青は濁る
カーテンが閉まり、テレビの光のみという不健康な薄暗さを持つ夕葉先輩の家のリビング。
そんな部屋のソファに二人で並んで座りながら、最近少し話題になっている独占配信らしいホラードラマを視聴していた。
『俺が悪かった。本当に愛しているのは、お前だけなんだ……!!』
『今更何よ……馬鹿、寂しかったぁ!』
今目の前のテレビに流れているのは、あまりに退屈極まりない、何を見せられているんだとしか思えない告白シーン。
それでも肩により掛かり、片手をソファにつけての恋人繋ぎで握りながらじっと映像を見つめる夕葉先輩の邪魔は出来ないと、出そうになった欠伸を強引に噛み殺しながら眺め続けるのみ。
『輪獄、終わらない地獄の連鎖』とかいう、妙に気取りながらいまいち要領を得ないタイトル。
とある心霊スポットへ興味本位で踏み入った三人の大学生、その一人であるヒロインが取り憑かれてしまい愛憎入り交じる人間関係を展開していく……みたいな、そんな感じな話。
今年一番に震え上がる新感覚ホラードラマなんて銘打っていたらしく、今日も泊めてくれる夕葉先輩が見ようと誘ってくれたのでちょっと期待してしまったのだが、実際は導入だけホラーで残りの八割昼ドラな似非ホラーでしかなく。
作品全体の雰囲気さえドロドロの三角関係愛憎劇に寄っていて、何なら途中に監督か主演の趣味としか思えないような十五禁にふさわしい濃密なベッドシーンさえ挟まれており、期待外れも良いところでしかない。
豊富な予算を約束される独占配信のおかげで確かに出来はいいのだが、醤油ラーメンを求めたらたらこスパゲッティが出てきたのと同じくらいに釈然としないドラマ。
もっと純粋に底冷えするようなホラーを求めていた俺としては退屈で、最早うつらうつらと眠気のピークを迎えつつ、それでもテーブルに置かれたナッツを囓ってどうにか堪えているのが現状だった。
……やっぱりホラーってのは全体の雰囲気作りが肝、まず映像内の空気でどれほど人を震え上がらせるかで決まるんだよな。
「……ごくっ」
まあそんな惰性に満ちた俺とは違い、時には喉を鳴らし、またある時にはソファに置きながら握る手に少し力が入りながら、目の前の映像を固唾を呑んで見守る夕葉先輩。
見るからに視聴を楽しんでいる彼女を見れば、如何に俺の意見がひん曲がっているかよく分かるだろう。
まあこういう恋愛路線、これくらいの塩梅の方が大衆が取っつきやすいし数字が取れるのは事実。
ホラー大好きとか抜かしながら本気でホラーを作ると苦情が出る時代なんだし、何より先輩は楽しめているのだから、本気で怖くて後味悪いだけのレトロホラーを求めた俺が偏屈なだけだ。
それに実際、自分であらすじに目を通したわけじゃないからな。
もしも最初からそんな感じで書いてあったのなら、知ったかぶりで期待した自分が悪い。所詮はそんなもんだよ。
そうして更にしばらく見続けて、結構おトイレの方に行きたくなってきちゃった頃。
最終話も特にどんでん返しなんてないカップル誕生オチで終わりを迎え、エンドロールの最後の最後までしっかりと見終えた夕葉先輩はゆっくりと俺の肩から頭を離し、グイッと体を伸ばして数時間分の凝りを解していく。
……部屋着だからかな。特別大きくはないけど、確かにおっきいおっぱいに目がいっちゃう。
思えばこれをもみもみさせてもらってるんだよな。……なんかやべえな、俺。
「どうでした先輩。面白かったですか?」
「はい! 実はわたし怖いの苦手で、最初はちょっと怖かったけどとめるくんが隣にいてくれたから大丈夫で、後半の瞬くんと渚ちゃんが仲良くなっていく裏で、その好意が悪霊のせいでしかないと気付かされた場面なんかは特に心が締め付けられるかのようで──」
夕葉先輩は熟々と、流石は配信者と思えるほどに淀みなく、キラキラとした瞳を向けながら語ってくる。
