負け犬同士の乾杯
偶然にも再会した坂又部長に連れられた先は、落ち着きのある小洒落たバー。
街の片隅でひっそりと経営されている、カウンター越しのバーテンダーが無言でグラスを拭くのが似合うような、まさに知る人ぞ知ると言った具合の、そんな店であった。
「悪くないだろう? この店は俺が大学一年の頃、ダン考を創設した先輩の一人に連れられてな。あの人が結婚して以来会っていないが、俺は今でもお気に入りの店として通わせてもらっている」
「……大学一年って、部長浪人してたんですか?」
「とめる、そういう詮索は野暮というものだ。何でも訊けるのは美点だが、社会に出れば、時にクビさえ欠点になってしまうのを忘れてはいけないぞ」
カランと。
部長は琥珀色の液体と大きな丸氷の入ったグラスを揺らしながら、真面目な口調で忠告してくる。
えらく様になっているが、内容を噛み砕けば詮索してはいけない部類だとすぐに辿り着いてしまい、吐きそうになった言葉を自分に提供された白濁とした液体と共に呑み込むことにした。
……ま、何事にも暗黙の了解ってのがある。
部長も普段はインテリ眼鏡キャラらしく聡明だけど、やっぱりダン考の部長らしく、結構というか大分ロックな人生を送ってきていたのだろう。
……しかしこの酒、中々甘い。
カクテルの名前とか分かんないからお任せにしたけれど、これは確かに濃いのにどこかしっくりくる。いつもならこの喉まで染みこむくらいの濃度はきついと敬遠しそうだが、今の俺にはこれくらいがちょうどいいのかもな。
「……それで、どうしてバーなんです?」
「なに、ずぶ濡れの子犬のようにしょぼくれた後輩を捨て置けなくてな。……それに一度、お前とはサシで飲んでみたかったんだ。大学卒業前に、学生生活における最後の後輩とな」
どちらが本命なのか、どちらも本命なのか。
煙に巻きながら酒を嗜む、自分より遙かに思慮深い部長を推し量ることなど難しく。
また、俺にとってもどちらでもいいことでしかないと、思考を切り上げつつ再びお酒を流し込み、喉の灼ける感覚に浸っていく。
「しかし三ヶ月か。……くくっ、いつ別れるかハルと話していたが、存外に早かったじゃないか」
「……何ですかそれ。まるで上手くいかないって、はなから分かってたみたいな」
「いやなに、あまりに熱に浮かされていたからな。少し冷めた後、現実に打ちのめされるにそう時間はかからないと思っていたぞ。とはいっても、俺は一年くらいを予想していたがな」
部長はまるで分かりきった未来とばかりに、くつくつと、小さく口元を緩めてくる。
……何だそれ、酷い先輩達だ。
だけど、きっとこの人たちが正しいんだ。この人たちから見れば、俺はきっと、情けなく甲斐性もない男にしか見えないんだろう。
「別に気に病む必要はないだろう。熱烈に恋をして、劇的に結びついたとしても、ものの数ヶ月、数週間で別れることなんざありふれた話だ。結ばれるまでと結ばれてからはな、言ってしまえば別ステージ。付き合うまでと付き合ってからでは、求められる距離感も向き合い方も大きく変わるものだ。だから浮気や虐待でもない限り、どちらが悪いというわけでもないんだよ。とめる」
部長はグラスの縁を指で撫でながら、静かに、いつもより優しい、諭すような声色でそう語った。
……分かっている。
多分これは慰めなのだと、そんなのは、普段の部長の叱咤や返答を思い出せば、簡単に理解出来てしまう。
けど、それなら俺の場合は、やっぱり俺に非があるのは間違いない。
何せ暴力を振るったのだ。手や足や剣ではなく、言葉という人類が持つ中で最も凶悪な凶器で、これまで散々良くしてくれた夕葉先輩を突き刺したのだ。だから、悪いのは俺だ。
「……その例えで言ったら、やっぱり俺が悪いんです。俺は先輩の気持ちを踏みにじった。なのにこうして、酒なんて奢られて、俺が悪いのに、こんな酒に逃げて……ううっ」
「……存外に泣き上戸だったか。強い方と思っていたが、そんなことはなかったんだな」
酒のせいか、店の空気と雰囲気のせいか。
