些末で、惨めで、最低で、けれど決定的な
久しぶりに楽しいと思えたリズニーデートも終わり、気付けば月末。あんなに遠かったはずの二次試験は、もう目前まで迫ってしまっていた。
二次試験は面接。形式は個人面接らしく、特別何か準備出来ることもない。
したがって俺はただ来たるべき日に向け、せめて一次試験で俺のズルのせいで落ちてしまったであろう人達へ無様を晒さないよう、悶々と不安の心に巣くわせながら、変わらず毎日夕葉先輩との春休みを過ごすことしか出来なかった。
「えっ……?」
それは二次試験前日の夜。
突然というべきか、或いはついにというべきか。
その日も夕葉先輩の家で過ごし、食事を振る舞われ、一緒にお風呂に入って、そして寝る前にいつも通り性行為へ移行して挿入しようとした、まさにその瞬間に起きてしまった。
勃たなかった。
夕葉先輩という魅力的な女性の裸体を前にして、それでも自身の竿の屹立はなく。
まるで水に打ち上げられて跳ねる力もなくなってしまった魚のように、己の半身は力が芯の通った硬さを保ってくれなかった。
……元々、漠然とだが違和感と、そうなるんじゃないかって予感はあった。
一緒に入ったお風呂のときだって、夕葉先輩の全裸を前にしながら反応は薄かったし、キスや胸を弄る軽い愛撫の際にも、高鳴る心臓や興奮を裏切るくらいには、あの独特の感覚が生じてくれず。
それでも、たとえそうだとしても。
いざベッドの上まで行けば、葵夕葉という可憐な彼女の誘いを前にすれば、必ず大丈夫だと思っていたのに、その場面まで来ても応えてくれることはなく。
性欲自体は普通にあるし、先輩へ挿れたいと心の底から思っているのに、男根が聳え立ってくれることはなかった。
「あれ、どうして、あれ……?」
「えっと、とめるくん……?」
あまりに情けなさ過ぎる状態に、せっかく築いた雰囲気さえ壊すほどに動揺を隠せず。
その醜態を前に、目を細めて色めかしく誘ってきていた夕葉先輩のこちらを見る表情も、次第に心配に染まっていってしまう。
「……すみません。俺が不甲斐なくて」
「だ、大丈夫ですよとめるくん。そういう日だってありますから、そんなに落ち込まなくても」
そのまま官能的なムードは霧散してしまい。
服を着て仕切り直そうと、リビングでお湯を貰いながら、隣に座る夕葉先輩に慰められてしまう。
自分だって誘いを無碍にされて不安だったろうに、それでもこちらを気遣ってくれる夕葉先輩。
その献身と配慮が、淹れてもらった白湯の温かさが、何より心の臓を握り締められると、そんな錯覚さえ抱いてしまう。
優しい気遣いは、むしろこちらを一層惨めにさせてくるだけ。
何一つ釣り合ってない、貰っている分の愛に何も返すことの出来ていない出来損ないの彼氏。
それなのに、唯一少しでも返せていたと思い込めていた夜でさえ不足なのだと、こうして浮き彫りになってしまうだけでしかない。
無理もない。何せここのところ毎日、どうにか先輩の体力に付いていこうと必死だった。
体力で言えば先輩の方がずっと上。それでも付いていこうとすれば、いつかこうなるのは必然だ。
……いや、言い訳なんていらない。必要ない。
結局は俺が至らなかっただけ。時田とめるが、彼女の求める水準に、達していなかっただけ。
お金も、精力も、愛も。何もかも、葵夕葉という女性に釣り合っていない。それだけに過ぎない。
ポキリと。
そこまで考えてしまってから、心の裡の何かを支えていた柱が折れる、そんな嫌に響く音が聞こえてしまったような、そんな気がした。
いつからだろう。セックスの目的が愛情行為ではなく義務に、求めてくれる夕葉先輩にせめて一つでも返さなければという、そんな風に考えるようになってしまったのは。
いつからだろう。毎日顔を合わせ、一人の時間がままならず、夜さえ思い通りにならないことが棘となってしまっていたのは。
……いつからだろう。好きである気持ちと同じかそれ以上に、葵夕葉という存在から無尽蔵に捧げられる無償の愛へ、恐怖を抱くようになってしまったのは。
「すみません。今日は帰って頭冷やします。本当に、すみません」
「……え、ま、待って!」
こんないたたまれない、自分のせいでなってしまっている、最悪の空気に耐えきれず。
この場から離れたい一心で席を立ち、部屋着から着替えようとしたそのときだった。夕葉先輩が一瞬言葉をなくした後、すぐに大きな声で呼び止めてきたのは。
「な、なにもか、帰らなくてもいいじゃないですか! もう夜ですし、寒いですし、そ、そうだ! なら今日は、えっちなことなんてなしで、大丈夫ですから!」
扉へと回り込み、帰ろうとした俺を、必死に止めようとしてくる夕葉先輩。
酷く混乱しているとばかりに、次第に語気の強まる言葉。
だというのに、その実、彼女の声は、言葉は、どうしようもないほど弱々しいものだと、そう感じてしまった。
「わ、わたし、何かしちゃったんですか……? とめるくんに、失礼なことしちゃいましたか……?」
やめろ、やめてくれ。そんな声で、言葉で、表情で、痛々しい様子で気遣わないでよ。
そんなになっているのなら、もっと責めろよ。どう見たって俺が悪いんだから、誰が見たって俺に非があるのだから、もっとお前のせいだとなじってくれよ、激情に駆られて手を出してくれよ。
何でこの期に及んで、まだ俺じゃなくて、全部自分が悪いみたいに言ってしまえるんだ。どう考えたって、勃ちすらしない俺が全部悪いのに、どうして、どうして!
