朝チュン
もぞもぞと。
隣から聞こえた小動いた音とあるはずのない人の気配に、ゆっくりと意識が覚醒してくる。
……あれ、おかしいな。俺一人暮らしだし、こんな近くから何か聞こえてくるわけが──。
「……あっ」
まだ目覚めてない頭で疑問に思いながら、ゆっくりと目を開けていけば何故か隣には美少女が。
隣で横になっていた黒い瞳を真っ直ぐこちらへ向け、じっと見つめてきている彼女──葵先輩とバッチリ目が合ってしまう。
「うひゃあ!」
「いや、あの、えっと……?」
「あ、す、すみません。とめるくんの寝顔が可愛くて、つい見ちゃってました……」
俺が目を覚ましてしまったことに驚いたのか、跳ねるように体を起こす葵先輩。
はらりと毛布が落ち、晒される彼女は何も着ていないありのままの姿で。
そんな彼女の扇情的な寝起き姿に、男ならば避けられない朝訪れる下の生理現象に襲われてしまう。
「わっ、え、えっと……お、おはようございます。とめるくん」
怒髪天を突くなどと、別に怒っちゃいないがそんな言葉が相応しいと思えるほど猛々しく。
薄い毛布一枚じゃ誤魔化しきれないそれに気付いた葵先輩は隣で僅かに赤らめながらも、へにゃりと頬を緩ませ俺の名を呼んでくる。
汚れてしまったベッドに裸で微笑む裸の女性、そして勃ってしまいそうな僅かな性臭と朧気な記憶。
これだけ情報があって、ようやく寝起きの頭が回ってくれば、嫌が応にも理解せざるを得ない。
──そうだった。そういや俺、童貞じゃなくなったんだ。……夢じゃなかったんだな。
現在朝の十時を過ぎ、既に十一時手前。
今はテレビを付けていないが、恐らく朝のニュースは軒並み終わり、あまり見る機会のない平日の昼番組へと移行しかける殺。今日行くはずだった一限は完全に手遅れで、二限も今から行った所で遅刻に扱われるか微妙な時間だ。
ま、そんなことは別にいい。
普段頑張って探索者と両立させているのは、こういうときに行かないという選択肢を取るため。大学生ならむしろ、四年の間で何回かは私用を優先しておくべきだろう。
「……」
そんなことより、目下最大の問題は目の前の葵先輩の様子だ。
目の前に座りながらも、淹れてきたコーヒーにも手を付けず、どうにも縮こまって俯き続ける。
まるで協会で十字架を前に懺悔するみたいな、今にも泣き出してしまいそうな。
今日も出ている夏の日差しとは正反対な沈み具合に、別に普通の朝だってのにこっちまでどう声がけすればいいか分からなくなってしまう。
……あれかな。酔いと雰囲気に流されたけど、俺とヤったの後悔してるとか? そうだったら泣いちゃうかもな、俺。
「あー、先輩?」
「っ、あ、あの! ご、ごめんなさい! 昨日はあんなことしちゃって、本当に、ごめんなさい……!!」
俺が声を掛けると、この上なく肩を弾ませた葵先輩は地面に膝を突き、ごんと音が立つくらい勢いよく地面に額を付けて謝ってくる。
恐らくダンゴ虫でさえ驚嘆するであろう、世界有数の画家にだって描けない完成度の土下座。
年齢が違うとはいえ、どうすれば同じ大学生でありながらこの境地に達せられるであろうと感心してしまうも、すぐにそうじゃないと心を切り替える。
「謝らないでくださいって。それじゃ俺達、悪いことしたみたいじゃないですか」
「で、でもわたし、あんなに無理矢理……」
「合意だからセーフですって。大体、俺も……好きって言ったのに謝られると、逆に」
まあ確かに思い返してみれば半分襲われたようなものだけど、それで謝られるのは違うと思う。
先輩は知るよしもないが、本当に嫌だったら時間停止でいくらでも逃げられたし、何よりどんなに誘われたって家に付いていくなんてあり得なかった。
あわよくばとかちょっとした下心とか、そういうものがなかったなんてのはあり得ない。むしろ超あったし、例え一夜の過ちだったとしても役得でしかないのだ。
……それに、なんかとってもすごかったんだ。
俺も初めてで先輩も初めてっぽくて、どっかのヤリチンチャラ野郎が初めて同士の初体験なんて失敗がデフォって自慢げに語ってたのに、それでもなんかすげーってことしか印象ないくらいすげーって感じだった。この形容しがたい感動は、多分俺の語彙力じゃ絶対に表現不可能だ。
「えっと、それで葵先輩。確認したいんですけど──」
「あ、あの! 厚かましいとは思うんですけど、名前で呼んで欲しいなって……」
「あ、はい。……ごほん、夕葉先輩」
「は、はい♡ え、えへへ、えへへへっ……」