どうにも目も口も緩くなってしまい、項垂れてしまっていると、部長は呆れのため息を吐いてから背中を優しく撫でてくる。
そうだよ、俺はお酒なんて、全然強くないよ。
だってそれは、本当に酔いそうだったら時間停止で中身を水に変えて誤魔化したりしてたから。
周りの人はそれなしで頑張れているのに、日常の些細な部分でさえ、インチキしてようやく普通を保てているだけ……うう、うううっ。
ひとしきり、せっかくの店の雰囲気をぶち壊すほどには、グズグズとみっともなく泣きわめいて。
自責、劣等感、努力不足、選択ミス。
何もかもをぶちまけてしまいながら、ようやく嗚咽が収まった頃、部長は見計らったように助言と綺麗に畳まれた黒のハンカチを、そしてバーテンダーは無言で赤の液体の入った差し出してくれる。
先ほどの甘い一杯とは異なる、血のように赤くも清涼感あるお酒。
爽やかな柑橘系の香りと、爽やかな喉越しはこの鬱蒼とした心を、ほんの少しだけ晴してくれた。
「……思うに、どんな想いも薪をくべ続けねばそう長くは続かないものだ。憎悪や復讐心とて風が吹けば揺らぎ、眉目秀麗とて三日で飽きると多くは言う。ならば只人の恋慕なんぞ、最初の熱が引けば待つのは冷めた現実だけ。時田とめるの素面は、葵夕葉という女性の献身と重さに耐えられる器ではなかった。それだけのことだよ」
背中をポンポンする部長は、きっと相当に言葉を選んでくれたのだろうと、それはよく分かる。
けれどそれは、フォローというより、むしろ容赦のない現実の突き付けで。
初めて自分の非だと言ってもらえて嬉しかったと同時に、的確に胸を抉ってくる事実であると涙が引っ込むほど、鈍く重い痛みを以て痛感させられてしまう。
……いや、痛みなんて、そんな大層なものを覚えるなんて烏滸がましい。
だって、俺は今ほんの少しでも、少し霧の晴れた心と少し軽くなった胸がこうも思ってしまった。
葵夕葉という善意の楔から解放されたと。大切なものを失って、ちょっと楽になれた。……そんな気持ちに、なってしまえたのだと。
「……ぐすっ、部長は俺の何が駄目だったと、思いますか?」
「そうだな。葵夕葉という女が恋愛素人向けの女じゃなかった、そもそもとめるは恋愛向きの性格じゃない……と、一言で片付けてやるのは流石に酷か。あえて他人事として言ってやるならば、お前は少々……いや、結構に遠慮と我慢が過ぎていたと、俺はそう思えるよ」
「……遠慮? 我慢?」
「ああ。尊重と言えば聞こえはいいかもしれんが、所詮は機嫌を損ねないよう気を遣っていたに過ぎない。どんな風船であっても許容を超えれば必ず破裂する。本当に失いたくなかったのなら、傷つけることさえいとわずにぶつかり歩み寄り、適度にガス抜きして折り合いを付けるべきだった。そのはずだ」
ただの所感だがなと、部長はつまみのピーナッツを口へ入れてから、大人の男性らしい恐るべき理解力で告げてくる。
最早嫌味だと思えてしまえる謙遜を最後に付けながら、きっと俺がどれだけ自問自答しても出せなかったであろう答えを的確に、さも自明の理であるとばかりにあっさりと。
「……俺が、夕葉先輩に──」
「そう、それだ。お前は彼女を未だに先輩と呼んでいるな。付き合って三ヶ月ほど経ち、セックスさえするくらいの仲だというのにだ。まあ人によっては馴染み深い呼び方を優先することもあるだろうが、お前のそれはどうなんだ?」
その指摘を受けて初めて気付き、はっと口元を押さえ、同時に確かにと腑に落ちてしまう。
夕葉先輩。名字から名前にこそ変わったものの、俺は未だ、例え寝床であっても先輩を付けてしまっていた。
先輩も何も言わなかったから気にしたことはなかったけど、本当はもっと、彼女らしい呼び方があったのではないかと、今になって自覚させられてしまう。
或いはきっと、それこそが俺と先輩の心の距離。
どれだけ体を重ねようと、近づくことの、歩み寄ろうと出来なかった、時田とめるの咎。
「深夜の電話はストレスになっていなかったか? 毎日顔を合わせ、満足いくまでのセックスは苦痛ではなかったか? 期待に応えようとした結果、かえって自分を苦しめていなかったか?」
