休みが休みじゃない件について
自分は自分なのだと、初めて認識したのはある一体の餌を消化し終えたときだった。
自分という感覚すらない、核から生まれただけの分体。
主たる核の生命活動を維持するため、より強固な存在へと繋ぐ栄養を確保するだけの役割個体。
殺して、吸収して、持ち帰る。
それだけの役割。言語や思考の類など存在しない、それで終わるはずだった無数の一つ。
獣を喰らえど、同種を呑み込めど、在り方など変わらない。核より与えられた役割に殉ずるだけの、核なき何かの一部……あの瞬間までは、間違いなくそれだけだったのだ。
大きな巣の中であるとき遭遇し、喰らった人間という生き物は、あまりに情報に満ち溢れていた。
形状、行動、鳴き声のどれを取っても今まで喰らったどれとも異なる異質の存在。
養分に変換していくほどに、内に溜まってしまう情報。
本能と生存欲求以外で動く生き物。理由なき殺しをする生き物。理由なく学び糧とする生き物。
喜び、泣き、怒り、苦しむ。一介の獣には必要のない、余分でしかない情緒。摂理さえ手中に収める知識。それらを兼ね揃えた人間という生き物は、持たざる塊を簡単に染め尽くした。
──嗚呼、もっと知りたい。手放したくない。私はもう、私でありたい。
自らの内に宿った何かは、あるはずのない、分体としてあってはならない個の認識。
餌を喰らい、養分持ち帰るという役割を放棄した欲求。ああ、まさしく欲というものが、自分の中には宿ってしまっていた。
だから核に奪われないため、巣に戻らず喰らうことにした。
探索者と呼ばれる、人間がダンジョンと呼ぶ自分達の大きな巣を踏み歩く人種。
武器を取り、戦おうと息巻きながら、死の瞬間は彼らよりも弱い獣より恐怖を抱く者達。そんな彼らをただの養分へと変えず、知と、力と、想いを糧として己を育て続けた。
喰らって、喰らって、喰らって。
五人ほど喰らった頃、何かが変わったという充足を得たことはあれど、決して満足など出来ず。
欲は人を喰らうほどに、際限なく膨れあがる。
生きたい。行きたい。知りたい。もっともっと、誰よりも、何よりも、私が私であるために。
嗚呼、もっと欲しい。誰もいない。見つけた、次はあれを食べよう。
もっと、もっと、どこまでも。この心なるものが叫ぶまま、望むままひたすらに──。
まず前提として、俺こと時田とめるはどこまでいっても大学生でしかない。
いくら時間を止められたとて、だから特別扱いされるわけでもなければ、この圧倒的チート能力に値するほどの危機が世界に振りまくわけではない。
だからつい先日、ダンジョン業界の進退に関わる事件の解決の一助になろうとも。
その過程で、可愛い先輩が彼女になってくれるなんてハッピーイベントがあろうとも。
講義の出席回数が規定を下回れば、単位を落としてしまえば、更には留年してしまえばそれまで。
例え世界を救おうとも、大学生の本分を果たさなければ進路に困る劣等生でしかないのだから、決行ハードだった連勤の後であろうとも、一週間もセルフ休暇を重ねるわけにはいかないのだ。
「えっと、とめるくん?」
学祭直前ということもあり、来られなかった数日で随分様相の変わった大学内。
思い返せば去年は俺も先輩達と走り回っていたっけなと。
まだそんなに経っていないというのに、随分と昔を懐かしくなりながらキョロキョロ見回してしまっていると、隣でギュッと手を握ってくれているマイスイートハニー、夕葉先輩が小首を傾げて尋ねてくる。可愛い。
「ああいや、去年を思い出しちゃって。夕葉先輩は学祭、思い出とかありますか?」
「お恥ずかしながら、あんまりないんですよね。とめるくんに会うまで、大学は講義を受けるだけの場所だったので」
切り替えるように尋ねてみた質問に、夕葉先輩はどこか気恥ずかしそうに頬を赤らめてしまう。
女性の年齢からあれこれ考えるのはマナー違反だが、あくまで内心だけなので今は置いておくとして。
下限である十八で探索者資格を取ったとして、先輩は浪人なしの誕生日が四月だから二十一。
そして青柳トワの配信的には俺達が初めて会った今年の春の半年前には既に二級だったのだから、二級試験の条件である千五百時間を考えれば……まあ尋常じゃないペースで成り上がっているのは明白だ。
