人生で最も死にかけた瞬間
偽ダンジョンの死神との決着間際。
激動の数日だった事件の締めくくりも今度こそおしまいだと。
そんな奇跡のタイミングで何故か乱入してきやがったのは、何とこの前ナナシに核を真っ二つにされて死んだはずの擬態スライムだった。
人の世の安寧を揺るがせると、ダンジョン庁が殺人犯よりも危惧していた特殊個体。
あの変態男の娘のナナシによって潜伏先である隠し部屋を発見され、見事に核を破壊されたはずのダンジョン生物。その生き残りがいるのは、ちょっとを通り越してかなり驚かざるを得ない。
通常のダンジョン生物とは異なり、完全に同じ特殊個体が発生した例は存在しない。
これはこの三十年の中では世界共通の常識。最近の日本ではダンジョン七不思議の一つになり、真面目に研究している学者がドキュメンタリー番組と特集を組まれていたくらいなので間違いはないはずだ。
だというのに、目の前の緑はどこからどう見ても擬態スライムそのもの。
もしかしたら色だけ一緒なだけで、実は完全に別の特殊個体なのかもしれないが、それでも一度相対した者の感想としては、例え素人の所感であっても同じと思えてならない物体だ。
……ま、何でもいいか。あれの正体が何にせよ、今の俺にはさして関係のないこと。
仮に本物の擬態スライムだとして、どうせ今からやることに変わるわけではない。
このスライムを殺し、偽死神を生きたまま地上へ連れ帰って騒動の収拾をつける。それで俺の干渉すべき範囲はおしまいだ。
色々と疑問はあれど、まあ気にしたって俺じゃ答えは出せないと。
難しいことを考えるのを止めて、止まった時間の中でスライムに呑み込まれそうになっている犯人の女性を引っ張り出していく。
うわっ、ネトネトしてる。本当にスライムじゃん。
未だに触っていいのか分からないけど、見かけ重視で黒い手袋用意しておいて良かった。
……まあ毒とかあったらこんな薄っぺらいのじゃどうにもならなそうだけど、流石に地上に取りに戻るの面倒だからな。一応硫酸とかみたいに触っても溶けはしないっぽいし、ここは頑張ってもらおうっと。
苦労しながら引き剥がし終え、絶妙な形で留まっているスライムを観察していると、その体内に小さな丸い宝石みたいなものを発見する。
おお、小さいけどちゃんと核があるじゃん。やっぱり人を食べるってだけの別個体なのかな。それとも切り離した小さな一部にバグでも起きてまったく新しい人格が形成された……いやいや、そんな漫画じゃないんだしないない。
──そんなわけで、これでおしまいっと。出てきて早々悪いね、退場してくれ。
これですべきことは終わったと。
剣を抜いて核を斬り、鞘へと収めて時の流れを戻せば、核を失ったスライムは数秒の後に死が自らへ追いついたとばかりに崩壊を始めていく。
「く、崩れる、消えていく……死にたく、私も、私だって、地上へ……」
崩壊の際、擬態スライムは半端な人の姿になりながら、必死に地面で藻掻き続ける。
食べた人間の言葉でも借りたのか酷く後味の悪くなりそうな、人間味のある断末魔。
喉なんてないスライムでも、以前出会ったあの美男子スライムよりもずっと人に遜色ないクオリティは、まるで今人を殺してしまったと後悔しそうになるほど。
とはいえ、そんな死にかけの断末魔がいつまでも続くことはなく。
次第に動きは小さくなり、失人の姿を保てなくなったスライムは、そのまま通常のダンジョンスライムと同じように消失していった。
これで残るは偽死神ただ一人。その彼女もスライムに呑み込まれかけたせいか、今は意識を失ってしまっているのでこれで本当に一件落着ってわけだ。
ま、彼女には気の毒だがこれも殺人ライブなんてしでかした罰……ああでも、俺の推察では実際に殺した人間はいないんだっけ。まあ殺人未遂でも立派な罪だし、これくらいは受け入れてもらおう。
……そんなわけで、そろそろ帰って講義の続きを聞かないとな。
ああでも、ちょっとは時間動かしたし、戻ってから篝崎君達に怪しまれないといいけど──。
『……あー疲れた。とっとと帰って、だい──』
「帰るなんてまだ早いっすよ。こっちの素敵な計画をガン潰しにしたんだから、もちっと付き合ってくださいっす」
終わった途端に湧き出た悩み事に億劫になりながら、帰ろうと時間を止めようとした。
その瞬間だった。誰もいないはずの二十三階層で、コツコツと足音を響かせながら、どこか聞き覚えがあるような声で俺の帰りを止めてきたのは。
