後ろの車さえ違った印象を抱けてしまう。それが今日の火村さんだった。
「……え、えっと! 本当に火村さん、ですよね……?」
「……ははっ、私が私じゃなかったら何なんだよ。ほら乗れよ。とっとと行こうぜ、とめる」
慌てて何か言おうとしたのだが、この口から出てくれたのはつい当たり前のこと。
まるで自分が動揺していますと暗にそう告げるみたいで、いつものようにからかわれるかなと身構えてしまう。
けれど火村さんはどこか作り物めいたように軽く笑ってから、いつもよりも落ち着いた感じで「乗れよ」と急かしてくる。
……てっきり笑い飛ばしてくれるかと思ったのに、何か調子狂うなぁ。
火村さんの様子を少し変に感じつつも、まあ今日はそういう気分なのだろうと。
さして重く捉えることはせず。言われるがまま、ホノオちゃんの助手席へと乗り込んでいく。
……しかし外車って助手席側が道路側なの、地味にというか結構面倒臭いよな。
高級車ってのは憧れなくもないが、もし自分が買うなら運転席が右側の日本製でいいかな。
火村さんとのドライブデート(デートじゃない)は、出だしの割に特におかしい所はなく。
というのも、お淑やかさがあったのは最初だけ。
最初の目的地であるケーキ屋付属の喫茶店に着いてからは、すっかりいつもの火村さんへと戻っていた。
「あー美味しい。やっぱり良いケーキと茶は最高の組み合わせだわ」
マナーなど露知らずと。
火村さんはそう言わんばかりに頬杖を突きながら、注文したコーヒーと白黒ケーキなる名前のとおりに白と黒のクリームで構成されたケーキに舌鼓を打つ。
「……で、今日はまた何の御用で? バイトの勧誘なら間に合ってますけど」
「何のことだ? そんなことよりお前も食ってみろよ、あーん」
俺の探りにきょとんと首を傾げた火村さんは、そんなことよりもとばかりにケーキをフォークに突き刺して差し出してくる。
もぐもぐ……うん、美味しいなその白と黒の謎ケーキ。黒はコーヒーか、喫茶店らしくていいな。
俺のショートケーキも定番で悪くはないが、今回に限ればそっちの方が好みってくらいだ。次来る機会があったらまた頼もうっと。
「あ、美味しっ……え、何かあるから喫茶店に連れてきたんじゃないんですか?」
「ないよ。ここの白黒ケーキ、なとりのやつが彼氏マウント添えながら自慢してきたから食べてみたかっただけ。それよりまだまだ行きたい場所は山ほどあるから、ちゃちゃっと出るぞ?」
「……ええ?」
ちゃちゃって、喫茶店ってそういう場所じゃないと思うんだけどなぁ。良いのかなぁ。
ま、別に何もないならいいか。
たまに会ったのだから、こういう日があったって別に良い。何だかんだ、火村さんにちゃんと奢って貰うのは久しぶりだからな。
そんなわけで本当に、言葉違えず食べたらすぐに店を後にして、ドライブを再開していく。
「ここのカレーはとんでもなく絶品だって……どうした?」
「いや、こういう場合で来たことある店に来ることあるんだなって。あ、味は保証しますよ」
いつか義足の老人に連れてこられた、あのカレー喫茶店に連れてこられたり。
「……安定ですね。俺あっちでホットドック買ってきますけど、何かいります?」
「あー、じゃあ飲み物頼むわ。ノンアルあったらそれで、なかったら炭酸入ってるやつ」
次の目的地への途中、やはり立ち寄った小規模の競馬場でダラダラと数レースだけ覗いていき。
「……閉まってるな、ラーメン極上」
「閉まってますね、ラーメン極上。……ほっ」
東京から離れ、千葉の海沿いにあるというラーメン屋。
俺でさえ知ってる激辛ラーメンの名所の前まで来てしまったら、生憎の臨時休業でちょっとだけ安心してしまったり。
その他にも食べては食べて、たまに遊んで歩いてはまた食べて。
まさに飽食。自称チートデイの使い手の顔も真っ青になりそうなほど、数日分食べたと思えるほどだった。
「ぷはァ! あー、やっぱり運転後の酒は染み渡るなぁ!」
「お疲れ様です。……食ってばっかりだった気がするんですけど、
「何言ってんのよ! 焼き肉が今日の本命、これまでのは謂わば腹ごなしの前座だぜ?」
乾杯の後、ノンアルコールのビールを一気に呷り、快感とばかりに口周りを白く染める火村さん。