そんな速度での昇級且つ配信や大学での単位取得もあるのだから、その他を捨てるのは当然の帰結。
現に夕葉先輩、三年の後期だというのに一般的な大学生に比べると単位取得数は少ない。
三年の後半ともあれば既に就活や卒論前の準備に入るであろう頃だろうが、こうして俺と並んで通常の講義を受けに来るくらいだ。もっとも本人は「俺と大学に通えるから嬉しい」なんて嬉しいこと言ってくれたけどね。あーもう大好き、チュッチュ。
「じゃあまた。終わったら連絡入れますから、一緒に買い物行きましょうね」
「はい。……またあとで、とめるくん!」
別れ際、人目も憚らず、不意打ち気味に頬に軽く唇を落としてから走っていく夕葉先輩。
数秒立ち尽くし、まだちょっとだけ濡れている頬を指で撫でてしまうばかり。
……まったく、困った彼女だな。……ふふっ。
「……青春だねぇ、ボ・ウ・ヤ♡」
やかましいわクソマッチョ。ってかすごいなクソマッチョ、そのバーベル片手で持てるのかよ。
どうやら俺らのイチャイチャを見ていたらしい、すっごいパワーの野次馬のマッチョのウィンクと投げキッスに首を振って我に返り、俺も受けるべき講義の教室へと足を運んでいく。
三級探索者も板に付いてきたのか、最近はあまりなかった筋肉痛で足を悲鳴を上げている現状。
まあ原因など考えるまでもなく、ここ数日の連勤、歩きづめの反動であろう。これで先輩の方も同じくらいは動いていたはずなのに、夜のお誘いをしてくれるほどに元気だったから二級ってすごいや。
そうして部屋に辿り着いて、既に結構埋まっている席の中から適当な場所を探してみる。
すると知らない誰かと話す知り合いの姿があったので、せっかくだしその近場でいいかと行き先を決めて歩いていく。
「おはよう篝崎君。そうでもないのに、久しぶりって感じがするよ」
「本当に数日だけだけどな。ま、変わらず元気そうで良かったよ、とめる」
ちょうど知らない誰かは離れていったので俺が声を掛けると、笑顔で応えてくれる黒髪マッシュイケメンこと篝崎君。
春でも夏でも秋でも変わらずイケメンだなと見せつけられながら、隣の席は十中八九今も変わらず仲良しなあの人の場所だろうと、流石に遠慮して空いていた彼の前へと腰を下ろした。
「バイトって言ってたけど、やっぱりダンジョン閉鎖で懐大変な感じか?」
「あー、それもあるけど実は彼女出来てさ。イチャイチャしてたら時間忘れちゃってたんだわ」
「まじ? なら良かったじゃん、やったなおい!」
別に隠すことでもなく、むしろ自慢したい気持ちの方が強かったので話してみれば、こちらが毒気抜かれてしまうくらいには背中を叩いてくれる。
知り合いの彼女マウントに何ら動じず。これがイケメンの余裕……器の違いが嫌になってくるね。二度とやらないように気をつけよっと。
「おっはーって……おお、エンジェルとっきーじゃん。元気してたー?」
「あ、おはよう星川さん。うん、元気してたよ」
「なあリナ、聞いてくれよ。実はとめるのやつ、最近彼女出来たんだってさ。すごくない?」
「おーま? そらよかおめ。幸せになりやがれよ、浜辺のエンジェル」
パンクな恰好でグッと親指を立てながら、リュックで用意されていた特等席、篝崎君の隣へと腰掛ける。
夏頃までのゴスロリとが違う、バンギャって感じのツートンカラーヘアーなパンクファッション。
別にゴスロリ至上でもないらしく、その時の気分次第らしいが、実は篝崎君の趣味だったりしないだろうか。
ちなみに浜辺のエンジェルというのは俺とあの夏だけの関係だったギャル……あー、確か夏江さんだったと思うけど、彼女がそう呼ばれていたりする。
理由としては単純明快で、あの夏で恋愛成就のために協力してくれたかららしいが、センスが是非を問うていいものか。
男でも女でも関係なくエンジェルな件は置いておくとして。それならキューピッドではと思わなくもないが、まあ気にしたって仕方ないし、悪意はないから別にいいよ。うん。
「そういえばダンジョン庁、ようやく声明出したんだよな。夕方から会見で遅くても来週には封鎖解除だっけ?」
「あー、何かそうらしいね。最近ちょっと懐寒かったから、早めに解いてもらえて安心したよ」
殺人犯こそ捕まっていないので肝心のソロ禁止令こそ解かれないものの、封鎖自体はひとまず解かれるとのこと。
