また来年
あれから、あの最悪な破綻からの記憶をないと言いたいのに、全部が鮮明に焼き付いている。
ただ逃げるように走って、走って、走って、それでも何にもならなくて。
夜明けと同じくらいの頃に、どんな道を歩いたのかも覚えていないけど、それでも帰った家で何も出来なくて床に倒れ込んで、そして気がつけば信じられないほど快晴である、朝になっていた。
目が覚めて、最初に実感したのは、酷い頭痛と足の軋み。それと、後悔ばっかりの濁流。
朝食は喉を通ってくれず。シャワーだって浴びる気にはならず。
ただぼんやりと、まだ夢の中にでもいるのではないかと思えるくらいふわふわとした、何一つまとまってくれない思考だけで時間は経過していた。
もし微かにでも人としての良心が残っているのなら、すぐに謝りに行くべきだと、理性は強く訴えかけてきていたけれど。
それでも、その一歩の踏み出せなかった俺は少しでも何も考えないために、最低限の身なりだけは整えて、気がつけば二次試験の会場であるダンジョン庁へと辿り着いてしまっていた。
職員の一人に案内され、指定された部屋で十数人の受験者と共に待機して。
一人ずつ減っていくのをぼんやり見つめていると、やがて順番を呼ばれたので、誘導された部屋の前まで着いたので扉を三度、音が立つ程度に軽く叩く。
『どうぞ。お入りください』
「……失礼します」
低い男の了承を確認してから、ゆっくりと扉を開け、室内へと進んでいく。
簡素ながら清潔感のある応接室。そんな部屋を進んで面接官であろう男達の前へと到達し、その人に、沈みきっていた心の片隅に、ほんの少しだけ驚愕を与えてくれる。
「……えっ」
「本日面接官を担当させていただく八代と申します。どうぞよろしくお願いします」
待ち構えていた三人の一人は見知った顔の、けれど知っている彼とは違う姿をした探索者のはずの男。
筋骨隆々、大熊みたいな体躯。そこにいるだけで萎縮しそうになるほど、圧倒的な存在感。
特別二級探索者、八代。
擬態スライムの一件以来に再会した彼は、あの日々とは異なり、ピシッとスーツに身を包み、実に社会人らしい挨拶と真面目な顔つきで共に面接を開始した。
気がつけばいつの間にか、本当に呆気なく二次試験である面接は終わっていた。
八代さんには驚いたものの、それも最初の一瞬だけで、あとは再びずっと昨夜からの後悔が心を占めていて。
緊張もなかった代わりに、何を訊かれたのかも、どう答えたのかも曖昧で、どうやって終わったのかも朧気なまま、一年の締めとも言える二次試験は、何も抱けずダンジョン庁を後にしたのだ。
ふと、もう何もかも忘れてしまいたいと。
どう考えても自分の方が悪いのに、傷つけておいて、目を背けたいなどと身勝手極まりないのは理解しながらも。
それでも衝動に身を任せて彷徨っていると、気がつけば本能が辿り着かせてしまったのはいつぞや訪れた銭湯、鈴野の湯だった。
「……なんで、なんで来ちゃったんだろ」
まだ知り合いでしかなかった夕葉先輩と共に一緒に来た、家から少し離れた距離にある銭湯。
忘れたいと願いながら、彼女との思い出がある場所。
そんな場所に来てしまう自分の未練がましさに空笑いさえ湧き出てしまいながら、一度踵を返そうとして、けれど暖簾を潜って中へと入ってしまう。
シャワーで昨日の何もかもを洗い流せたら、それで簡単に済む話なのに。
そんな最低な発想を、他人事みたいに思いつき、自嘲混じりににやけてしまいながら、それでも風呂場へと進んでいく。
引き戸の先、湯気と湿度に満たされた、初めて来たあの夏の日と変わらずの風呂場。
たった一度だけ来ただけなのに、どうにも安心感さえ覚えてしまう空間の中で、あの日の自分と今の自分を比べてそうになるの首を振って誤魔化し、全部忘れたいとばかりにシャワーの勢いを強くして体を流してから、湯船へと歩いていく。
