食べに来たら食べられた
葵先輩の計略(違う)に為す術なく嵌まってしまい、一泊せざるを得なくなってしまった俺。
これはもう断ることが失礼にあたると、腹を決めたはいいものの。
女性の家に泊まるなんて前代未聞の事態にそれはもう緊張しながら、それまでの関係を壊すような間違いを犯さないよう決意して、恐らく人生で一番長くなるであろう夜に臨んだのだが。
『──それに私、これでも尽くす女なの。思い出にはなりたいけど、枷になんかなりたくないもの』
ただ今映画ご視聴中。もっと言えば、そのクライマックス。
いい感じに薄暗い部屋の中で、先輩の家にあったワインに口を付けながら、ソファで並んで視聴している。そんな何かカップルみたいなムードが充満したお部屋に、もう心と理性が折れてしまいそうなのが現状です。
幸いなことに、映画の中身はよくある泣かせに来るタイプのロマンス三次元邦画。
ひょんなことから主人公が迷い込んでしまった不思議な迷宮で、己の過去や罪と向き合いながらかつての青春に答えを出す的な可もなく不可もない話でしかないから、そこまで注力する必要はない。
だから問題は映画などではなく、感動しているのか隣でハンカチ片手に涙ぐんでいる葵先輩の方。
何故かこんなにも大きなソファだというのに、俺と葵先輩の合間は実に人一人分さえない程度。
ちょっと手を動かせばそれだけで先輩に触れてしまいそうな距離感で、啜り泣く彼女の声と艶めく唇が中々に心を殴ってきて仕方ない。
何ならいつもと違ってはっきりと見えてしまう胸元が、またごくりと唾を飲み込ませて仕方ない。
ちょっと手を伸ばせば届きそうな位置に、二つの小さくない柔らかな果実が……いけないいけない。煩悩退散煩悩退散、一方通行なえちえちいくない。信頼への裏切り駄目、よしっ。
「うう、雫ちゃん……」
そんな感じで必死に心の中だけで悶えていれば、さして中身の入ってこなかった映画はあっという間に終わりを迎えてエンドロールへ。
そんなに泣く所があったのかとか、確かにそこまで悪くはなかったが、こんなコッテコテなシナリオのどこにそんな感動出来たのかとか。
隣の先輩に色々と思ってしまいながらも、そういう風に考えたりしてしまう自分が擦れているだけなのだろうとちょっぴり恥じながら、恐らく聞かれるであろう感想をまとめながらワインを一口含む。
「ど、どうでしたか時田くん? 面白かったですか……?」
「ええと、中々面白かったです。正直最初は興味はなかったんですけど、いざ見始めたら悪くないことって多いですよね!」
「っ、そうなんですよ! この作品、元はネットに投稿されていた恋愛小説の実写化で想像よりずっと出来は良かったんですけど、やっぱり主演が若手俳優とアイドルだったことで評価が芳しくなかったんですよ! 去年その二人が結婚したことでちょっとだけ話題になって、少しだけ色眼鏡なしで評価されるようにはなったんですけど、やっぱり進んで観ようという人は少なくて、それでそれで──」
目をキラキラさせ、『蒼斧レナ』を語るときみたいに喜々として話していく葵先輩。
あまりに楽しそうに話すので、三割くらいはおべっかなことを申し訳なくなりながらも、先輩の気の済むまで耳を傾け続けた。
「それで……あ、す、すみませんまた一人で勝手に話しちゃって! ああもう、今日はこんなつもりじゃなかったのにぃ……」
「いいですって。前も言いましたけど、先輩が楽しそうに話している姿、好きなので」
我に返ったのか、頬を一気に赤く染めて顔を逸らしてしまう先輩。
むしろもっとどうぞと、そんなニュアンスで微笑を浮かべながら言葉を返してみれば、先輩は恥ずかしさを誤魔化すようにワインを一気に呷ってしまう。
そういう所が可愛くて、独り占めできているのがちょっとだけ嬉しくもある。
最近話題な人気者の青柳トワではない、あまり目立たなくも負けずに可愛らしい葵先輩。絶対に俺だけじゃないが、他人よりも近い距離感である事実が何よりも嬉しいのだ。
「本当に優しいですよね、時田くんは。そんなんだから、わたしは……」
「先輩?」
どうやら相当に酔っているのか、ぼそぼそと聞き取れない程度に何かを呟く葵先輩。
その言葉を境に沈黙と、何かしらの気まずさに場は包まれてしまう。
別に命の危機に晒されるダンジョンの中というわけでもなし、テレビも音を発さなくなったせいで、どうにも緊張してしまっている。ドキドキと、ついつい心臓を押さえてしまいそうになるほど。
「そ、それでどうします? 明日も大学ありますし、そろそろ休みませんか?」
「……そう、ですね。それがいいかも、しれません」
その場の空気を誤魔化すように提案すると、葵先輩は数秒間を置いてからこちらを向き、真っ直ぐに俺を見つめながら小さく頷いてくる。
まるで何かを決心したような、けれども酷い夢に拐かされているかのような。
そんな潤んだ瞳が、どうにも心をざわつかせてならず。
どうやって始めればいいかも分からないというのに、それでも思わず手が伸びてしまいそうだと、そんな熱に浮かされたような気持ちを振り払うようにソファから腰を上げた。
「わたしも寝ると時田くん、おやすみなさ……あれぇ?」
先輩も続くように立ち上がろうとした直後、酔いすぎていたのかふらついてしまうので支える。
こんなにも軽くて、小さくて、柔らかいのに、俺なんぞより遙かに強い探索者。
不意の出来事ではあるが、それでもこんなにも浮ついた心で先輩の体に触れてしまえば、間近で目を合わせてしまえば、ワインで緩んだ理性がどうにかなってしまいそうだった。
「大丈夫ですか先輩?