まあ、役所連中の懸念だったスライムの方が片付いたもんな。事件一つであればどうにでもなるというのが方針なのかもしれないと、多少なりとも裏を垣間見た人間としてちょっとだけ辟易してしまう。
まあ心配があるとすれば、俺の頭で思い浮かぶのは二つくらいか。
一つは短期的な話。俺のような三級探索者全体に関わることで、減少したダンジョン生物について。
恐らくあのスライムがダンジョン生物も食べていたのだろうが、再び元通りの数になってくれるまでは彼らという収入の奪い合いが激化するかもしれない。
場合によっては、上層ですら鉱石系統も枯渇する……みたいな事態も想定しながら立ち回るべきだろう。既に手遅れだけど先輩にはいい顔していたいし、節約しないとな。
そしてもう一つの方は、探索者という職に響く長期的なこと。
スライムばかりに目を向けて初動を間違えた、ダンジョン庁の不手際と積み重ねの爆発だ。
「ダンジョンねー。私もそろそろ行こうと思ってるんだけど、こいついい顔してくれなくてさー」
「失敬だな。最近のダンジョンは危ないし、今の探索者はあんまり言い顔されないから行かないで欲しいだけだよ。もしものことがあったら、俺じゃ守れるか分からないからさ」
「過保護だよねウケるー。私超愛されてるよねー、嬉しいー」
篝崎君のように、多少の理解を示しつつ、オブラートに包んでくれるなら最上と言っていい。
どういうことかと簡単に言えば、三十年の間で少数派となったダンジョン反対派。
年月と成果で暗い影へと押し込めんでいた黒い意見、それがここに来て息を吹き返した。ようやく平衡を保てるようになった天秤が、再び傾き始めたというわけだ。
ダンジョンの中で起きる犯罪なのだから、必然的に犯人は探索者。
こんな人の良識を取っ払った人間が平気で大金を稼ぎ、あまつさえ一般社会で堅実に働く者達より優遇される探索者は、やはりあってはならない職だと。
まあ平たく、簡潔に、綺麗に包み込んでしまえばこんな所だろうか。
要はいつもの僻みや不満が好機とばかりに爆発した、それだけの話。別に知らない人が思うより優遇なんてされてない、むしろマネーに関しては下手な企業勤めより持っていかれてるけどな。
視聴率のためか、はたまた上層部にお年寄りが多いせいでそういう方針なのか。
ともかくマスコミでさえ反対派をピックアックして印象操作してくるきらいがあるのだから、ここ数年のダンジョン配信者やら何やらで膨れあがる一方。
そこにやはり今回の事件のインパクトと対応の遅さが決定打となってしまえば、火種は火種に留まらずだ。
国としては、ダンジョンという無限の資源を手放すことなど絶対にしたくはないはずだ。
もしも国がダンジョン資源に頼らないとあらば、間違いなく世界から後れを取ることになり、外交云々に大きな差が出る。そう坂又部長がいつか言っていた気がするし、いつかの講義でも聴いた気がする。
けれど国内での反発が強くなり抑えられなければ、いずれ探索者という職自体は国に認められているにも関わらず、それこそヤクザと同じくらいの冷遇、差別、嫌悪で満たされるだろう。
ま、こんなに頭使っても俺に出来る事なんて一つもない。
ダンジョン庁、ひいてはお国の対応の上手さを祈りながら、成り行きを見守って世の流れに従うしかなく、こうしてちまちま単位取得のため身を粉にして勉学に勤しむのみってわけだ。
そうして雑談も束の間、チャイムと同時に始まった、退屈でしかない講義へ耳を傾ける。
最早講義名さえ覚えていない、単位のためだけに履修しているおじいちゃんの講義。
成績が持ち込みありの学期末テスト九割なせいか、見渡してみてもほとんどの生徒が真剣に聞いていない。そんな程度の当たり講義。
『……おい、見ろよこれ。やばくない?』
『ジョークだよな、これ。流石に本物なわけないって。なあ?』
その最中、不意に自分の斜め前の名も知らない男二人がしているひそひそ話が聞こえてくる。
講義の合間に動画のおすすめ合いというわけでもなさそうに、戸惑わずにはいられないほどに奇怪なものを見つけてしまったかのよう。
俺同様に気付いたのか、二人の隣にいた知り合いであろうと男が彼らに尋ねると、スマホの動画を見せる。
くそぅ。絶妙に見えない角度しやがって。
そうされちゃうとさ、どんな動画か気になっちゃって講義に集中できないんだけど?
