遠いいつか、振り返るはあの季節
大人になってから、ふと振り返りたくなってしまう過去というのが誰しもにある。
例えば何も知らないまま未来に思いを馳せて走り回った、ほんの幼い子供の頃。
例えば少しだけ未来を見据えながらも、その瞬間の価値を知らずに思い思いの青春に励んだ学生の頃。
例えば長いモラトリアムを越えて、社会の荒波に揉まれながら子供から大人となって若い頃。
どこでもいい、何だっていい、自分にとっての黄金期。
人生の中で最も彩り豊かで、ふと夢にでも出てきてしまいそうな栄光の一瞬というのが、きっと誰にでもあるはずだ。
「ねえお父さん。お父さんは何か、忘れられない思い出とかあったりしないの?」
就寝前の晩酌の最中、一月前に成人を迎えた娘がこちらへお酌をしながら、そんなことを尋ねてくる。
四十を迎えた記念にと、いつか娘がアルバイトで貯めたお金でくれた徳利とお猪口。
決して高価なものではないけれど、それでも世界中のどの徳利よりも価値のある酒器での晩酌が、ここ最近では一番の楽しみの中で不意に訊かれてしまい、少しだけ悩んでしまう。
「……そうだな。お前が産まれたときか、母さんにプロポーズしたときか」
「もう、そういうのじゃなくて初恋とか青春とかそういう青臭いの! お母さんなし! はい!」
「……ははっ、今日は随分と手厳しいなぁ」
お猪口に入っていた日本酒を呷り、少し悩んだ振りをしつつも父親らしく微笑ではぐらかそうとしたのだが、残念ながらそうは問屋が卸してくれず。
次の一杯を注ごうとしていたお猪口を自身の下へ引き寄せた娘は、自分で徳利からお酒を注いで、返して欲しければと言わんばかりの笑顔をみせてくる。
困った娘だと苦笑しながら仕方がないと、やはり考える素振りをしながら、どうしたものかと悩んでしまう。
別に話すべき内容が思い浮かばないとか、そういうわけではない。
むしろその逆。それらを除いた自分だけの一番であれば、即答出来るほど唯一無二は確かにある。
それでも話したくないのは、娘に聞かせるほどの大層な話ではないからか。
いや、きっと違う。この歳になってなお、自らの過去を誰かに話す行為が恥ずかしいだけだろう。
何せこれは、この話は、あるかも分からない父親の尊厳さえ失いかねないほどの若き失態でしかない。
一つ思い出せば、羞恥から両手で顔を覆いたくなってしまうほどに甘ったるく。
また一つ思い出せば、顔を顰めてしまうほど苦く。
そして全てを振り返り終えたとき、胸が締め付けられるほどに切なさと、無性に目頭が熱くなってしまう。
誰にとってもあるであろう、瞼を閉じれば思い出してしまえるほどに懐かしいその一瞬。
時田とめるにとってそれは大学二年。その冬から春にかけての頃の、甘く苦い数ヶ月の日々。
未来に繋がる多くのものを得て、同じくらいに大切なものを失って。
振り返った所で何も上手くやれなかったと突きつけられるだけで、無性に胸を掻き毟りたくなるほどの愚かな醜態ではあったけれど。
それでも絶対に忘れられない、今でもあの日の選択を間違わなければと思ってしまえるほどに、それほどまでに今の俺の奥底に根付いた一瞬一瞬。
……誰かに話すつもりもなかったけれど、娘との酒の肴にするのであれば、それもいいかもしれないな。
「……そうだな、じゃあ母さんには内緒だぞ? あれは俺がちょうどお前と同じくらい歳の頃、まだピチピチの大学生だった頃の話だがな──」
負けたと吐息と苦笑を零してしまってから、やがて俺はぽつぽつと娘へ語り始める。
妻は不機嫌になるだろうし、娘に話せば幻滅されるかもしれない程度には情けなくどうしようもない、最低な話ではあるけれど。
それでも俺は、あの日々の最中を話せない後悔だけで終わらせたくはない。だからこうして、語る必要もない、吹けば飛ぶような気軽さで、気まぐれに紡ぐのだ。
これは妻への愛と共に、墓にまで持っていきたい初恋の記憶。
心の底から悔いながらも、かけがえのないと今でも大事に閉まっていた数ヶ月の、本当に輝いていたあの一瞬。
若く青かったばかりに迎えた一つの恋と、その終わり。
あの冬から春に失って得た全ては今までも、そしてこれからも、俺は決して忘れることはないだろう。
読んでくださった方、ありがとうございます。
五章開始です。多分色々言いたくなると思いますが、それでもどうか最後まで読んでもらえればと願っています。
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