「……んで、なんで怒ってくれないんです。不満だろうに、こんなん、どう考えたって、俺が悪いだろうにッ!」
「……えっ」
そんな先輩の態度を前にして、付き合ってから初めて、だから大きく声を荒げてしまう。
どう考えたってただの八つ当たり。人としても彼氏としても最悪な、身勝手な感情の押しつけ。
そんな顔を見てしまえば、そうさせてしまった自分が余計に惨めになる。
そこまでの執着を抱かせてしまっても、結局何も返せていない自分に虫酸が走って仕方ない。
そして何より、堰を切ったこの口が、この思いが止められないと、すぐにこの場から離れて頭を冷やせばまだ戻れるかもしれないと漠然と理解しながら、それでも抑えが効いてくれない。
この期に及んでもまだ、俺と先輩は対等でないのだと、否応なく痛感させられるようだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 悪いところがあったなら直しますから、わたしに出来ることだったら何でもしますから、だから、嫌、お願いだから見捨てないで、わたしを置いていかないで……!!」
何かを悟ったのだろうか、そんな風に必死そうに、親に置いていかれそうな子供のように。
骨がひしゃげそうなくらいの強さで腕を掴み、嫌だ嫌だと首を振り、離すまいと、しがみついてくる。
「……っ、重いよ」
「……えっ」
そんな彼女の必死に引き止めを前に、咄嗟に呟いてしまってから、はっと口を押さえてしまう。
それは思ってしまっても、過ぎってしまっても、決して口に出すまいと気をつけていたこと。
付き合い始めてからずっと、もしかしたらそれ以上前から心のどこかで思ってしまっていた、葵夕葉という身の丈に合わない献身に対しての澱み。
それでも言ってしまったのだから、既に言葉にしてしまったのだから、衝動的に時を止めてしまっても、全ては無意味。
それが無意識のものだったにせよ、意図した侮蔑だったにせよ、変わらない。
止まった時の中で、目の前で悲痛に顔を歪めた夕葉先輩が、既に手遅れだと、何よりも強く突きつけられてしまう。
……嗚呼、最低だ。もう駄目だよ、もう無理だよ、先輩。
「……っ、ごめんなさい。なんかもう、色々と無理です」
「……いや、いや、待って、待ってよ──!」
口から出た謝罪は、果たして誰に対してのものだったのか。
時間を止めて拘束から逃れ、耳を劈くように悲痛な呼び止めに背を向けて、振り向く勇気さえなく。
目に入ったスマホだけ掴み取り、ただひたすら逃げるように、夕葉先輩の部屋から飛び出す。
夕葉先輩が部屋に置いてくれていた部屋着のまま、靴さえ履かず、物静かな夜の街をただ無様に。
思考も後悔も夕葉先輩の最後の表情も、過ぎる全部全部振り切りたい一心で、ひたすらに走って、走って、走り続けて。
一度吐いてしまった言葉は、もう二度と呑み込むことは出来ない。
付けてしまった傷は、割れてしまった盆が元通りに直ることは、もう絶対にあり得ない。
俺はやってはならないことをした。
あんなに尽くしてくれた彼女に思いつく限りで、もっとも最低な言葉をぶつけてしまった。何も返せてない愚物のくせに、壊してはいけない関係に、自らが致命的な崩壊を招いてしまったのだ。
そんなのし掛る現実から少しでも逃れたいと、振り切れないと分かっていても、乱れる息のまま、ただひたすらに走り続けるだけしか俺は出来ない。
あまりに卑劣で、身勝手で、愚劣極まりない、最低な、一つの関係の終わり。
俺はきっと、もう二度と夕葉先輩の合わせる顔のない出来ない、彼氏としては下の下の拒絶。
この冬夜空の冷気が罰の一つにさえならないほどの、男としても人間としても、あまりにちっぽけで惨めで時田とめるらしい、どうしようもないほど惨めなおしまいだった。