あっという間に飲み干す様は、まるで砂漠でオアシスを見つけたみたい。
まあ競馬場では飲めなかったものなと、満面の笑顔で次の一杯を頼む彼女に感謝の気持ちを抱きながら、自分は気にしなくていいと言われたのでコーラサワーを飲みつつ肉を焼いていく。
しかし……服装が店に合ってないのは良いのだろうか。
なんていうか、そういう服はもっと個室で高いコースの肉を味わう人って感じで、こういう居酒屋めいた大衆用の、換気扇さえ機能しているか微妙な焼き肉屋とは無縁って感じだけど良いのだろうか。
「にしてもどこもホムラ一色だよなぁ。他にも一級はいるんだし、もっと注目してやれよって」
「まあ東京だし、人気所と言ったらホムラなんだから当然じゃないっすか?」
俺が注文したピートロを育てながら、火村さんがぽつりと漏らした愚痴めいた小言へ言葉を返す。
右を見ても左を見ても、店の設置されてるテレビの中でも、話題はやはりホムラ一色。
一級探索者によるドリームチームだってのに、明らかな待遇の差に嫌気が差してしまうのは分からなくもない。
まあでも、それこそ沖縄や北海道では、ホムラそっちのけで地元のスターをわっしょいわっしょい神輿にしながら盛り上がってるはず。
そう考えると、一番悲しいのは紫電夜叉なんじゃないかなって思うんだ。
だって東京被りでホムラに持って行かれてるし、挙げなかった二人は配信者でもないのだし、結果的に一番割を食ってそう。そういうの気にするタイプかは知らないが、配信者なのだから気にしてなんぼでしょうよ。
「おっ、ホルモン。私にやらせろ。こいつはちょっとばかしコツがいるんだわ」
運ばれてきた銀皿、その上に載ったブヨブヨした肉を目にした火村さんは、更に一杯ノンアルビールを注文しながらカチカチとトングを鳴らす。
言うだけのことはあるというか、いざ網の上に肉を置いた火村さんは目つきをあたかもダンジョンの中みたいな、獲物をじっくり観察するような目へと切り替える。
「私が思うに、ホルモンほど焼き主の加減に左右される肉はない。安易に素人が手を出した結果、皮だけになった寂しい残骸が更に運ばれることだってザラだから……ほら、おあがりよ」
「……おお、ぷりぷり」
「だろだろ? はははっ、伊達にガキの頃にしこたま仕込まれてないのよ。弟にも料理できないのにこれだけは上手いよねって褒められてたくらいだからな!」
素直に感想を告げると、上機嫌に語った火村さんはノンアルビールを一気に飲み干す。
「……いやな、実は近いうちにちょいと危険な仕事をしなくちゃならなくなってな。どっかの深層攻略ほどじゃあないが、場合によっては死も覚悟しなきゃならないくらいのな」
そうしてひとしきり焼き肉を楽しみ、最後のに残った一皿の肉を焼いていた頃。
火村さんはぽつりと、店内と七輪の熱のせいか赤らんだ頬で、唐突に語り出してくれる。
探索者は命を懸ける仕事だが、実は日本に限って言えば、命を賭す場面に出くわす機会はそう多くない。
三級であれば中層、二級であれば下層、そして一級であれば深層の探索においては制限がかけられてしまう。
それを犯したとて特別強く罰されることはないが、ダンジョン庁はその際に生じた一切に責任を負わず保証も行わず、何より国は領分を越えた素材の売買を認めていないのだ。
探索者資格とは、言い換えればダンジョン生物やダンジョン宝具の取り扱い資格でもある。
どういうわけか報告の虚偽が発覚するのは容易く、故に日本の探索者が危険を冒してまで奥へと踏み込むことはない。まあ言ってしまえば、ある種の安全制度のようなものだ。
実はというか当たり前というか、俺は火村さんがどれほど強いのかの全貌なんて知らない。
けれど二級探索者なのだから、きっと俺よりも遙かに強い。それだけは確か。
そんな彼女が命を賭す。死を覚悟してまで挑むのなら、きっと自分の限度を超えた領域へと足を踏み入れるということなのだ。
……それを聞いたとて、俺に何か出来るわけでもない。
彼女がそれ以上語らないのであれば、俺に踏み込む権利はない。以前の殺人ライブのように、いつどこでが一目瞭然で、俺の手の届く範囲であるとも限らない。俺はそんな万能な人間などでは、決してない。