「……どうやら、少し飲み過ぎちゃったかもです。誰かと、時田くんとお酒飲むの、楽しくて、あははっ」
申し訳ないと一言謝ってから、両腕で先輩を抱きかかえ、寝室へと運んでいく。
そうして寝室の扉を開け、初めての女性の寝室に緊張しながら彼女のベッドに寝かせようとした。
その瞬間だった。
ベッドへ寝かせようとした葵先輩の姿がブレ、次の瞬間には俺がベッドへ背をつけてしまっていたのは。
「せ、先輩?」
「……ごめんなさい。わたし、もう我慢出来ないんです。だから、本当に、ごめんなさい」
頬を上気させ、息を荒くし、その綺麗な瞳を胡乱に揺らしながら。
うわ言で謝罪してくるも、それでも決して止まろうとはしない先輩は、未だ思考が追いついてくれない俺を逃がさないとばかりに跨り、そのまま唇を合わせてくる。
最初の一回は、創作の中で母親が赤子に落とすように優しく。
けれど次の瞬間には、小鳥のように何度も何度も啄み、やがては飢えた獣のように舌を入れて絡めようとしてくる。
初めてのキス。少し苦い、葡萄味の接吻。愛し合う者同士がすべき濃厚な口づけ。
それはあまりに官能的で、冒涜的で、そしてどうしようもなく暴力的で。
例え不意であったとしても、キスだけしかしてないとしても、俺が自分から求めたものではなかったとしても。
先輩を突き飛ばすことなんて出来ず、かといってどうすれば良いかも分からず。ただただ突然の行為を受け入れ、その身を委ねる他なかった。
「……はあっ、好きです。時田くん、とめるくん、好き、大好きです……!!」
垂れた唾液が繋がり、俺達が繋がったという証の架け橋となり。
それが目に入って、本当にキスしたんだなと他人事のように思ってしまっていると、先輩は本能に支配されたみたいに再び唇を重ねてくる。
……先輩にそう思われてるなんて、そんな風に思ってくれているだなんて、気付かなかった。
先輩のことは気になっていたけれど、それはあくまで淡い片思い。
ずっとそう思っていた。だってこんなにも魅力的な人が、俺なんぞにそんな矢印を向けるなんて想像さえ出来なかったから。
好きなことを話しているときの笑顔が可愛い。
ダンジョン内や配信中は頼もしく、普段はどこか抜けているそのギャップがグッとくる。
先輩が美少女だから、推している配信者だからなんて汚い欲望がないとは言わないし、きっとそれらも多くを占めているのだろうけど。
それでも、例えそうだとしても、きっとそれだけが全てじゃない。
この半年近く接してきて、近くで見てきた先輩の想いや言葉は、きっとどれもが愛おしくて。
だからこんなにも唐突で強引でも、一歩間違えば関係が終わるような強行だったとしても、嬉しさとそれ以上という思いでいっぱいになってしまう。それが恋だというのなら、きっとそうなのだろう。
あくまで性欲でしかないのか、それともこれが、これこそが恋心というやつなのか。
どちらでもいい。どうでもいい。何が正解だろうと構わない。
だってこんなにも心臓が弾み、目の前の彼女が愛おしく見えるのだから、どれも同じ事。例えこの思いが、この熱が一過性のものだったとしても、俺はそれでもいいと思えたのだから。
「俺も好きですよ、葵先輩。そんな顔しなくても、俺だって、あなたが好きですから」
だから先輩の背に手を回し、彼女の告白の返事をしながら、ゆっくりと上下を入れ替える。
過程や発端がどうであれ、この熱に身を委ねると決めたのなら俺だって受け身なだけは嫌だと。
何よりこんなにも可愛くて、愛らしい先輩をもっと良く見たいという気持ちを、もうこれ以上は抑えられそうになかった。
「えっと、すみません。俺初めてで、上手く出来ないかもで」
「……大丈夫、わたしもです。わたしでそうなってくれるなんて、本当に、嬉しいです……」
こんないきなりでいいのかと思いながら、それでも時間を止めて離そうという気にはなれず。
すっかりその気になってしまった下を、先輩の指はそれを優しく撫でながら、本当に嬉しそうに目を細めてくれる。
……そうだ。するなら、あれないと。でも買ってないし、でも付けないわけには──。
「あのこれ、よかったら、買っておきましたので」
葵先輩がベッドのそばから取った小さなそれは、そういう行為をするのであれば必要なもので。
するとは思わず、用意していなかったので日を改めようと。
そんな理性による唯一の逃げ道さえも塞がれてしまっては、最早引き下がることなんて出来そうになく。
もしかしたら、すべては先輩の手のひらの上だったのかもしれないと悟りながら。
敵わないなと小さく微笑みながら、差し出されたそれを受け取ってから、今度は自分から先輩に唇を重ねていく。
明日の講義は出られそうにないが……まあ別に、一日くらいは構いやしないか。
何せこちとら、二年間休まずに通っていたんだ。例え明日がテストだったとしても、ダンジョンの明日が危うかったとしても、こんな夜くらいはどうか後のことなんか何も考えずにいたかった。