「おっ?」
「ん、お、時田のあんちゃんじゃ──」
あまりに突然すぎる、最悪とも言える再会。
泥沼のように離れてくれない昨夜の後悔でさえ吹っ飛ばしてしまう、突然横腹をぶん殴られたみたいな衝撃が全身を踏み抜く勢いで駆け抜けてくる。
衝撃の根源は八代ではなくもう一人、今日の面接にいなかった方。
そして最近見てしまう悪夢の原因にして、時田とめるを誰よりも死に近づけた最強最悪の悪魔その人。
ナナシ、特別二級探索者。
時間停止能力を持っている俺をして、人智を越えていると表現せざるを得ない化け物との急すぎる再会に、あの日彼の瞬間が鮮明にフラッシュバックしてしまい、何かがこみ上げてきてしまう。
あ、やばいごめん、ちょっと吐きそう、ってか吐く。無理、時間止ま……もう止まってたわ。
恐怖による無意識故か、それともある種の防衛本能が為した奇跡か。
とにかく既に止まってしまっていた時間に安堵しようとするも、催してくる吐き気には負けてダッシュで最寄りのトイレへと駆け込み、そのまま耐えきれずに便器へ色々とぶちまけてしまう。
うえぇ気持ち悪い……吐いたのなんて久しぶりだよ、口も喉もそれ以外も全部きしょいわぁ。
なんでこんな所にあいつがいるんだよぉ。ラスボス級が草むらでエンカウントするんじゃないよもうぅ。
心底絶望してしまうも、大きなため息を三回くらい吐いて、どうにか少し落ち着きを取り戻し。
とりあえずは掃除だとトイレを出て、全裸のまま適当な道具やビニール袋で可能な限り吐瀉物を処理。
そして運良く水道を使用中だった人がいたので水を拝借し、不快感しかなかった口内を綺麗にしてから、まったく減ってくれない億劫さを抱きつつ元の場所へと戻っていく。
暖房が効いているとはいえ、全裸での作業ですっかり冷えてしまったが、そんな弱音を吐いていい状況じゃない。もう吐いたけど。
認識されてしまったからには、どれだけ時間を止めようと、もう幻覚でしたでは済まされない。
変に不審に思われるのも嫌だし、ここはどうにか上手く誤魔化して、早々に退散するのが利口だろう。
大丈夫大丈夫。時間停止がバレるわけない、俺は特別な力なんてない、普通の三級探索者。
えっと確かここら辺で、二人が見えたのはちょうどこんな画角だったはず。
ただでさえ怪物級の二人の前だ。変な違和感を一つでも持たれないよう、出来る限りの努力はしてから、大きく深呼吸の後、意を決して再び世界の流れを再開させる。
「──ん……って、ああ? あれあんちゃん、ちょっとブレた?」
「気のせいじゃないっすかー? おっさんだから目が霞むのを、若者のせいにしちゃおしまいっすよー? ……ふーん?」
隣の浴槽でジェットバスに当たっていたナナシはケラケラと、吹くように笑いながら立ち上がり、俺の真ん前まで近づいて覗き込んでくる。
実は俺よりも背のでかい、柔らかく瑞々しい、けれど確かに強さを醸す肉体の黄金比。
人間の歴史上最高クラスのと形容してしまえそうな美貌のそいつは、八代さんに負けず劣らずな、男だと分かるほどのそれをぶら下げているのに、ふと意識を外せば女としか思えないほど蠱惑的に矛盾した魔性。
……これさ、絶対普通の集合浴場にいちゃ駄目な生き物だろ。
少年から老人まで、男なら例え性別が分かっていても手を伸ばしてしまいそうな、まさに楽園に飾られた禁断の果実みたいな存在。ナナシが強いからいいけど、これで一般人だったら必ず過ちに繋がってると、俺でさえ断言出来るわ。
「お、なんすか? そんな夜の廊下でお化けでも見ちゃったーみたいな……あ、もしかしてこのパーフェクチバディに見惚れちゃったとか? いやーまいったっすねぇ。ただでさえ完全完璧な美を誇るうちの肢体、竿と玉をボロンしたって金出したいやつが後を絶たない劇毒を全裸で見ちった日には癖が歪んでも仕方ねえ。いやーほんと、天性の美人ってのは存在自体が罪──うぴゃあっ!?」
