もしかしたら、手のひらの上だったかもしれない
思うに、人の家の風呂場というのはトップクラスに緊張する場所であると俺は思う。
そもそも風呂場とはその家に住む人が毎日服を脱ぐほど無防備になり、裸になって憩いの一時を過ごす安全地帯。
例え家主の匂いなんてものがなくたって、使っている女性向けの高そうシャンプーや石けん、彼女の生活の名残が垣間見えてしまう。男子大学生にとっては毒そのもので、いやむしろ特筆すべき点が何もないからこそ余白があり、かえって想像を引き立たせてきてしまうのだからタチが悪い。そんな場所だ。
そう、人の家の風呂。もっと言えば女性の、それも葵先輩が住んでいるお部屋の風呂場。
なんでこんなどうでもいいことを考え始めたかと言えば、どんな間違いを重ねれば辿り着けるのか分からないが、それでも事実として俺はいるからだ。それも全裸で。
葵先輩の家の風呂場。
うちの絶対に足を伸ばせないほど狭っ苦しくボロい浴槽のみのユニットバスとは違う、足が伸ばせる浴槽があり、同じ部屋にトイレがなく、壁からして住処のお家賃のほどを窺わせてくれる羨ましい浴室だ。
「……はあっ」
だというのに、ちょうどいいお湯を浴びながらも、この口から出てくるのはため息ばかり。
理由は単純明快。葵先輩が普段使ってる風呂場だと思うと緊張する、そんな思春期染みた情欲のせいで
どうしてこうなったのかと聞かれれば、断れなかったと一言で表すしかない。
流石に一人暮らしの女性の部屋へ、それもこんな夜更けにお邪魔するのは非常によろしくないと。
俺の断ろうとしたものの、強い決心を秘めた瞳と緊張しているとばかりに震える手に根負けしてしまい、軽くコンビニに寄ってからお招きに預かった。それだけだ。
……ほんと、どうしてこうなったんだろうな。俺はただ、
いかんいかん。こういうときこそお水シャワー、いけない情欲の炎と下の猛りを収めなければ。
心頭滅却煩悩退散、南無阿弥陀仏寿限無寿限無五劫の擦り切れ……うん、後半はなんか違う気がする。
人の家で勝手に湯を張るわけにも、そして湯船に浸かるわけにもいかず。
そして何時までも入っているわけにはいかないとシャワーを止め、体を拭きドライヤーで髪を乾かしてから、何故か用意されていた男性用のスウェットに袖を通していく。
……しっくりくるサイズなのは良いんだけどさ、どうして着る服が用意されているのだろうか。
そもそもご飯をいただいたら帰るつもりだってのに、これじゃまるでお泊まりするみたいじゃないか。
そして流石にパンツまで用意されていると、ちょっと奇妙に思えてしまわなくもない。ボクサー派の俺にボクサー、偶然かな?
あれかな。家族の話とか聞いたことないけど、実はお兄さんでもいてたまに来るかストックされていたりとか? ……じ、実は彼氏いるなんて絶対考えてやらないんだからね! ね!
「あ、上がったんですね。ではわたしもお風呂はい……っ」
「シャワーありがとうございます。……えっと先輩、葵せんぱーい?」
「え、あ、わ、わたしもお風呂入ってきちゃいますね! す、少しだけゆっくりしていてください! はい!」
一瞬、こちらを見て顔を上気させた葵先輩は、パタパタと逃げるように浴室へと駆け込んでてしまう。
……普通こういうシチュと反応って性別逆だと思うのだが、何か癇に障ったりしちゃったかな。
もしやこの数ヶ月の出来事で、俺の魅力が天井突破でもしてしまったのではないかと。
そんな自惚れを得ながらも、風呂上がりの姿なら以前の同居生活で見せたこともあるので関係ないだろうと、人差し指で頬を掻きながら自らの自意識過剰っぷりを恥じるほかない。
まあ、気にしなくても良いか。あんま深く聞いたらセクハラになっちゃうかもしれないしな。
しかしあれだ、この部屋超絶広いな。
テーブルに一人用のソファにテレビが楽々と置けちゃうのに、恐らく寝室か、それとも時々青柳トワの配信で見られる配信部屋がリビングとは別で設けられている。
ベッドが部屋の半分を占め、辛うじてユニットバスが付いてるだけのマイルームとは雲泥の差って感じ。外観から別格なのは察していたが、それでも実際に入ってみると想像以上。一人暮らしの一般大学生には分不相応な、二級探索者の中でも稼いでいなければ入居も出来なさそうなすんごい部屋だ。
……どうしよう。今になってあんな狭い部屋に泊めてた事実が恥ずかしくなってきたんだけど。
やっぱり格好なんて付けずにホテルをおすすめしておくべきだったか。ま、過ぎたことがいいよで乗り切るしかないのだろう。うん。
最近は自分の懐を嘆くばかりだと、湧いてしまった嫌な思考をぶるぶる頭を振って切り替え。
勝手に冷蔵庫を開けるわけにもいかないと、手を合わせてからいただいた水道水さえ自宅のクソまず水とは違うことに戦きつつ、どさりとソファに腰掛けながらぼんやりニュースでも見ていることにした。