「それ、は……」
「俺なら辛いよ。例え極上の美女がどんなプレイも許容しながら愛してくれようと、毎日縛り付けられるのは不愉快でしかない。いつか食われる豚のように施され、善意と情で縛られるだけの関係なんて真っ平御免だと、それら全てに文句を言うし不満を表す。それで別れるのなら、それは合わなかったのだと割り切ってな」
そうは言っても、そう理想通りにあれないのが、人間の執着というものだがなと。
部長は数瞬だけ俺ではなく、俺には見えない誰かを思い出すように遠くを見つめ呟いてから、小さく息を鳴らしてからグラスに入っていた残りを一気に呷り、「同じのを」とバーテンダーに注文する。
「……とはいえ、お前のそれはきっと恋人に限った話ではない。サークルでも他の場所でも、お前はきっと肝心な所で誰にも踏み込ませないよう立ち回っているのだろう。まるで逃亡中の指名手配犯の……いや、塞ぎ込んだ子供が自分の場所だけは失わないよう足掻くみたいに、何かを必死に覆い隠している。それを何とか出来ないなら、お前は誰かと繋がることなんて土台不可能な、他人を踏みにじるクズになりきることも出来ない半端な臆病者のままだろうな」
ドキリと、まるで太い杭で心臓の中心を突かれたと、そんな錯覚さえ起きてしまう指摘。
時間停止。誰にも話せない、話したくない、並以下な自分を並にしてくれる特別な力。
もちろん元々社交的でなく、友達なんて少ないタイプの陰キャだったけれど。
それでも大きな秘密が、紛れもなく今の時田とめるという自分のほとんどを形作っている。それを否定できる材料なんて、きっとこの世のどこにもありはしないだろう。
……ナナシにはバレてしまったけれど、それでも未だにもういいかと開き直ることは出来ない。
だって秘密は隠すもの。一歩踏み込まれれば、まるで水を手で掴むみたいにスルスルと、露呈してしまうかもしれない。
突然に能力の発現したあの日からそんな不安と共に生きてきて、だから部長の言うことはその通り。俺はきっと、誰かにその身を曝け出すことを、どこかで恐れている。そのはずだ。
……まったく、笑えてしまうな。
冷静になればなるほど、俺は恋愛に向いている人間じゃない。大切な人と向き合い続けることを恋と呼ぶのなら、俺には最初から、そんな資格なんてなかったんだ。ようやく少しだけ、受け入れられた気がするよ。
「……ま、はるならもっと容赦も遠慮もなく刺すんだろうが、俺はこれくらいにしておいてやろう。何せ俺の恋愛偏差値はお前とそう変わらない、むしろ総合で考えたらそれ以下の知ったかぶりだからな」
「……部長は、ないんですか? 恋愛の経験」
「さあな。今でも強く噛み締められるほどの初恋はあったが、それでも、告白に踏み込む勇気さえなかった。……せっかくだ、一つ話をしようか。はるにさえ話したことのない、ある臆病者の始まりもしなかった、ある恋の終わりを」
そう言って懐を探った部長は、コトリと、何かを丁寧にテーブルへと置いてくる。
銀色のハートがあしらわれたネックレス、その左半分。
まるで失恋でも表しているかのように、ギザギザ模様で半分に裂かれた小さなそれに、俺はどこか既視感を覚えてしまう。
……どこかで、どこかで見たことあるような……まあきっと、気のせいか。
「割れたハートの、ネックレス……?」
「ああ。当時大学生だった兄の同級生、一月だけうちへステイしていた彼女と買った物。……俺が初めて恋した相手との、未だ捨てることの出来ない、未練がましい恋心の塊だ」
未だにそれを持っている自分を嘲笑う、部長はそんな風な口調で、ゆっくり静かに語り始めた。
「太陽を良く浴びた小麦のような金の髪を靡かせながら、堂々とした貫禄でイギリスからやって来た美女。兄と同じ学年だった彼女は、ものの一瞬で初恋を奪っていったんだ」
「……」
「仲はそれなりに築けていたと思う。最初こそ少々距離感に悩んだり、優秀な兄との仲の良さに嫉妬すれこそしたが、いつだったか気まずさもなくなっていた……そんな風に彼女も思ってくれていたのだと、今となっては、そう願いたいものだ」