「やかましいわボケ。おうわりいなあんちゃん、何か馬鹿が馬鹿言ってるが、所詮は馬鹿の戯れ言だからあんまり気にしないでやってくれ」
一瞬、何かを探るような目をしたと思えば、両手を上げてペラペラと上機嫌に語るナナシ。
そんな彼の背中を後ろからバチンと、甲高く湯中へと鳴り響く音。
片手と共に軽く謝罪してくる八代と悶えるナナシに、俺はどう反応していいか、まったく追いついてくれなかった。
「……えっと、お二人は、どうしてこちらへ?」
「ん、ああ、今日は早めに仕事終わってな。明日は二人とも休みなんで、これからうちで映画見ようってことになったんだよ。こいつ見る前はレトロとか馬鹿にしてたくせに、一作見たらすぐにハマっちまってな?」
「うるさいっすよ。大体うちはおっさんがどうしてもってせがむから付き合ってやってるわけで、映画なんて一人で見た方がずっと集中出来るんすから。だから──」
つらつらと、まるで素直になりきれない思春期みたいに顔を逸らしながら話すナナシ。
ナナシの態度に色々と言いたくなることはあるけれど。
それでも、どうやら今回は本当に偶然の遭遇なのだと、少しだけ安心しながらゆっくりとお湯へと浸かっていく。
嗚呼、冷えた体に、心にお湯が良く染みる……。
このまま溶けてしまえれば、それで色んなことが全部終わって、楽になれるだろうに──。
「へいへい時田くーん。どしたんすか? どしたんすか? そんなこの世のどん底みたいに落ち込んじゃってさー? せっかくの再会だし、うちって最高の美人が裸の付き合いしながら聞いてあげるっすから、洗いざらい吐いちまいなよ。へいへーい」
もうこのまま溺れるまで沈んでしまいそうだった、そんな微睡みを許さないと迫る脅威。
パーソナルスペースなどないとばかりに隣へと座り、竹馬の友レベルの気安さで肩を抱いて、人差し指をグリグリとちょうど心臓に押しつけてくる。
助けを求めるように斜め前でくつろぐ八代さんに視線を送るが、自分も気になっているのか、苦笑と共に首を横に振ってくる始末。
どうやら助けは望めないらしい。……ま、恥ではあるが、吐いて罵ってもらえば、少しは楽になれるのかもな。
大きなため息を一つ落としてから、半ばやけくその勢いで、ありのままに話してしまう。
昨日、セックスで勃たなかったこと。
その際に口論になって、思わず取り返しのつかない、最低に酷いことを言ってしまったこと。
包み隠さず言葉にすれば非常に簡単で、だからこそどうしようもなくて。
一言紡ぐほどにこみ上げようとしてくる何かが酷く胸を締め付けてくるが、むしろそんな苦痛がこの温かい湯よりもずっと心地良かった。
「……なるほどなぁ。なんだと思えば葵の嬢ちゃんと盛大にやっちまったわけか、そりゃ面接も上の空にもなるわけだ。心中お察しするよ」
だが一分ほどで話し終えて、やがて八代さんの反応は思っていたよりずっと静かなもので。
声を荒げることもなく、否定の目を向けてくるわけでもない、何度か小さく頷くだけであった。
……ほんと、俺ってばどうしようもないクズだな。
お前が悪いと罵って欲しかったのに、名言されなかったことにホッとする自分もいるのだから。
「痴情のもつれねぇ。ちょっと残念っす。うち的にはもっと壮大な、大大大大大スペクタクルを期待したんすけどねぇ」
「存在がセクハラみてえなやつにゃあ思春期の失恋の痛みなんてわからんだろうよ。あれはな、例えるなら手紙だ。直視するだけで全身を掻き毟りたいほど辛くなるのに、どうしてか時々ふと読みたくなる、机の引き出しにしまい続けている手紙。残したくないのに残してしまう、そんなもんなのさ」
「なんか例えがメルヘンっすねぇ。あ、ほらどう時田くん? クラゲっすよクラゲ、立派でしょんべらっ!?