そうですか。そういえばそんなシーンもありましたっけ。まあ先輩が楽しめたのなら良かったです。
「……もしかして、つまらなかった、ですか?」
「っ、いえ、そんなことはないですよ。話題なだけあって、中々見応えありましたから」
不安げに尋ねてくる夕葉先輩に、当たり障りのない感想を返しながら時計へ目を向ける。
時間を確認すれば既に十八時過ぎ。既にカーテンがなくとも真っ暗に近いのは、流石に冬の空というべきか。
昨日から泊めてもらっている身としては甘えすぎは良くないし、先輩も俺も自分の時間だってあるのだから、今回はそろそろお暇しなければな。
「……あ、もうこんな時間になっちゃいましたね! 待っててください、すぐにご飯の支度しちゃいますので、とめるくんは少し寛いでいてもらえると──」
「あーいえ、今日は流石に帰ります。今回泊まり始めて三日目だし、年末も泊まらせてもらうのに流石に悪いかなって」
時計を見て時間に気付いた夕葉先輩はソファを立ち、お皿を持ってキッチンへと歩いていく。
先輩の夕食は非常にそそられてしまうが、それでも今日は遠慮させてもらおうと一言断り、せめて帰る前に片付けの手伝いでもしようかな立ち上がった。その瞬間だった。
ガタンと、室内へと響く甲高い音。
何事かと思ってすぐに音の方向へと向いてみれば、そこには呆然と立ち尽くす夕葉先輩と、その足下で手に持っていたはずのお皿が小刻みに揺れ、すぐに動きを止めてしまっていた。
「……え、だ、大丈夫ですよ! わたしはとめるくんがいて、迷惑だって思ったことないです! ほんとです! むしろ、もっといて欲しいです! 本当ですよ!?」
「えっと、そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、流石に二日連続は……」
「え、あ……じゃ、じゃあ! 二人で行きましょう! そしたら戻ってきて、今日は温かいシチューにするつもりで、それでそれで……!!」
固まってしまっていた数瞬の後、お皿を拾うことさえ忘れ、こちらへ近づいてきた夕葉先輩。
困惑と、呆然と、そしてどこか怯えの混じった悲痛な表情。
まるで一緒にいたいというよりは、一人になりたくないと思えるほどの必死さに、俺はどう返せばいいのか分からずたじろいでしまう。
えっと、ど、どうしよう。こういうとき、どっちを選ぶのが正しいんだ──?
刹那の合間に悩みに悩みに悩み抜いて、頭がパンクしそうになっても答えは出てくれず。
こうなれば時間を止めて考えようかと、そう思った矢先だった。この緊迫した居心地の悪い空気の中、まるで助け船のように、テーブルに置いていたスマホが鳴り出したのは。
「……あ、すみません。ちょっと電話出てきます」
「あっ……」
デフォルト極まりない、俺という人間を表すような遊び心のないコール音。
けれど今この状況において何よりの助け船だと、テーブルの上で震えるスマホを乱雑に掴み、先輩に一言謝ってから逃げるように廊下に出ていく。
なんか変な空気だったから助かったけど、それにしたって俺に電話とは珍しい。
俺ほどの交友関係になると、電話なんて面倒な真似してくるやつは夕葉先輩以外は行政の方くらいだからな。他の若者達はみんなメッセージ飛ばしてしまいだ。
それにしても長いコールだな。普通は十回コールして出なかったら日を改めるだろうに、一体どこの誰が救世主様……うげっ。
「……もしもし?」
『あ、ようやく出た。ちょっととめる、あんた電話もなしに戻ってこないってどういうことなの?』
画面に表示されていた、出るのが億劫になる名前にめげそうになるも。
それでも助けられたのも事実なので大人しく出れば、結構久しぶりだというのに、すぐに脳が思い出してくれる人生で一番聞いたであろう女、つまり母親のやかましい声が聞こえてくる。
やれやれ、まったく変わり映えのしない声。
それでもこの状況だと萎えるほどに落ち着けるし、何なら逆に安心感さえ湧いてくるな。