すぐに声の方向を向き、新たな乱入者の正体を確かめる。
すると暗がりから堂々と現れたのは、先ほど止まった時間の中で表層へと送ったはずの金髪ちゃん。
だが先ほどまでとは雰囲気がまるで違う、けれどどこかで感じた事のあるような……まさか。
『……これはこれは、先ほど殺されそうになっていた金髪の……え、まさか、ナナシ?』
「なんだ、うちのこと知ってたんすか。どこで知ったのかは知らないっすけど、ま、似た者同士っすからね。古株としてちょっとは意識してくれてるなら嬉しいっすよ」
髪色も恰好もまるで違うのに、ふと脳裏で重なってしまったある人物。
つい思いついたその名を呟いてしまえば、金髪ちゃん改めナナシは何故か少し気安く正体を肯定してくる。
ナナシ。変態男の娘ナルシスト。特別二級、出来れば人生で一回も敵対したくない強者。
確かに九層とはいえ、表層まで運んだのに何でもう戻ってきてるのとか。
どうしてそんなに強いのに、わざわざ人質になっているのとか。
訊きたいことは色々出来てしまったけれど、答えてくれるとは思えず。
朗らかな笑顔とは裏腹にひしひしと突き刺してくる、戦闘は避けられないとばかりの警戒と敵意が怖くて怖くてたまらなかった。
『……悪いけど、殺す理由のない者を殺したくはないんだがね。死神を名乗った不届き者は渡すから、この場は素直に見逃してくれないかな?』
「うちにそう言えちゃうんだから、死神ってのは随分器が大きいっすね。……けどまあ残念、重要参考人として、そしてダンジョンの治安維持のためにご同行を願うのは当然じゃないっすか?」
『……だろうな。残念だ……本当に、残念だ』
声が震えてないかなと、恐怖が一周回ったせいで他人事のように心配しながら、一応平和的に終われないかなと尋ねてみるが無駄。
ナナシは笑顔で拒否してから、ゆっくりと腰を少し落とし、ギロリとこちらへ狙いを定めるように睨み付けてくる。
「ダンジョン内だけど、それでも最後のシャバっす。最後に言い残す言葉があれば聞きますけど、何かあります?」
『ありがとう。では一つだけ、何故不意打ちしてこなかったんだ? いくらでも出来ただろう?』
「あー、どうせ通じないと思ったし、まあ一応そこの犯人を殺さないでくれたんでそのお礼に。それにずっと興味あったんすよね。噂の東京ダンジョンの死神、最新の都市伝説ってやつのお手並みってやつにッ──!!」
そうして問答は終わり、ナナシの言葉が終わるよりも早く時を止めた──そのつもりだった。
世界が止まった次の瞬間、被っていた仮面が勢いよく弾かれ、空中を舞ったまま制止する。
一瞬にも満たない間で目前まで接近し、今にも顔に触れそうなほど振り上げられていたナナシの足。
そして右下から左上へ。綺麗に斜めに裂かれ、空で分かれようとしていた仮面は、まるで本来ならお前の顔がこうなっていたのだと示すかのようだった。
……嗚呼、もちろん分かっている。分かっているとも。
目の前の、無駄に綺麗な足をしているナナシの蹴りに特殊な魔法なんて一切介在していないのだと。
純度百%の身体能力。圧倒的身体能力と技術から放たれる、武器よりも鋭い死神の鞭。
時間を止めたのと足が仮面に到達したのはほどんど同時で、今回は運良く仮面だけで済んだだけ。
俺が思いつく限りで一番シンプルで、一番恐ろしい時間停止の突破方法が目の前で披露されたってわけだ。だから恐ろしいんじゃないか。
「……ははっ、つくづく化け物だな。特別二級ってやつらはよ」
この一瞬は間違いなく、人生で一番死に近かった瞬間だと。
思わず腰が抜けてしまい、地面に尻餅をついてしまいながら、股座が湿るのを感じ取ってしまう。
あまりに間一髪、もしもほんの一マイクロ秒でも時間停止の発動が遅れていたら。
そのときはきっと、そこの仮面のように見事な姿になっていたのだろう。そう考えが追いついた途端、全身に鳥肌が立ち、死という寒気が止まらなくなってしまうのは当然だと思う。お漏らししちゃったとしても、俺何も悪くない。
今にも動きそうな躍動感で固まっているナナシを見上げ、渇いた笑いを上げてしまいながら。
せめて膝の震えが収まるまでは生の喜びを噛みしめたいと、誰かのせいで濡れてしまった下半身を気にすることさえなく、目を瞑ってこの一時に身を投じる。
……それにしても、まさかこの件における一番の命の危機が味方の攻撃になるとはね。
換えの服、持ってきてないんだよな。おしっこから身元が割れるのも嫌だし、どうしよっかなぁ。