「汚えから湯船にタオル入れんな。いちいちガキかよ、お前は」
断腸の思いで零した自白にも、八代さんの謎の例えにも興味の欠片もないと。
湯船で作ったタオルクラゲを見せびらかしてきたナナシさんは、八代さんの飛ばしたお湯を顔面に喰らい、見事一撃で制裁されてしまう。
……その対処も子供のそれだと思うんですけど、ま、そんなに人いないしいいか。
「お、そうだ。ならお前もうち来るか? 今日はスクールパニックってゾンビものシリーズ見るつもりなんだが、これがまた中々に陳腐で派手な映画でよ? ピザも取ってぱーっとやるつもだし、ひとまずの気分転換にはちょうどいいと思うぜ?」
「えー、おっさんの家狭いから三人はきついっすよ。ほら、女性との関係で傷ついた若人とうちが狭い部屋でくっついちゃうほどの距離感でいたら、一夜の過ちからどうしようもないほど歪めちゃうかもしれないっす。そうなってもうちは面倒見きれないかなーって、ね?」
妙案とばかりに八代さんがしてきた提案に、少しだけ、ちょっとだけ心が揺らいでしまう。
スクールパニック。妙に人気のあるB級の、何故か四作やって全部面白い謎のゾンビ映画。
まあ確かに、こんな気分を少しでも晴したいと願うのならば、あれ以上にうってつけな娯楽というのも少ないだろう。
「……いえ、今日は遠慮しておきます。それにその映画、父さんと見たことあるんで」
「……そか。そんじゃ、俺達はそろそろお暇しようかね。どっこいしょっと」
それでも、今はそういう気分になれず。
そもそもナナシと同じ部屋で映画なんて御免だと、僅かに首を振って断れば、八代さんはそれ以上は何も言うことなく、ザバンと、大きく水面を揺らす勢いで立ち上がる。
「……ま、本当はこういうのは駄目なんだけどな。まあこの前の一件での俺個人の礼と……後はまあ、期待している若者に、これからへの餞別ってことで。──また来年頑張りな、時田のあんちゃんよ」
今年の不合格と次への激励を告げて、軽く手を振ってから、その大きな背は去っていく。
そういえば、初めて会った日、先輩と銭湯に来たあのときは逆だったなと。
どこか他人事のように、けれども勝手に心の傷を負っていると、隣にいたナナシも立ち上がってくれる。
……良かった。何も言われないってことは、この前の一件で怪しまれてはいないんだな。
「んじゃうちもこれにて。さらば少年、アディオース……あ、そういえば」
表には出さないよう心がけつつ、それでも心臓を掴んでいた手が離れたような、そんな開放感に浸ろうとしたときだった。
「……今更っすけど、一つ貸しっす。今回は面白かったから見なかったことにしてあげるんで、いつかきっちり返してくださいね。おもらししちゃった、お可愛いダンジョンの死神君?」
何かを思い出したように耳元まで顔を寄せ、こしょこしょと、くすぐったくなるように囁いて。
瞬時に噛み砕けないナナシの言葉に呆けてしまった俺に、元凶はクスクスと笑みを浮かべ。
会話は終わりとばかりに人差し指を唇に添え、こちらへあざとくウィンクしてから、八代の名を呼びつつ今度こそ立ち去っていった。
……バレてるじゃん。やっぱ特別二級って化け物、俺の人生を歪ませる悪魔じゃん。
ようやく一人になれたのに、
その恐ろしい事実は、先ほどまで感じていたはずのお湯の温かささえも、瞬く間に失わせてしまう。
少しでも忘れたいから来たはずなのに、気がつけばドッと、入ったときよりも疲れが溜まってる。
何のために銭湯に来たんだろう……ああ、特に理由なんてなかったっけ。
なんかもう、これ以上に風呂に入っている気にもなれないと。
それでも絶対にもう一回会いたくないと、なけなしの理性で十分くらい待ってから体を流し、形を為してくれない思考と共に、お風呂から出る。
体を拭いて、服を着て、ドライヤーで髪を乾かして、けれどコーヒー牛乳を飲む気にはなれない。
もう真っ直ぐに帰って、ご飯……はお腹空かないしなしで、そのままベッドで目を瞑って、朝になれば、少しは楽になれるかな──。
「なんだ、見覚えある顔と思えばとめるか。銭湯通いとは、中々通なことをしているな」
もう自分の方が早く上がったからと入り口で誰かを待つ必要はないと。
あの日先輩を待っていたベンチを数秒だけ見つめてから、とぼとぼと銭湯を出て帰路につこうとした。
そんなときだった。
暖簾を潜り、銭湯の敷居から出たのとほとんど同時に、聞き覚えのある声で名前を呼ばれたのは。
名前が呼ばれるなんて思っておらず、ついビクリとしてしまいながら、ゆっくり振り向いていく。
するとそこにいたのは、特別二級の二人でもなく、当たり前だが、夕葉先輩でもなく。
鏡を見て着られていると断言出来た俺とは違い、ピシッと黒のスーツを着こなした、緑淵の細い眼鏡を愛用していた男。
坂又部長。
思えば年を開けて以降一度も連絡していなかった男との再会に、少しだけ、顔の筋肉は動かない程度には驚いてしまう。
部長の家はここら辺じゃないし、服装的には何かの用事があって、その帰りなのかな。
「坂又、部長……?」
「なんだ、随分としけた面をしているな。……ちょうどいいな、そんな格好をしているのなら少し付き合えよ、とめる」
声の正体である坂又部長はふんと軽く息を鳴らしてから、付いてこいと軽く指で示してくる。
有無を言わさないと、暗に告げるその目が、何も考えたくない今はどうにも楽であった。