『アメリカにある世界最大クラスのダンジョン、エリアEの深層から発見されたエリクサーが発見されてから十二年ほど経ちますが、未だ新たな伝説級のダンジョン宝具が発見されたという話はありません。先日発見された第五階層、そして第十五階層にいずれにも存在しなかった宝が発見される日が来るとは思いますか?』
『可能性は十二分にあると思いますよ。日本はダンジョン庁が定める規則の都合上、深層へ踏み入る機会がほとんどないですからね。いずれにしても、世界でまだ二品のみしか発見されていない、理さえ超えた奇跡を生み出す伝説級のダンジョン宝具は探索者だけではなく多くの者の悲願です。願わくば、私が職から退くまでには見つかって欲しいものです』
スマホ片手にちょうどつけたニュースでは、おっさんと女子アナが何やら深そうなトークをしている。
どうやらダンジョンの宝、それも伝説級についての話をしているらしい。別に発見されたわけでもないってのに、こんな夜の報道番組にわざわざ特集組んで話す内容かよ。
失った部位さえ再生させ、ボケた脳さえ並の若者を凌ぐ活気を取り戻させる万病薬。
かつて発見された第一の伝説級にして、人類の醜い欲のために失われた死者と会話出来る鏡。
普遍の摂理さえ平然と凌駕せし、伝説級のダンジョン宝具。
如何様な効果であれ、もしも発見されれば人生を百回遊んで暮らしたとて底が見えることのないほどの大金が、そして自らの手中に収めようと企む欲深き者が動くとされており、まさに世界を動かすきっかけである。
この世の理を凌駕する宝ねえ。面白いとは思うが、欲しいとは思わんな。
手にした所で面倒事の方が多そうだし、どうせ人類未解明領域こと深層にしかないだろうしな。一級探索者という限られた資源を無駄にしないために、ダンジョン庁が踏み込むことさえ許可しないような場所の宝なんて無縁も良いところだよ。
ああでも、強いて言えばエッチな本に出てくる催眠アプリとかあったら面白そうだよな。
ああいうのを手にしたらどんなことするんだろうって考えて、結局日和って何もせずに終わるんだろうなで締めくくるまでが寝るまでに妄想する一連のお決まり。時間停止を手に入れる前、チートがあれば何か変わると夢見ていた高校時代は随分とお世話になったものだ。
「お、遅くなってすみません! 今ご飯用意しますからね!」
もしかしたら、大学生になった俺ならば新たなルート開拓も出来るんじゃないかと。
現実的な経済のトピックに移ったニュースをBGMにしつつ、久しぶりに妄想でもしようかと目を閉じようとしたとき、あわあわと葵先輩の声と足音がリビングに鳴りだしたので手伝おうと立ち上がり、ゆっくりと先輩の方を向いて──ごくりと、唾を呑んでしまう。
淡いピンク色のファンシーなパジャマを着た葵先輩は、以前部屋のシャワーを貸していたときや、銭湯の後に見たようなときとは雰囲気が少し異なっている。
心の底から安らいでいる安心感の中と、まだ心なしか赤らめている頬の色めかしさ。
かつての同居生活のときの先輩も中々破壊力があったが、はっきり言ってそのときの三倍くらいは強烈に女の魅力に溢れた彼女は、とても童貞が一瞬で処理出来るものではない。
……こういうのもあれだけどさ、美少女ってすっぴんも可愛いんだからズルいよな。
「あ、あの、時田くん?」
「ああ、すみません。ちょっと刺激的で……ああ何でもないです! それより何か手伝えることあります!?」
見惚れて固まってしまっていた俺を、心配そうに覗き込んでくる葵先輩。
ちょっと気まずい空気になりながらもすぐに再起動して尋ねれば、先輩は少し戸惑いながらも「大丈夫なので少しだけ待っていてください」とやんわり拒否されてしまったので大人しく椅子に座って待っていることにした。
「ふんふんふーん♪」
てきぱきと、鼻歌交じりに支度を進めていく葵先輩。
可愛い、ただひたすらに可愛い。どうしてこんなに可愛いんだろうな、ちくしょうめ。
そうして瞬く間にテーブルの上に準備されたのは、先ほど炊けたであろうほっかほかの白米。
そしてビーフシチュー。ビーフがふんだんにゴロゴロとした、白いお皿に盛られた茶色のシチュー。
お肉の他にもにんじんやらじゃがいもがサイズ大きめで入っていて、食欲をそそる香りで鼻を擽って止まない魅惑の一皿だった。
「す、すみません。わたしから誘ったのに、こんな作り置きしか出せなくて……」
「い、いえ、とっても美味しそうです。めっちゃ美味そう」
こんなものと、まるで教師の説教を受ける小学生くらい申し訳なさそうにしてくる葵先輩。
だがどう考えても謙遜なんて必要ない立派な一皿を前に、ごくりと言葉も唾を飲み込んでしまう。
こ、これが恥じるグレード……? 俺の部屋の冷蔵庫には、こんな作り置きが入っていたことなど一度たりともなかったが……? そんで極めつけにはお店で出てくるやつにありがちな白い何かもかかってるじゃないか、これもうお店のやつだろ……?