「……なんだよ母さん。俺結構忙しいから今年は無理そうってメッセージ出したじゃん」
『どうせゲームかスマホでしょ? そういうのは忙しいって言わないの、分かる?』
相変わらず容赦なく決めつけてくるし、妙に理解度の高いことで。
まあ夕葉先輩の家とはいえ、実際ドラマ見てただけだから間違いではない。むしろ年末
「うるさいなぁ。俺にだって色々あんの……もう二十の大学生だよ?」
『二十なんて私の半分も生きてないなんだからまだまだ子供でしょ。そういえばあんた、成人式はどうすんのよ? こっち戻ってこないの? お父さん一緒に写真くらい撮りたいって楽しみにしてるのよ?』
あー、そういや成人式があったな。眼中になさ過ぎて完全に忘れてたわ。
ぶっちゃけ地元に振り返るほどの思い出とかないし、付き合い残ってる友達もいないんだよな。……うん、スーツ着るの面倒だし、やっぱり出なくていいな。
『それでちょっと、本当に帰ってこないつもりなの? 別にそこまで遠くはないんだし、せめて日帰りでも顔見せればいいじゃないのよ?』
「だーかーらー、この前言ったじゃん。今年はちょっと忙しそうだから年明けじゃなくて春休みに帰るって。」
『それは聞いたけどさ。やっぱり年末は家族で過ごしたい……あ、もしかして彼女!? ちょっととめる、もしかしてついに出来ちゃった!? なによもー、それなら早く言ってよ仕方ない子ね──』
「あー、とにかく春休み入ったら戻るから、うん、ほんとほんと、嘘じゃないだって。そんじゃね。良いお年を」
非常に面倒臭いダル絡みが始まりそうだったので、電話を雑に切り上げてため息を吐く。
一年に一回は家へ顔を出すというのが約束だったので、言い分的にはあっちの方が正しいのだが、残念ながら今年夕葉先輩と年明けするって先約があるので、大人しく諦めてもらおう。
……ふっ、まあでも元気そうで何より。無駄な時間だったが、落ち着けたから良しとしよう。
「すみません先輩。空気壊しちゃいました……ってあれ、先輩?」
ちょっとだけ平静さを取り戻し、やっぱり年末もお世話になるのだから今日は帰るべきだろうと。
改めて話をすべくリビングへと戻ったのだが、何故か先輩の姿はどこにもない。一体どこへ──。
「とめるくん」
名前を呼ばれて振り返れば、そこにいたのは夕葉先輩であってそうでない人。
配信で見るよりもいつもよりも少し着崩され、胸元を見せたいとばかりにちらつかせる紺色のセーラー服。
そして青髪のウィッグを付け、更には黒のニーソックスを履き、青柳トワの姿となった夕葉先輩。
けれども配信中に視聴者へ見せてくれる凜々しい目の面影はどこにもなく、先ほどまでの夕葉先輩と同じ酷く弱々しく潤んだ瞳のまま、こちらを見つめてきていた。
「ねえとめるくん。今からしませんか、この恰好で」
「え、でも、その恰好を汚しちゃ──」
「お願いします。とめるくんのなら、汚れなんかじゃない。むしろ汚してくれていいの。わたし、とめるくんのだったら嬉しいから」
突然の青柳トワの登場に、何か言わなきゃと思いながら、かける言葉が何一つとて思いついてくれず。
ただただ戸惑っていると、夕葉先輩はゆっくりと近づいて、俺の胸へとそっと身を寄せてくる。
手を出してはいけないと、一目で分かる禁断の果実。
夕葉先輩にとっての憧れの象徴。自らで汚してみたいと願ったことはありつつも、絶対にしてはいけないと自らを戒めていた、最後の一線。
「……わかり、ました」
それでも唾を飲み込んでから、やがてゆっくりと、まるで夢の中のようなふわふわとした気持ちのまま禁忌を破ってしまう。
そんな消えかけの蝋燭の火みたいな儚さの彼女の願いを、俺は拒むことが、出来ない。
欲かそれ以外か。この胸の真意がどうだったとしても、この選択が多分間違いだってことも分かっていたけれど、それでも、どうしても出来なかった。