傷つけて、傷つけて、それでも
父と二人で話し、決心をつけて東京へと戻ってきた、その次の日。
俺は東京の少し大きめの公園にあるベンチにて、言葉一つ発することなく人を待ち続ける。
少し温かい春風が頬を撫でる、白やらピンクやら、所々に桜の花が目立ち始めた公園内。
単純に気温のせいかもしれないが、東京の風は故郷よりも少し温かく、陽光も相まって穏やか。
目の前には、無邪気に追いかけっこで遊ぶ幼児達。走り回る彼らの姿と楽しげな声は、春の到来を告げる妖精がラッパでも吹いて踊ってるかのよう。
けれどそんな公園にいながらも、ベンチの一つを貸し切り腰掛ける俺は、目の前の光景とは違って陰鬱とした冬のまま。
まるで死刑前の罪人が全てを受け入れていると、さながらそんな気分。
両脇に紙袋を置き、目を瞑り、両手の指を組みながら俯いて、じっとその時を待っている。コツコツと刻まれる一秒の感覚は、途方もなく長く、けれど矢の如く瞬く間に過ぎ去るだけであった。
この震えは緊張。はち切れんばかりに動く心の臓、その余波が表に出てきているだけ。
これから行おうとしている、あの日しでかした最低な行為よりも更に最低だと、自分でさえも自覚していること。
あの日の傷に塩を塗り、踏みにじり、きっと誰も得をすることのない、まさに最低なだけの清算。
それでも自分でそうするべきだと、確定申告や探索者としての復帰よりも前にやるべきだと悩み抜いた末の決心が、今にも逃げ出してしまいたい自分を抑え付けるための抵抗だ。
「……すみません。お待たせ、しました」
そうしてただ待つだけの時間を、どれくらい過ごしていたのだろうか。
目の前に現れる人の気配。掛けられた、聞き覚えのある声。
ついに来てしまった瞬間に、不思議と震えは止まり、心臓はギュッと掴まれたみたいな錯覚を覚えてしまう。
脳裏を駆けるはあの夜の記憶。思い出そうとするだけで、苦しみしかなかったあの日の破局。
悔いるばかりだったあの瞬間を思い出しながら目を開けて、ゆっくりと顔を上げていく。
──ついに目が合う。見慣れた黒縁の眼鏡を掛けた黒髪の女性、その瞳と。
「……お久しぶりです。夕葉先輩」
「……はい。久しぶり、ですね。とめるくん」
懐かしさと、申し訳なさに心がかき乱されながら。
それでも立ち上がり、声を掛けてくれた、再び会うことを決心してくれた女性と挨拶を交わす。
俺に声を掛けてきた、儚げな笑みを浮かべる彼女の名は、葵夕葉。
一月前まで付き合っていて、最悪とも言える形で俺が壊してしまった、傷つけてしまった元彼女。
謝ることさえ出来ずに、合わす顔がないと、会うのが怖いと、ずっとずっと顔を背けて逃げ続けてきた相手。
冬が過ぎ去る前にけりをつけなくてはならないと、そう覚悟して臨んだ再会は想像していたよりもずっと、実に呆気なく感じるものだった。
再会の挨拶もそこそこに、俺達は場所を移動することなく、二人並んでベンチに座る。
別れるあの日まではほとんど毎日会って隣に並んでいたというのに、どうにも違和感さえ覚えてしまう距離感。
かつてのようにくっつくことも、手を重ねることもなく。
一ヶ月という時の流れは、俺達というカップルの関係性を過去の物とするには、十分過ぎる時間だった。
「……最近、どうですか?」
「……ちょっと痩せちゃいました。とめるくんは少し大人になった、そんな風に見えます。えへへっ、わたしとは違いますね」
どう切り出していいのかも分からず、それでも、
だから天気と同じくらい下手くそな切り出すと、夕葉先輩は自虐とも言える笑みをみせてくる。
流し目でも窺えた先輩の姿は、確かにどこか少し痩せたような気がして。
自らの非道の結果であると一層の罪悪感に襲われるも、そんな同情さえ失礼なのだと、顔に出さないよう懸命に堪えながら夕葉先輩の話に耳を傾ける。
「そ、それで今日は、どうしたんですか? あ、もしかして、またどこか一緒に──」
「……回りくどくするのもあれなので。今日は謝罪と、改めての、お別れを」
「えっ、と、とめるくん……!?」
覚悟を決めてベンチから腰を上げ、夕葉先輩の前へと立つ。
そしてきょとん首を傾げる彼女の前で、俺は砂が付くのも厭わず、地面に膝を付け、頭を地面に擦りつける。