やはり女子力、圧倒的女子力によるスペシャルクッキングこそ世界を支配する鍵なのだろうか。
結局男女問わず、最後に人が焦がれるのは母性ってことなんだよなぁ。……なんで料理を前にしただけなのに、こんなきっしょい感想浮かんじゃうんだろう。相当お腹減ってるんだろうな、多分。
「た、食べて良いですか……?」
「ふふっ、どうぞ召し上がってください」
「っ! い、いただきます!」
恐らくだが、餌を目の前に置かれた犬みたいな顔でもしてしまっていたのだろう。
口元に手を添えて微笑みながら良しと言ってくれた直後に、先輩の前だというのにはしたなくスプーンを掴んで食べ始めてしまう。
一口放り込めば、たちまち広がるのは濃厚な肉とシチューの旨味。
しっかりとした牛の感触とコクを感じながらも、決して肉の臭みを感じないビーフシチュー。
火の通ったじゃがいもはホクホクと、そしてにんじんの甘みがしっかりとアクセントになっていて飽きを来させない。
はふはふ、うま、うまっ。あー美味しい、めちゃんこ美味しい。
夜も大分良い時間だから食べると太るけど、そんなの気にしなくていいやってなっちゃう。
久しぶりにまともな料理食べてるってのもあるし、いつぶりの米ってのもあるし、そういうの以前に初めて食べる女子の手料理ってだけでもう百万点。これに比べたらちょい高い店のイタリアンなんて、所詮はいつか食べに行けばいい店でしかないね。
何だかんだ同居生活のときは、お客様に家事とかさせられないと俺が全部やってたからな。
え、火村さんとのBBQ? あれは別枠、そもそもホットプレートで肉焼くのを料理とは言わんでしょ。そもそも料理出来んのかな、あの人。
「ふふっ、おかわりもありますよ?」
「いいんですか!? ……あ、いえ、いただきます。はい」
そうこう考えながら食べていると、あっという間にお皿の中は空になってしまい。
これで終わりかと落ち込もうとしていると、何と葵先輩からおかわりの打診があったので勢いよく食い付いてしまう。
「ご、ごちそうさまでした。美味しかったです」
「お、大げさですよぉ……。実は人に料理を食べてもらう機会なんて初めてなので、美味しいと言ってもらえて嬉しいです」
そうして結局二杯もいただいてしまい、出してもらえた温かなお茶で胃を整えながら礼を伝えると、先輩は両手を頬に当てながら恥ずかしそうに顔を緩ませる。
いや、実際まじで美味しかったな。俺がミシュランだったら三つ星あげちゃうくらいの出来だった。
ビーフシチューかぁ。名の通り牛だから中々手は届かないが、今度お金入ったら自作してみよっと。
「あ、お皿洗いなら任せてくださいよ。その筋十年以上、完璧にこなしてみせますから」
「……えっと、食洗機あるので大丈夫ですよ。……すみません」
いたたまれなくなった空気の中、葵先輩は硬い苦笑いをしてから顔を逸らしてしまう。
しょくせんき。……あー、確かにいい部屋住んでるとそういうのあってもおかしくないよね。うん。
この空気どうしようかなと、誤魔化すように部屋に掛けられた時計へ視線をずらしてみれば、時間はちょうど十一時を過ぎた頃と中々絶妙な時間を示している。
……明日も普通に大学あるし、だらだらしてたら終電なくなっちゃいそうだし、お暇するにはちょうどいい頃合いかな。
別にこの空気が気まずいから逃げるわけじゃない。か、勘違いしないでよね! ……誰が?
「それじゃ、そろそろお暇させていただきます。今日は色々とありがとうございました」
「え、も、もう帰っちゃうんですか……?」
「え、そりゃまあ結構遅い時間ですし、明日もあるんでそのつもりですけど……」
そうして最後に一口お茶を飲み干してから、お礼を言いながら立ち上がり元の服に着替えようとした。
だが葵先輩は、まるで俺が帰ることが予想外だったとでも言うかのように固まってしまう。
……なんですかその帰って欲しくないみたいな上目遣いは。
まるで帰って欲しくないみたいな、このまま泊まって欲しいみたいな童貞殺しの表情は。
俺とて一応タマと竿付いた成人男性なんですよ? 先輩が無防備なだけかもしれないけど、それはちょっと勘違いしちゃっても仕方ないと思いますよ?
完全に予定外な引き止めをされてしまい、思わず時間を止めて長考してしまう。
嗚呼ヘルプ、どうか助けて叶ペディア。
こんな創作めいた状況、生粋の童貞じゃ正解なんて分からないんでヒントの一つくらいは欲しいんですが……!?