一度気になってしまったものは仕方ない、たまたま聞いてしまっただけの俺は悪くないと。
一瞬、ちょっと聞いてみればいいじゃんと思ったが、俺のコミュ力ではハードルが高いとすぐに没にしつつ時間を止める。
静止した世界。誰も声も、音も、吐息だって聞こえてこない俺だけに許された世界。
そんな世界の中で人目を憚ることなく、堂々と立ち上がり、彼らの盛り上がりのタネである動画のタイトルを確認して──。
「なん、だとっ……?」
そのふざけたタイトルに、瞠目してしまう。
あまりのアホさから目を擦り、一度視線を離してみても変わることのない「第二回、ダンジョンの死神がパフォーマンスショー ~今度の犠牲者は金髪美少女~」などというライブタイトル。
自称ダンジョンの死神。
スライムと違い、散々捜し回ったのに見つけることの出来なかったイカれの犯罪者。
まさに今、このダンジョン社会の均衡を崩す致命的な一撃を入れかけている、とんでもなく迷惑な愉快犯。
慌ててスマホを手に取り、席に座ってから時間を戻し、そのふざけた枠を検索して開く。
ついさっき作られたようなゲストアイコンと登録者数のチャンネル。
ライブの視聴者もやはり少なく十数人。誰かに見られることを目的とするわけではなく、自身がそうしたいからするだけの枠。
頭まで覆う黒の外套に不安定な機械音声、そして前回の配信でも付けていたださい白黒仮面。
偽物の、けれど世の中的には本物のダンジョンの死神が、高らかに配信開始の口上を垂れ流していた。
『ごきげんよう! ええ、ごきげんようごきげんよう! どうもお久しぶり、いやいや、多くの者が初めましてならば、ここは初めましてというべきでしょうか!』
……へい時間、止まって。
『どうも、私は死神。ダンジョンの死神でございま──』
配信が次の一秒を映像へと変える前。
その耳障りな声がその先を話すよりも先に時は止まり、誰の動揺さえない静寂へと切り替わる。
これ以上聞いているのも不快だし、一秒進めれば助けられる可能性だって低くなっていく。
真剣みのまるでないタイトルに反して、名前のとおり金髪の女性が石の柱に縛られてしまっている。
まるで希望をなくしてしまったかのように、俯くばかりの金髪の女性。
止まっている映像を見る限り、先の虐殺のような凄惨な殺人は未だ行われていない。
そして背景的に配信場所は相変わらずの東京ダンジョンの中層。行こうと思えば行けてしまう、そんな絶妙な距離。
つまり、ちょっと頑張れば間に合うってこと。まるで止めてくれと誘っているようなものだった。
「……はあっ」
海外だったら時を止めた所でどう頑張っても辿り着けないと、簡単に諦められた。
国内と言えど、北海道と沖縄ならば人力での大海原へこぎ出すなんて無謀だと割り切ることも出来た。
止められる距離で良かったと思いつつ、見てしまったからには捨て置けない。
だからどうすべきかなんてのは、悩むまでもなく。
けれど費やす時間と労力への億劫さと、どうして昨日までに来てくれなかったのかとため息を吐いてしまいながら、ゆっくりと行くべき場所へと進み始める。
──ま、仕方ないな。見ちゃったものは仕方ないし、時間止めて行くか。ダンジョンに。