「この前はごめんなさい。酷いこと言っちゃって、あんなに俺の事考えてくれていた先輩に、最低なこと言っちゃって、本当に、ごめんなさい」
「……えっ」
夕葉先輩の困惑と呆然の混ざったような、虚を突かれたような吐息が耳に入ってくる。
処刑のない今、土下座した所で何の意味があるかとか、そんなのは知らない。
陳腐ではあるし、それをすれば謝ったことになるという形式が嫌いだった。
それでも、返せるものなんて何もない俺に出来る中で、謝るという行為をもっとも体現していたのが土下座だった。
「許して欲しい、なんて言うつもりはないです。許されるつもりもないです。あんなに良くしてくれたのに、俺は酷い言葉で終わらせてしまった。そのことを、どうしても謝りたかった」
二級探索者の怒りのままに殴られてもいい。蹴られてもいい。激昂に駆られて殺されたって、文句は言えない。
詰られたって、慰謝料求められたって、全部を軽蔑されながら立ち去られたっていい。許されなくたって構わない。
ただ、俺は言わなきゃいけなかった。もう手遅れだとしても、振った側がそうしちゃいけないのはどこかで察していても、それでもあんな別れ方で、先輩とのこれまでを否定するのは嫌だった。
それでもこれは、あくまで俺だけの理由。けじめぶった自己満足に過ぎない。
先輩からすれば、最低な男がなんか言い訳してるでしかないのだから、どんな審判でも俺は──。
「……頭を上げて、上げてください。ちゃんとこっちを見て、とめるくん」
頭を下げて、果たして何秒経過していたのか。
数えようとも思わなかった沈黙の間。俺達以外は変わらず回っているのに、まるで世界から取り残された、止まった時間の中みたいな感覚を味わっていたとき、夕葉先輩はぽつり俺にそう告げる。
先輩の声は、穏やかだと思えるほどに平坦なもの。
怒りが一周回っているとも、悲しみで心が壊れたとも、慈愛に満たされたとさえも取れる声。
一瞬、ほんの一瞬だけ全身が臆したように強ばるも、時間を止めて整えるなんて卑怯は自分が許せず。
一つ唾を呑み、それから意を決して顔を上げて──思わず、息を漏らしてしまう。
だってこちらを見下ろしていた夕葉先輩が浮かべていた表情は、嬉しさと戸惑いの入り混ざったような、そんな曖昧な笑みだったのだから。
「……わたしきっと、とめるくんの言うとおり、重いんだと思います。だってあんな酷いこと言われても、今になって謝られても、また話せたって喜びの方がずっと強いんです。好きだって想いの方が、ずっと大きいんです。悲観に暮れていたのも忘れちゃうほど、今、とっても嬉しいんです」
ぽつぽつと、夕葉先輩は両手を胸へと置きながら、優しい声色でそう話してくれる。
目の前にいるのは暴言と逃走の両方をした、彼氏としても人間としても最低な男。
それなのに、この後においても初恋が実った乙女のような、そんな尊いとさえ思えるほど優しく噛みしめるような笑みを浮かながら、抱える想いを紡いでくれた。
「だから、だから……ま、またやり直しませんか! こ、今度はわたし、上手くやりますから! とめるくんが困らないよう、もっともっと努力しますから!」
夕葉先輩は立ち上がり、俺の前へとしゃがみ、もう一度と手を差し出してくる。
きっとこの手を掴めば、またあの頃みたいな日々が帰ってくる。
蟠りのなくなって、互いに少しだけ思いを吐き出した、少しだけ距離の近くなった恋人関係。
雨降って地固まると、紆余曲折あった末に元サヤへと戻るのは、この上なく最高の終わり方なのだろう。
「……ごめんなさい。そう言ってもらえるのは嬉しいけど、やっぱり、終わりにするべきです」
それでも、例え夕葉先輩が、こんな俺をまだ好きと言ってくれたとしても。
俺はもう、この気持ちを恋と呼ぶわけにはいかない。俺の心はもう、恋の熱に浮かれることが出来ない。好意はあったけど窮屈だった関係を無理に努力して、努力させてまで続けたいとは、これっぽっちも思えなくなってしまっていた。
きっとこの先、俺に再び彼女が出来るのはずっと先になると、そんな確信染みた予感がある。
この恋の終わりで得る傷が、後悔が埋まるには一年じゃきっと足りない。