楽しさと苦しさ。楽と哀。
相反する二つの混ざったような部長の苦笑に、ただただ耳を傾けるだけだった俺は、どう返せばいいか悩んでしまう。
淡い初恋。異国からやってきた美人との、期間限定の共同生活。
それは映画のように非現実的で、けれど何よりも得がたい、部長の青春の彩りを決める大切な一幕だったはずだ。
……だからこそ、俺は気になってしまう。
例え部長の前置きのとおり、その結末が悲劇に終わるだけであったとしても。
その恋の結末がどうだったのかを、自分の失意なんぞよりも、ずっと求めてしまっていた。
「……その人とは、どうなったんですか?」
「言っただろ、告白する勇気がなかったって。自分から誘った、俺にとってはラストチャンスだったデート。いつも振り回す側だった彼女を一緒に地元の祭りに誘って、人気のない公園で線香花火をして、それでも俺は、喉まで差し掛かったその言葉を口に出せなかった。たったそれだけの、始めることさえ出来ずに終わった、かしこぶってる男の追憶でしかない。何せ連絡先さえ交換していなかったのだからな」
きっと強かな彼女なら、あの日の輝きのまま、自分で自分の幸せを掴み取っているだろうと。
ハートのネックレスを手に取り、その彼女を重ねているとばかりに数秒見つめてから、思い出を再び懐へとしまい直した。
「忘れたいと躍起になって彼女を作ったこともあるが、いざ夜を迎えても、あの日の線香花火を落としたときの彼女の……もう終わってしまったと、どこか寂しそうな顔が過ると興奮も萎えてな。振り返れば、あの日の俺ほど最低な男はいなかったし、頬にされたビンタと激昂ほど堪えるものはなかった」
「部長も、そういう失敗があるんですか……?」
「ふん、どうにもお前は俺なんぞを完璧超人だと勘違いしてる節があるな。そんなにも節穴だから、彼女の見なくてはならない部分さえ見えなかったんだろう。違うか?」
思ってもみなかった暴露に呆然としてしまった俺に、部長はやれやれとばかりに首を振ってから小さく微笑み、辛辣な言葉をからかうような軽さでぶつけてくる。
別に完璧超人とまでは思っていないが、それでも部長はあの叶先輩の先輩なんだから、そういうのももっと手慣れてると思っていたんだけど、違うのか?
「……そんなことないです。俺の目が節穴なのは事実だけど、部長は出会ったときから、ずっと頼れる先輩です」
「そうあれたのなら嬉しいな。だが俺は、ただ自分に見切りを付けて、やれる範囲で満足して、精一杯見栄を張っているだけに過ぎないよ。どれだけ無様でも、分不相応だったとしても、探索者としてめげずに二級試験に挑んだお前の方がずっとすごい。ついぞ俺には選べなかった道を進んだお前を、きっと誰よりも尊敬しているとも」
実際、お前がダン考に入るまでは、俺は先輩達に弄られてばっかりだったんだぞと。
部長はスマホを取り出して、何枚かの写真や動画を見せながら、少し恥ずかしそうに、けれどもどこか懐かしそうに話してくれる。
部長が先輩の一人に頭をグリグリされていたり。
部長が眼鏡を人質に取られ、一発芸をやらされていたり。
部長やはる先輩含めたダン考の全員が女装してバンドやっていたりと、とにかくカオスに様々と。
俺の知らない、部長の一面。
俺の知っている部長からは想像出来ない、けれどその笑顔は、紛れもなく本人に間違いなくて。
「……これ、どうしてそうなったんです?」
「聞きたいか? ならばいくらでも話してやるが、終電まで帰れないのを覚悟しろよ?」
部長は再び酒の注がれたグラスを手に持ち、仕切り直しとばかりに差し出してくる。
こんな恥晒しておいて奢られるのは申し訳ない、むしろ俺が払うべきだと。
そう拒否しようとしたが、先ほどの部長の言葉が過ぎってしまい、グッと言葉を呑み込みながら、自分のグラスを軽く打ち付けて小気味好い音を軽く鳴らしながら、部長と夜を過ごしていく。
別に、これで何かが変わるわけでもないけれど。
それでも少しだけ、ほんの少しだけだが今日は少しだけ楽になれると、そんな気がした。