どうしよう可愛い。もう何この生き物、可愛くて可愛いからすんばらしく可愛いんだけど。
「ご、ごめんなさい。確認って? い、慰謝料の話……」
「違いますって。俺達、付き合ってるでいいんですよね。恋人ってやつになった……でいいんですよね?」
「え、えっと、あの……とめるくんが、いいって言ってくれるなら……そうなりたいです……」
ちょっと情緒不安定だなと心配になりながらも問うてみれば、先輩はこくんと弱々しげに俯きながらもそう言ってくれる。
どうやら昨夜の言葉は嘘だったとか、酒での暴走が故の間違いだとか、そういうことはないらしい。
……ま、別にいいか。俺は先輩のこと好きだし、先輩が嫌じゃないなら問題なんてない。
正直初めての告白や夜がこんな勢い重視になるとは想像さえしてなかったけど、先輩のこと好きだし問題ない。ちょっと惜しいことがあるとすれば、告白は一日デートした後にロマンチックな夜景と共に自分からしたかったな。
「えっと、はい。じゃあ改めて、こちらこそよろしくお願いします」
「は、はい! ……とめるくん」
「はい、夕葉先輩」
「とめるくん♡」
「夕葉先輩。……ふふっ、何か良いですね。こういうの」
そうして拍子抜けするほどあっさりとカップル成立を確定させると、互いに名前を呼び合ってしまう。
やばい、可愛いし楽しい。いつまででも見ていても、いつまで同じ事してても飽きないと思う。
まるでバカップルみたいな浮かれポンチ脳だとは自覚しているはいいんだもん。だって俺は今バカップルだもん。童貞卒業したリア充なんだもん。
「そうだ先輩。今日どうします? 一回帰りますけど、ダンジョン行きます?」
「……えっと、今日は一日一緒にいたいなって……駄目、ですか?」
「いいです。もちろんです。いっそもう一週間くらいは全休暇にしちゃいましょう。」
駄目じゃない駄目じゃない。むしろウェルカムでバッチコイ、余裕でオールオッケーと。
初めての彼女にそんな上目遣いで願われてしまえば、断る事なんて出来るわけもなく。
ちゃっちゃか家に帰って戸締まり万全にして、時間を止めて戻ってきたら一秒でも多くイチャイチャしちゃって。何なら今日も昨日みたいに激しく……でへ、でへへっ。
鏡を見ていなくても分かるくらい鼻の下が伸び、それはもう口元が緩んでいるのだろうと自覚しながら。
それでもこれからを想像して浮き足立ちながら、とりあえずはこの朝のコーヒータイムを楽しもうと思ったときだった。
こんなにも幸せな時間を邪魔してくるのは、特に個性のないデフォルト着信音。
どうせ俺のスマホだろうし坂又部長や叶先輩、或いは講義サボったから篝崎君からあたりだろうと。
どうだったら見なかったことにしようと決意しながら席を立ち、昨夜ソファの上に置きっ放しにしてしまったスマホを手に取って画面を見てみれば、そこに映っていた名は予想外の人物。
……え、八代さん? とんでもなく嫌な予感するから出たくないなぁ。
「えっと、もしもしぃ?」
『おおもしもし、時田のあんちゃんで合ってる……ってなんだおい、えらく声が緩んでるじゃねえか。さては何かいいことあったか?』
もう名前だけで憂いが爆発しそうだったが、出ないわけにはいかないと受話器を耳に付ける。
すると昨日振りの野太く大きな声が、コーヒー飲んだとはいえまだまだ寝起きでいたい頭にガンガンと響いてきやがる。
それにしても今の俺、そんなに声ゆるゆるなのか。ちょっと恥ずかしくなってくるな。
「ええまあ。それでどうしました? ダンジョンなら、今日は疲れてるんで遠慮したいんですけど……」
『実はよ、葵の嬢ちゃんにも連絡入れたんだが返事が来なくてな。お前さん、当てあるか?』
「……夕葉先輩なら一緒にいますけど、何かあったんです?」
『その分だと配信やニュースは見てねえようだな。……ああ、もしかして二人でお楽しみだったか? まったく若いってのはいいねぇ、ブッハッハ!』
やかましいわい。下ネタぶっこんでくるんじゃねえぞ、事実だけど。
『ま、そんなあっつあつのお前らには悪いんだがよ。──すぐに二人でダンジョン庁まで来てくれ。昨日の件だがよ、少しばかり厄介なことになっちまった』
大笑いしてきた八代さんは、今までの気の良いおっちゃんのような話し方は鳴りを潜ませながら、休日はなしだと真剣にそう告げてくる。
手で顔を押さえてそうだと想像出来るほどのに忌々しさに満ちた、暗に厄介事だと告げるような声色で。