五年か十年か、二十年か、或いはもしかしなくとも、これが最初で最後になるかもしれない。もしも来世なんてものがあったとしても、今以上に恋と縁のない次生になる。そう理解している。
けれど、だとしても、この恋はここで終わりにするべき。
そうしなければ、俺はきっともう進めなくなる。いつか再び葵夕葉という重荷に耐えられなくなり、再び同じ過ちを繰り返す。だって俺は……時田とめるはあの夜から、まだ何も変わっていないんだから。
「これ、今まで貰った物です。どれも俺には過ぎた物、身に合わない物なので、返します」
立ち上がり、持ってきた紙袋を、その中身を彼女へ返す。
紙袋の中身は今まで贈られた高い品、時計もコートも何もかも、返せる分だけ全部。
「な、んで……」
「返さないと、俺達は一生このままだと思ったから。俺がそのお金を得るのは違うと思ったから。だから先輩に返して、少しでもお金へ戻して欲しいです」
処分するにしても、自分で売ればいいと言われるだろう。
わざわざ返すなんて、そんな行為は贈った側を傷つけるだけの自己満足に過ぎない。それは楽しかった日々まで否定する行いだと、きっと大多数の他者に、あらん限りの後ろ指を指されることだろう。
それでも、俺は返すべきだと決めた。
売ったお金を僅かにでも自分の懐に入れたくなかったってだけの、ちっぽけな自分勝手な意地を貫くために。俺がただの時田とめるに戻って、また一歩ずつ進んでいくために。
「……めて、やめてください、やめてっ!」
けれど差し出した紙袋は弾かれ、初めて夕葉先輩は今日初めて……いや、出会ってから今日までの間で初めて、喉奥から声を荒げる。
叫び慣れていない人の叫び。葵夕葉という女性が、如何に善い人であったかの証明。そんな甲高く、引き裂かれるような明確な拒絶だった。
「お願いします、それを返さないで! とめるくんからは思われなくてもいいから、いつかとめるくんより好きな物が出来るまで、この想いをずっと手放させないで……!! だから、お願いだから、どうかわたしの恋まで、奪わないでよ……」
言葉は段々と弱々しくなる。まるで親に置いていかれた子供のような、そんな悲痛さを帯びる。
ああ、だからこそ、しかと目に焼き付けろ。
こんなになってしまった先輩の姿こそ俺の罪。今日に至るまでに積み上げた、俺が招いてしまった結果だ。
「いいえ、返します。これで先輩を傷つけても、嫌われても、今殴られてもいいです。それでも、これを返して終わりにしなきゃ、俺達はきっと、前へ進めないから」
それでも。
ここで折れてしまっては、彼女に同情して自分を曲げてしまっては意味がないと伸びようとした手で拳を握り、自分に言い聞かせるようにはっきりと意志を言葉にする。
「……無理、無理です。わたしはきっと、これからも、とめるくんを友達と思えないです。あの日だって自分ばっかり責めちゃって、今だって別れを切り出されても、ずっと好きなままなんです……! だから、だからっ……!」
「せ、せんぱ……っ!」
夕葉先輩は言葉を続けることなく、俺に背を向け、駆け出していく。
遺憾なく発揮される二級探索者の速度。その背はあっという間に小さくなり、一つ曲がって見えなくっていった。
呼び止めようと腕を伸ばしそうになって、それだけはしちゃいけないと、理性が押しとどめる。
突き放したのは俺。なのに、その選択まで否定しちゃいけない。だから、だからこれで……。
「……ああ、ああっ……」
紙袋は受け取ってもらえなかった。思っていたよりも、ずっと先輩を泣かせてしまう結果になった。
これが最善だなんて、口が裂けても言えない。あの夜よりも酷い結末だと、そんな自覚はある。
結局は傷つけて、抉って、時間が塞いでくれようとしたかさぶたを、自ら剝がしただけ。
自分も先輩も傷つけて、余計に傷を広げただけ。そうしたのは、他ならぬ俺自身。
地面に乱雑に散らばって、砂にまみれてしまった様々な物を拾い上げながら、それでも納得するしかない。
真下が濡れようと、視界がぼやけようと、どうでもいい。
俺から出来ることはもうない。これで本当に良かったのか、悩むことさえ、もう許されないのだ。