「私だって探索者の端くれ。別にそれ自体は初めてじゃないし、覚悟だって出来てるつもりだ。……ただふと思っちまったんだよ。もしも明日死ぬとして、最後にやっておきたいことが何なのかって。そしたらよ、普通に美味いもん食って、酒飲んで、あとは……まあ、これはいいや。お前に話すのもなんか違えしな」
何かを言いかけた火村さんは、我に返ったとばかりに、恥ずかしそうに手を振って誤魔化す。
「そんでやることは決まって、次に誰とって悩み出したらさ。どうしてか、驚くほどすっとお前が思い浮かんじまったんだよな。不思議だよなぁ。同僚でも友人でもなく、お前だったんだよ。とめる」
「……俺?」
ジョッキを持たない方の人差し指の先を向けられて、何故俺なのだと首を傾げてしまう。
「……そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、俺にそこまで好かれる要因ありました? 振り回されながら奢ってもらってばっかりだった気がするんですけど」
「だよな。だから、私も驚いてるんだ。きっと私にとっては、この世のどんな物よりもそれで良かったんだって」
そう言って火村さんは笑うばかり。からからと、目に潤ませながら、ただ愉しげに。
そんな彼女を見つめ、ふと思ってしまう。火村さんにとっての俺とは、何なのだろうと。
「おっ、ガチャガチャ。ちょうどいいや、これやろうぜ。二人で」
そんな一幕もありながら、会計を終えて、店を去ろうとした間際。
店の入り口に置かれたガチャガチャに注目した火村さんは、どっこいせと中腰になる。
何かのアニメの、思い出の時計塔セレクション。全五種類、シークレットもあり。
……しかし五百円、ワンコインをご所望とは随分な強気だな。
こういう額のガチャガチャってまとまった場所に置くものであって、焼き肉屋にボンと置くものじゃないだろ。偏見か?
「なんだこりゃ。おいとめる、燃える時計塔だってよ。なんで燃えてんだ?」
俺が悩んでいる間にさっさと回し終えた火村さんが、ゲットしたキーホルダーを見せびらかしてくる。
燃える時計塔とかいう、その名の通りの中々手の込んだ作りをしているキーホルダー。
さして興味を惹かれないそれに渋い顔をしかけたのとほとんど同時に、火村さんは「お前もやれ」と急かすように背中を押してくる。
……仕方ないにゃあ。なけなしのワンコインを財布から出して、ガチャガチャっと……んれぇ?
「……被った」
「被った……ははっ、傑作だなこりゃ! ハハハッ!」
ガタンと音を立てて、現れてくれたカプセルに入っていたのはぼうぼうに赤く燃える時計塔。
何か面白いのか。腹の底から笑いを上げながら、少し経って、思い出したようにまた大笑いしてくる。
まるで酔っ払い。飲んだの、本当にノンアルだったんだよな?
「……まあでも、お揃いも悪くねえか。師匠と弟子の絆みたいなよ?」
「……死なないでくださいね、火村さん。これが最後の思い出とか、本当に勘弁っすよ?」
「約束は出来ねえなぁ。精々祈っててくれよ、なあ?」
止めてある車までの道を歩きながら、気に入ったのか燃える時計塔を拝みながら歩く火村さん。
そんな彼女の隣を歩きながら、つい月並みな言葉を送ってしまうと、彼女はにやりと笑みを浮かべてくる。
……まあ、この人ならば心配ないはず。
何せ死んだって死ななそうな人だからな。こちらの心配など欠片も考えず、戻ってきたらいつものように振り回してくれるはずだ。
そんな一応の安堵に包まれながら車まであと一歩といった所だった。
何故か立ち止まってしまった火村さんに、どうしたのだろうとくるりと振り向いた。
「……なあとめる。この後暇だったら、うちで飲み直さないか? 一晩、付き合ってくれよ」
火村さんがそう言ったのは、その瞬間だった。
音が消えた。通る車の音も、通りがかる人の声さえも聞こえなくなるくらい、そんな気が。
その誘いがどういう意味かなんて、愚鈍な俺にだって理解出来る。
それを字面通りに捉えるには、俺はとっくの昔に思春期のような純粋さを失ってしまったから。
だけど、だからこそ。
歳上のお姉さん。ダンジョンでの師匠にして恩人。近くも遠くもある、そんな魅力的な人。
そんな彼女に、数瞬で理解が追いついた俺は──。




